An die Musik 開設7周年記念 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」

ブルックナー篇
朝比奈隆のブルックナー 〜きれぎれの思い出とともに〜

文:msmchgcさん

ホームページ WHAT'S NEW? 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」インデックス


 
 

1.冗長な前書き

 

 ブルックナーの7番という曲は、私にとって忘れることの出来ない思い出とともにある曲です。というのは、3年前の秋、NHKで放映されたヨッフム/ACO(アムステルダム・コンセルトヘボウ管)の来日公演の模様をたまたま目にし、甚く感動、クラシック好きとしての今日に至っているからです。早いもので今度は「高校」から「大学」受験を迎える身になってしまいました。そんな思い入れがあるものですから、今回の企画に是非参加させていただきたく思い、こうして駄文を認めることにしました。

 今回取り上げさせていただくのは、件のヨッフムではなく、日本が誇る名指揮者・朝比奈隆 ―ここでは先生と呼ばせてください― が遺した名演についてです。「朝比奈といえばブルックナー」というのは衆目の一致するところだと思いますが、没後4年が経とうとする今日、所謂「ファン」とそれ以外の方との評価の間に齟齬が生まれている気がしてならないのです。それは「誤解」と言ってもいいものなのかもしれません。このところ、私自身カラヤンに対して抱いていた「誤解」が解けるにつれ、この「誤解」というのは実に不幸なものだという思いを強くするようになりました。そこで、朝比奈先生を心から尊敬し(自分で言うのもなんですが…)、その芸術を愛する者の一人として ―自分自身を見つめ直す意味でも― この機会をお借りして多くの方々に自分なりのアプローチをしたいと思い、本稿を認めるものです。尤も10種を超える録音の全てを聴いた訳ではありませんし、手持ちのスコアもノヴァーク版で詳しく書けない、しかも先生の実演には接していない、という甚だ勉強不足な状態ですが、何卒ご了承下さい。「そんなことで書く資格があるのか!」という感じですが…。

 

2.還暦のライヴ録音

CDジャケット

交響曲第7番 ホ長調(ハース版) (以下の録音も同様)
朝比奈隆指揮日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1968年12月10日、東京文化会館
EXTON(国内盤 OVCL‐00160)

演奏時間 20:47 22:03 9:34 12:44

 本盤は先生の没後発売されたもので、現況聴ける先生のブルックナーのうち、最も古いものです。当時還暦の先生が一体どういうブルックナーをやっていたのか、極めて興味深いものがありました。

 「朝比奈と言えばインテンポ」という印象の強い方も多いと思いますが、これは概して90年代に入ってからのスタイルで、それまでの先生は重厚でオーセンティックな音楽造りは変わらずとも、時にはテンポの揺れも伴ったかなり豪快な演奏もする方でした。しかしブルックナーでも、例えば7番で言うと、第一楽章冒頭のチェロの主題を唸り声と共に強い感情移入で弾かせたり、後年に至っても内に秘めたロマン気質は人一倍の方だったと思います。

 ここでの演奏ですが、やや強めの音量で開始される第一楽章から、既に後年同様のスタイルが伺えます。また第一楽章コーダのアッチェレランド指定無視による壮大な盛り上がりは、後年ほどではないにせよ、ここでも既にためされていて、ブルックナーを取り上げ始めた頃から先生が独自のスタイルを確立していたことが伺えます。その反面、―先生自身も語っていらっしゃるように― 影響を受けていらしたフルトヴェングラーほど劇的なアッチェレランド・リタルダントなどは無いものの、晩年の演奏のみをご存知の方なら随分驚かれるであろう、テンポの動きの大きな演奏であることも事実です。金管の強奏も鋭い。一方で沸き立つエネルギーがそのまま投影されたような、ドラマティックな側面のあるブルックナーだとも思います。

 アダージョも同様に緩急の差をつけることによって、表情を描き分けんとするものです。フレーズの切れ目でのリタルダントなど、ロマンティックなテンポの揺れを随所に聴くことが出来ます。このアダージョで最も興味深いのは、ハース版を基本としつつもクライマックスで打楽器が加えられている点でしょう。この演奏が先生の3回目のブル7であり、後に触れます75年の演奏ではもう打楽器が加えられていないことから、ごく短期間にのみ見られた解釈と思われ、大変貴重な記録だと思います。

