An die Musik 開設7周年記念 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」

ベートーヴェン篇
ベートーヴェンの7番を聴く−私のディスク遍歴

文:松本武巳さん

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 はじめに

 

 伊東さん、7周年おめでとうございます。私だけが乗り遅れてしまって大変申し訳なく思っています。最近私は、きちんとした原稿の執筆は愚か、ディスクを聴く時間すら取れず、遺憾ながら今回はパスさせて頂こうかとすら、一時は考えました。しかし、私以外の執筆者の皆様は、全員がお忙しい中、熱のこもった原稿をすでにお寄せになられていることを考え、私も拙い文章しか書けませんが、7周年を迎えられたせめてもの記念とお祝いとして、このエッセイを残させて頂くことにしました。

 ここで私は、まったくの自由な形式で、ほとんど推敲もせず、徒然なるままに書かせて頂きました。したがって、この駄文で取り上げるディスクを聴き直して書いておらず、脳裏のかすかな記憶をたよりに綴っておりますので、記憶違いや、ディスクの正確なデータの誤謬等多々あるかと存じますが、An die Musikの7周年に免じて、何卒ご寛容にお願いするものであります。

 

 出会いのディスク

 

 この交響曲との出会いは、なぜかEMIが録音した、アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリンフィルのステレオ録音でした。8歳の時のことです。実はこの曲だけではなく、交響曲全集があったのですが、実は結構お気に入りであったのですね。初めてのベートーヴェン全集がこのディスクであったことは、今なおとても幸せであったと思っています。

 

 フルトヴェングラーかカラヤンか

 

 1950年録音のフルトヴェングラーのスタジオ録音(EMI)との相性があまり良くなく、いまだにこの名盤の真価を理解しておりません。その後、40年代のライヴ録音を中心にフルトヴェングラーの7番を多く聴いたのですが、結果的に7番に関してはフルトヴェングラーとの幸せな邂逅はいまだに訪れておりません。

 一方のカラヤンとの出会いは、60年代初頭の全集(DG)でした。こちらもあまり良い印象を持ちませんでした。その後、70年代の全集、80年代の全集、デッカヘのウィーン録音等も聴きましたが、結局同じイメージのままでした。さらにSP復刻盤(DG)でも印象が変わりませんでした。ところが、最後に入手したEMIへのモノラルの全集で、初めてカラヤンのベートーヴェンに納得できたのですね。これを最後に聴けたおかげで、カラヤンのベートーヴェン演奏に、失格の烙印を押さずにすんだことを感謝しています。

 

 セルとショルティ

 

 セルのクリーヴランドでの全集(CBS)の世評が高かったために、CD化された際にさっそく買い求めて聴きましたが、アンサンブルの充実感があった反面、響きの薄さが気になり、結果としてラックの奥に収まってしまっています。しかし、その精緻な読譜と、美しいアンサンブルに惹かれる方がいらっしゃることは良く理解しているつもりです。

 一方で、ショルティですが、2種類のシカゴでの全集(DECCA)をともに聴きましたが、70年代の全集では、奇数番号の交響曲に関しては結構満足できました。特に3番と7番はお気に入りでした。しかし、80年代の再録音では、ベートーヴェンとしては違和感が大きくなってしまいました。むしろ50年代のウィーンでの録音を、面白いとか、スリリングであるとかの理由で、高く評価される方もいらっしゃると思います。

 ハンガリーの指揮者を一まとめにするのも随分と乱暴だとは思いますが、その他のハンガリーの指揮者たちは、ここではコメントを遠慮させて頂くことにします。

 

 クレツキとスィトナー

 

 今度は東欧出身の2人でありますが、クレツキの全集が意外なほど気合のこもった部分がある反面、当時のチェコの優れた弦楽器群を生かしきれていないようにも感じます。そのためか、良い印象を持つ部分もありますが、チェコ人によるベートーヴェンであるという感覚は、相当に希薄であると思います。

 一方のスィトナーは、DENONの音作りの関係もあると思いますが、非常に穏健な、かつ堅実な音楽になっており、このためか7番の交響曲に関しましては、とても残念ですがあまり魅力を感じませんでした。

 

 最近の話題盤より

 

 まず、エンリケ・バティスの演奏(メキシコ自主制作盤)ですが、良く爆演と言われるのですが、ただ単に荒っぽい部分や、アバウトな部分が多々感じ取れるために、少なくともベートーヴェンとはミスマッチだと感じます。特にきちんと振り、きちんと演奏することが強く求められると考えられる7番などは、やや崩壊した演奏にすら感じました。

 まったくの反対が、小澤さんの初の全集でした(フィリップス)。今度はあまりにもキチッと整いすぎているために、息詰まりと言いましょうか、余裕の無さを感じてしまうのですね。実際には余裕を持って演奏しているのは間違いないと思うのですが、印象としてはそのように感じてしまいました。

 

 ロシア人の演奏

 

 大変に申し訳ないのですが、ムラヴィンスキーもザンデルリンクもロジェストヴェンスキーも、その他ほとんどすべてのロシア人の演奏するベートーヴェンの7番にお気に入りのディスクはありません。決してベートーヴェン全体に対して言っているのではありません。7番に固有の問題です。7番の性格的な部分が、ロシア人の気質に合わないのか、あるいは7番に求めるものが、私とロシア人ではまったく異なっているためかのどちらかでしょう。これ以上のコメントを控えたいと思います。

 

 イギリス人の演奏+イギリスのオーケストラの演奏

 

 ボールトもロッホランもバルビローリもコリン・デイヴィスも私の肌に合いません。イギリス人のベートーヴェンを私はまったく好みません。上記のなかで7番の録音が無い指揮者も混じっていると思いますが、ほとんど聴きたくないとすら思います。

 この考えは、サイモン・ラトルの全集を聴いてもまったく変化がありません。ドイツ音楽とイギリス人の気質のズレは、ロシア人とのズレの比ではないと感じます。ロシア人のベートーヴェンは曲によってはとても聴いてみたいと思います。しかし、イギリス人のベートーヴェンは聴きたくありません。

 ところが、イギリスのオケが演奏したベートーヴェンには名演が意外なほど多く残されています。典型例が、オットー・クレンペラーの残した3種類のフィルハーモニアオーケストラとの7番などが挙げられます。ところが、面白いことに、イギリス人はクレンペラーの7番を、55年録音が最高で、60年録音は普通(交響曲全集に収録された音源が、LP時代には60年録音であったのに、CD時代に入ると55年録音のステレオ音源が発見されたこともありますが、55年録音に差し替えられております)。68年録音は良くないと評価されているのですが、私はまったく正反対で、68年録音に強く惹かれております。どうやらベートーヴェンに求めるものが、私とイギリス人とでは決定的に異なっていることのひとつの証拠としても、クレンペラーの一件は使えそうですね。

 

 クラウディオ・アバド

 

 ベートーヴェンの7番の録音で、60年代後半(DECCA)に颯爽と登場したアバドですが、80年代の全集(DG)辺りが頂点であったようで、DGへの再録音(ベルリンフィル)では、ベートーヴェンの音楽とは異質になってしまいました。しかし、私は80年代のウィーンフィルとの全集はお好みの全集で、かつ7番はそのなかの白眉だと信じています。ジャケットで使われたクリムトの絵とともに、私の思い出の1枚として大事にしていますし、最近でも時々聴き直しています。

 

 ロリン・マゼール

 

 CBSへの70年代の全集がようやくCD化されましたが、当時のマゼールの評価が二分されていることを理解したに過ぎません。しかし、彼に実は再録音を期待しているのです。それもトスカニーニフィルを起用しての再録音を強く望んでいます。

 

 カルロ・マリア・ジュリーニ

 

 70年代初頭のEMI盤にとても惹かれた私ですが、最晩年のSONY盤はついて行けませんでした。ジュリーニが光り輝いていた時期は意外なほど短期間であったと思います。ただ、その時期に集中的に優れた録音が残されたことは、リスナーにとってはとても幸せなことだったと思います。

 

 オイゲン・ヨッフムとベルナルト・ハイティンク

 