 スケルツォ・終楽章は非常にパワフルで豪快な演奏だと思いますけれども、ただ急いだだけのような雑な印象を受けることは否めません。例えば、終楽章の入りなど、即興風に過ぎて雑に聴こえます。

 このように、晩年の先生の演奏とは良くも悪くも異なっており、単にドキュメントとしての価値に留まらないものは、確かにあると思います。寧ろ、こういうスタイルのブルックナーの方がいいとおっしゃる方もいらっしゃると思います。

 尚、録音は当時のものとしては上々。オーケストラも、勿論今日とは比べ物にならないながら、しっかりとした弦を始め、十分健闘しているのではないかと思います。金管に少し難があることは指摘できます。

 

3.「伝説の」名演

CDジャケット

朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
録音:1975年10月12日、聖フローリアン・マリモアザール
Victor(国内盤 VDC‐1214)

演奏時間 22:49 25:01 9:34 15:23

 大フィル初の欧州楽旅に於ける録音のひとつ。言わずと知れた録音だと思います。日本人指揮者の録音が、名盤ガイドなどで挙げられる、数少ないもののひとつではないでしょうか。私もこのCDで初めて朝比奈先生の録音を聴きました。しかし、正直申しまして、その時はあまり良さが分かりませんでした。実のところ、長いこと「これは本当に最高の名演なのか」という思いが払拭しきれず、今回朝比奈先生のブルックナーについて書こうと思ったのも、ひとつには今一度改めて聴き直してみたいと思ったからです。

 まず、この録音があらゆる意味で特別な演奏であることは間違いありません。会場も、あの奇跡の如き鐘の音も…。先生も特別の思いで指揮台に立っていらしたことでしょう。第一楽章、開始のトレモロが、先生の他の録音と比べて随分繊細な弱音で始まることに耳を惹かれます。朝比奈先生は、余り息を飲む様な弱音を聴かせるタイプの指揮者ではありませんが、このライヴでは弦の妙なる弱音が聴かれるところがあります。タイムを見ても分かりますように、ホールの長い残響を意識して非常にゆったりとしたテンポ設定になっています。あたかも天上の光のうちにオーケストラの響きが消え行くかのような長い残響を待つルフトパウゼ!これは聖フローリアンだからこそ為し得たものでしょう。

 さて、ここでの演奏ですが、多くの方が聴かれたと思いますので余り詳しくは触れませんけれども、先の68年盤の解釈がより成熟し、自然な呼吸を身につけたものと言っていいと思います。ただ、鋭いアッチェレランドで巧みに弛緩をかわすと言っても、ホールの響きと、指揮者が意識してそうしているのとで、特に金管の響きが非常にまろやかです。前半楽章は確かに「天国的な美しさ」とはこういうものなのかと思わせるものがあるのではないでしょうか。

 しかしスケルツォはテンポ的にもそんなに遅いという訳ではなく、表情に厳しさが加わって、また別な迫力が出て参ります。非常にしっかりとした足取りの、強い、決然とした意志の力を感じる演奏だと思います。これに対比されるトリオの美しさは格別で、ただただ目を閉じて聴き入りたいばかりです。

 終楽章は、大変難しい曲で、並の演奏では金管がうるさく響くだけの演奏になりがちですが、ホールの残響も手伝って何とも格調高いコラールが響きます。

 このようにブルックナーを演奏する上で最高の会場に恵まれて、事実演奏も極めて素晴らしく、あらゆる意味で「奇跡の名演」と賞賛したいですし、私も大好きな録音には違いないのですが、特別なライヴだという意味で「オンリー・ワン」であっても ―勿論音楽の演奏は全て一度限りの「オンリー・ワン」に違いありませんが― これを「ナンバー・ワン」、先生のブル7のワン・オブ・ザ・ベストとしてしまうのには少々躊躇いがあります。

 例えば、当時としては大変健闘していますが、オケがやはり非力です。ヴァイオリン出身の朝比奈先生が、半世紀以上に亘って心血を注がれた大フィルの弦は、今日に於いてもやはり関西トップレベルであり、全国でも屈指の実力を持つものと思います。しかしながら、例えばアダージョのあのテーマ、少し力んだようになって音が上ずって聴こえるのが、私はいつも気になります。尤も、これはヘボウの響きが忘れられないせいもありますが…。金管は、皮肉な言い方になってしまいますが、ホールの響きに助けられていますし、先生も意識して抑えている感じがします。第一楽章コーダやアダージョのクライマックスでの思い切った強奏が効果的ですが、後者のノヴァーク版ではシンバルが入るところで、代わりにトロンボーンの割った音が入っているのは、ご愛嬌といったところでしょうか。