 ヨッフムにはDG盤、フィリップス盤、EMI盤とあり、それぞれが50年代、60年代、70年代の代表盤とも言えると思います。特に70年代のロンドンでの録音は名盤ですね(そう言えばこれもイギリスのオケですね)。最近60年代のコンセルトヘボウとの全集が若干話題を呼んでおりますが、それであるならば最晩年のBMGへのバンバルク響とのチクルスも忘れたくありません(7番の交響曲から離れた話題になってすみません)。

 一方のハイティンクですが、こちらも70年代にロンドンで全集を作った後、コンセルトヘボウとの全集を残しています。こちらは世評どおり、両者の録音には天と地ほどの差がありますね。よほどの奇人変人でもない限り、コンセルトヘボウとの全集で十分ではないでしょうか? そう言えば、この全集は5番と7番の組み合わせが出た後、いきなり全集になりましたね。5番と7番の1枚を余分に持ったままの方も多いのではないでしょうか?

 

 カール・ベームとギュンター・ヴァントにチャールズ・マッケラス

 

 日本で晩年に神様扱いされた二人の指揮者は、ともに私には謎の指揮者であったとしか言いようがありません。まず、ベームの残したディスクは、大満足が大不満のどちらかに真っ二つに分かれます。7番は私には『ハズレ』でした。75年日本ライヴも同様です。ファンのみなさま、ごめんなさい。

 一方のヴァントは、少なくとも私は最晩年に何らかの変化があったようには受け取っておりません。最近テスタメント社から復刻されたベートーヴェンとBMGへの全集の基本姿勢に異なる印象を持ちません。最晩年のブルックナーも同様です。結果的に大きな興味を持たずに終わってしまいました。

 ここで、チャールズ・マッケラスの全集を取り上げます。EMIへの全集での7番は意外性があって好きな側面も多々ありますが、このディスクの欠点は、クーベリックのウィーンフィルとの7番と同様に終楽章にあると思っています。3楽章までの7番は全集の評価とは切り離して考えると、とても好演だと感じます。

 

 ラファエル・クーベリック

 

 70年のバイエルン放送交響楽団とのディスクは大変な名演で、私がクーベリックのページを伊東さんから引き継いだ際の第1回に取り上げたほどであります。しかし、ウィーンフィルとの全集のなかの7番は、終楽章の不満が大きいのですね。もっとも第1楽章から第3楽章が極めて優れた演奏であるが故の、終楽章の不評ですので、考え方を変えてみますと、全体的な評価をすれば高ランクなのかも知れませんね。

 

 レナード・バーンスタイン

CDジャケット
バーンスタイン指揮ボストン響のCDジャケット

 最後にバーンスタインについて書きたいと思います。CBS盤の7番を聴いたためにバーンスタインが嫌いになったのが中学1年生のときでした。高校3年のときに出たウィーンフィルとの全集(DG)が大変な評判になったときに、乗り遅れたくないので買って聴いたのですが、決して悪い演奏とは思いませんでしたが、バーンスタインの適性がベートーヴェンに無いことを確認したに過ぎませんでした。

 では、なぜ、この駄文を閉じる指揮者が彼なのでしょうか? それは、彼のラスト・コンサートでの交響曲7番の虜になってしまったのです。42分以上もかかったボストンでのこのコンサートは、バーンスタインの彼岸の音楽として愛されているとは到底言えません。むしろ最晩年の悲劇的な演奏として、葬り去られていると考えるのが妥当なのでしょうね。しかし、私にはこの7番の演奏がもっとも心に直接響いて来るのです。この評価は10年以上にわたって不変です。

 

 駄文の最後に

 

 7番の交響曲が、ベートーヴェンの交響曲中、実際にはもっとも演奏機会が多く、好きなファンも多いのではないかと考えています。そんなベートーヴェンの7番を思うままに気ままに書き綴ってみましたが、意外な長文になってしまい申し訳ありません。最後までお付き合いくださった読者のみなさまに心より感謝申し上げます。

(2005年11月19日記す)

 

■ 伊東からの注釈 バーンスタイン盤について

 

ブリテン
4つの海の間奏曲(歌劇「ピーター・グライムズ」作品33から)
ベートーヴェン
交響曲第7番イ長調作品92
バーンスタイン指揮ボストン響
録音:1990年8月19日、タングルウッドにおけるライブ
DG(国内盤 UCCG-4083)

 

(2005年11月25日、An die MusikクラシックCD試聴記)