 余談になりますが、本ライヴの回想も収録された先生の自叙伝「楽は堂に満ちて」(音楽之友社)はさすがは京都帝大文学部卒だ、という先生の文筆の才も覗える名著ですので、是非ご一読下さい。

 

4.東響との隠れた美演

CDジャケット

朝比奈隆指揮東京交響楽団
録音:1994年4月23日、サントリーホール
CANYON (国内盤 PCCL‐00517)

録音時間 22:21 22:09 9:38 14:52

 大フィル以外にも、在京オケとたくさんの録音を遺した朝比奈先生ですが、その中でも東響との録音は数が少なく、あまり世評に上ることも無いのではないかと思います。しかしながら、少ないながらもいずれも極めて上質な名演が揃っており、私は愛好しています。殊にこのオーケストラは弦が非常に美しく、8番などでも大フィル盤のような燃え上がるような熱演では無いながら、トリオなどでたまらなく美しい演奏を繰り広げており、魅力の尽きない演奏揃いです。その中でもこの7番は評価の高い5・8・9番などと比べ、些か地味な位置にありますが、私はずっと愛聴して来ました。

 演奏としては別段目新しい試みも無く、90年代以降益々深化した先生のブルックナーが変わらず展開しています。「じゃあ、大したことないじゃないか」ということになりますが、やはりここではオケの素晴らしさを讃えたいと思います。ブル7の魅力でもある、「哀愁を帯びたロマンティシズム」を絶妙に表現し得ていると思います。弦の美しさは先ほど述べましたが、フルートの活躍も特筆に価します。第一楽章の孤独なモノローグ、こんなに美しく、そして哀切な響きは、ヨーロッパの一流オーケストラでもそうそう聴かれるものではありません。朝比奈先生も、こういうオケの美質に触発されたのか、繊細優美な歌い回しが目立ちます。アダージョも何の変哲も無い、自然な展開のうちにそくそくと薫るロマンティシズムが絶妙で、コーダの透明感も実に素晴らしいものです。スケルツォのトリオは言わずもがなでしょう。

 朝比奈先生のブル7を聴くにあたって、ファーストチョイスとしてはお薦めしませんが、既に何かしら聴かれた方でしたら、きっとその魅力をお分かりいただけるだろうと思います。どちらかと言えば「男らしさ」が魅力の朝比奈先生の演奏の中で、こういう上品で優美な趣を持った演奏というのはまた格別のものがあります。また、東響も何だか都響の影に隠れがちですが、朝比奈先生とのものを含めもっと色々録音が出てくるといいなと思います。そういう願いも込めて、こうして取り上げることにしました。

 

5.最期の時

CDジャケット

朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
録音:2001年5月10日、大阪フェスティバルホール
EXTON (国内盤 OVCL‐00068)

演奏時間 21:18 20:40 8:35 13:21

 「ストコフスキーの記録を超えたい」と常々語っていらした先生にも、いよいよ最期の時が訪れます。本盤は「大フィル定期演奏会としては」最後の演奏となったものです(7番は2ヶ月後に都響と演奏)。EXTONには先生の終焉を飾るに相応しい名演が遺されましたが、いずれも自身の記録を更新する、テンポの速さが目立った演奏になりました。これには色々な要因が推測されますが、先生自身「遅いだけじゃダメなんだ」と語っていらしたらしく、「老いへの挑戦」というべきか、意識してキビキビしたインテンポを基調となさった結果だと思います。病いに冒され、段々痩せて、顔色も悪い日が多くなったという朝比奈先生は、果たして最期にどんなブル7を遺して下さったのでしょうか。

 ここで少し余談になるかも知れませんが、述べておきたいことがあります。実は朝比奈先生のブルックナーをこよなく愛しながらも、7番だけは勿論いいのですが、何かもうひとつ朝比奈先生のスタイルと微妙な齟齬を感じていました。どこかぎこちない部分があるように思っていました。あの伝説的なライヴ録音の後、朝比奈先生のブル7演奏は、それとの闘いという部分が多分にあったように思うのです。敢えて速いテンポを取ったり、意識的にインテンポを貫こうとしたり、といった感じです。それは先生の「あくなき挑戦」が感じられて嬉しくもあり、しかしどこか不自然さを感じてしまうものでもありました。しかし、そういう複雑な思いが全て吹き飛んだのは、この演奏に触れたからです。今回、この拙文を締める、この録音を、私は先生の最高のブル7だと思っています。

 第一楽章はいつもながら奇を衒うことなく、自然に開始されます。しかし唸り声を発して指揮した情熱的なチェロの主題も、今は何気なく弾かれます。この時点で「何かが違う」、そう思われた方も少なくなかったことでしょう。以降も、過度の思い入れを排したあくまで自然体の演奏です。しかし非常にリアリスティックな鋭い側面があり、金管の抉りが効いています。しかし金管の強奏の後もテンポを落とすことなく淡々と突き進みます。通しリハで、先生の声もよく聞こえない、あまり意味の無いリハ風景が併録されていますが、そこでの「インテンポで、インテンポで!」という指示が思い出されました。

 しかし、展開部、音楽の表情が短調の哀愁を帯びた響きに変わると、ここでテンポがグッと落ちます。それは聴き手がドキッとするようなテンポダウンです。それは、平凡な解釈かも知れませんが、まさに懐旧の情の発露を感じるのです。この部分はカラヤンも最後の録音で深い感情移入を示しており、不思議な共通性を感じてしまいます。フルートの孤独な響きに続いてチェロの歌い上げる哀愁…。

 アダージョは一聴、虚飾を排したストイックな演奏に思われますが、「ブルックナーの最も優美な言葉」という朝比奈先生のブル7観が、見事に達成された演奏だと思います。大フィルも絶好調で、朝比奈先生に応えていきます。コーダはやはり孤高の響きが素晴らしく、しかし名残惜しげな感じが印象的です。

 スケルツォはタイムを見てもお分かりになると思いますが、非常に切り詰められた演奏になっています。音楽の核がハッキリ現れているのではないでしょうか。そしてトリオは過去を振り返るような優しさに満ちており、聴き手は胸を打たれます。終楽章は一切の力みも無い演奏で、楷書体の丁寧な鳴らし方が特徴的です。

 この演奏のレビューを書くのは、きっと難しいだろうと思っていましたが、やはり難しいものでした。その自然さ故だと思います。そして書けば書くほど、演奏の素晴らしさと距離が離れていく気がし、どれだけのことが書けたか不安です。朝比奈先生のブル7は、語弊を恐れず言えば、ずっと「描かれた」ロマンティシズムを湛えていた様に思います。それは「朝比奈先生が」描いた悲しみだったり、歓喜だったり、孤独だったりする訳です。しかしこの演奏は、「曲が」発する悲しみや歓喜や孤独を、一切の恣意なくして、曲に自ずから語らしめる、そんな演奏だと思うのです。あらゆる感情が、あくまでも自然体でそこに内在する…そんな演奏だと。それは「解釈という言葉は良くない」と、作曲家に奉じる朝比奈先生のプリンシプルが、最高の形で結実したと言えると思います。勿論棒の乱れから来たのであろうアンサンブルの乱れもありますし、「指揮者の意志の力が希薄」と感じられる向きもあると思います。「パースペクティヴが甘い」、そういう評価もあるかも知れません。否、それは朝比奈先生への批判においてよく見聞きするものですが、本当にそうでしょうか?それだけで片付けて、聴かれないとしたら、それこそ冒頭に書きました「不幸」に他ならないと思うのです。日本にこんな立派な指揮者がいた。ヨーロッパ人でも「長い」「難解」と敬遠することのあるブルックナーをこんなに素晴らしく演奏し続けた指揮者がいた。そういうことをもっと私たちは誇っていいと思うのです。

 これはファンの色眼鏡を通した見方なのかも知れません。加えて私は先生を語り尽くせるような人間では当然ありません。しかし、ファンの方もそうでない方も、朝比奈先生の芸術を、今一度考え直していただければと思います。だらだらと長いばかりでしたが、お読み頂きありがとうございました。

 

(2005年11月28日、An die MusikクラシックCD試聴記)