An die Musik 開設7周年記念 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」

ドヴォルザーク篇
クーベリックとベルリンフィルでドヴォルザークの7番を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

交響曲第7番 ニ短調 B.141 作品70
クーベリック指揮ベルリンフィル
録音:1971年1月、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(輸入盤 423 120-2)
ジャケット写真は交響曲全集

 

■ はじめに

 

 ドヴォルザークの第7番は、1884年から85年にかけて作曲されました。この交響曲はブラームスの影響を受けて作曲されたと良くいわれます。これは、ドイツ的とも言える重厚な楽曲構成と、本来民族風な標題を持つことが多かったドヴォルザークですが、完全な絶対音楽として作曲され、かつ成功した交響曲であったことなどが重なって、このような評価を受けているのでしょう。

 私は、この評価自体を否定するものでは決してありません。ところが私は、8番や9番ほどディスクが氾濫してはいませんが、一方で6番までとは違ってディスクの数は比較的多く存在するこの曲を、まじめに聴いて来なかったのですね。しかし、この2,3日、私はこの交響曲のスコアを眺め続けていました。作曲年がスメタナの没年であることに気づいたのがきっかけとなりました。そして、だんだん深みにはまっていきました。絶対音楽と標題音楽、チェコの民族性の表現方式として、そもそも絶対音楽では不可能なのか、さらに国民楽派とかナショナリズムに頼らない(そのような音楽が、あるいはそのような思想が、存在することを是とした場合です)優れた音楽としての交響曲第7番との評価はもとより正しいのか否か。

 私の結論をさきに書いておこうと思います。この交響曲第7番こそが、ドヴォルザークの音楽中でもきわめてチェコの、チェコならしめる、そんな楽曲であるのだと。

 

■ 私のとらえたこの交響曲の素材としての旋律

 

 さて、ドヴォルザークには『フス教徒序曲』と言う管弦楽曲が存在します。第7番のスコアを眺めて最初に気づいたのは、このフス教徒に使われた旋律と類似した旋律が、多いことでした。例示しますと、第1楽章第25小節からの第2ヴァイオリンが奏でるト短調の経過句、それに第4楽章のニ短調のほうの主題。少なくともこの2つは、フス教徒序曲のアレグロ・コン・ブリオの主題とほとんど完全に重なります。

 次に、第3楽章の主題(第1)はヴァイオリンによって奏でられますが、この部分に加えて第4楽章の第2主題の冒頭部分、少なくともこの2箇所が、スメタナの遺作の1つである、「わが祖国」の終曲『ブラニーク』における素材との共通性を認識できるのではないかと思います。

 さて、ここに至り、私はチェコのチェコたる所以とも言える宗教改革の英雄として祭られています「ヤン・フス」その人物にまで、私の思いを馳せてみました。そうしますと、フス教徒による大変有名なコラールであります『汝ら神の戦士らよ』の悲劇的な旋律とも見事に重なってくるのです。

 さらに、私はチェコの古謡である『聖ヴァーツラフよ』(11世紀)の旋律との類似性を認識するに至って、ほとんど愕然としてきたのでした。そして、この古謡をとおして、第7交響曲を聴きなおしてみますと、古典的な4楽章構成で作曲されたこの交響曲ですが、ソナタ形式を取っています第1楽章と第4楽章が、反対にチェコの素材や民族を多く持ち込んでいることにも気づいてきました。

 その結果、この交響曲がなぜニ短調であるのかまで、ぼんやりとですが見えてきたのです。「d」音を基調とする交響曲である必要性は、一方ではフス教徒によるコラールと共有する特質であり、他方では主題を、エオリア旋法を経由して減7の和音に回帰させることにより、祈りの雰囲気を強く出すことにあったのです。

 なるほど、落ち着いてスコアを見つめますと、第1楽章第1主題は、スメタナの「わが祖国」の『ボヘミアの牧場と森より』と旋律線が重なっていることにも気づきます。これは驚きでもありました。

 してみますと、この交響曲を支配している付点の刺激的なリズムは、中世のチェコの民族精神と共通するリズムでもあるのです。結果として、ドヴォルザークのこの交響曲に秘められた民族性とは、フス教徒の精神であったのでしょう。この観点からさらに重ねて聴きなおしてみますと、第4楽章には、スメタナの「わが祖国」の『ターボル』の主題にまで重なっていることも見えてきました。

 

■ あえてタブーに踏み込みます

 

 ドヴォルザークの交響曲は、単なる絶対音楽であるのでしょうか。それともチェコの民族性を基盤にした国民楽派の楽曲のひとつの典型であるのでしょうか。私は、スメタナとドヴォルザークの違いは、スメタナにとっての民族性とは、ボヘミア地方に特化した民族性であり、ドヴォルザークの民族性はモラヴィア地方にまで広げた民族性、すなわち汎スラヴの民族性を表出しようとしたのだと考えます。そうしますと、有名なスラヴ舞曲集の素材が、広範な地方から集められて、作曲に至ったこととも連関してくるのです。

 ドヴォルザークの音楽には、結果的に標題があるか無いかが本質的には無意味と言えるでしょう。そして、一方でチェコのナショナリズムを牽引した作曲家としては、やはりスメタナが第一に挙げられるべきであり、この反面的な意味により、ドヴォルザークは国民楽派の範疇からは厳しい批判を浴びてきたのです。しかし、彼がモラヴィアの素材を、チェコ音楽に持ち込んだことは、結果としてみますと、ヤナーチェクを引きずり出すことになったのですから、大変な功績であったとも言えるでしょう。

 私はタブーであるとは知りつつ、民族音楽と民俗音楽の関係を、上記をつてとして、以下のように理解します。

1.民族音楽の範疇で考えるとチェコの音楽は広く捉えられ、ドヴォルザークも典型的なこの分野の作曲家である。

2.民俗音楽の範疇では、ボヘミアの素材に特化したスメタナは、この範疇に入るが、ドヴォルザークは入らない。

3.チェコのナショナリズムなる考えや思想が存在するとすれば、スメタナはこの範疇に入るが、ドヴォルザークはあくまでもチェコの国民音楽を描き、チェコが汎スラヴ民族の一形態であることにこだわり、ナショナリズム側からは批判を受けたが、ドヴォルザークの音楽の国際性は、スメタナよりも明らかに上回った。「わが祖国」の演奏に躊躇する指揮者(非チェコ人)も、「新世界」の指揮に躊躇しないのが通例となり、世界規模で見つめると、ドヴォルザークへのチェコ国内での批判は、反対に彼の音楽の国際性の証明ともなった。

 したがって、私の内なる理解においてのナショナリズムは、通常日本語で≪民族主義≫と訳されるが、≪民俗主義≫の方が正しく表している可能性が高い。このように少なくとも今日の段階では理解します。

 

■ クーベリックの4枚のディスクについて

 

 クーベリックはEMI、DECCA、DG、ORFEOの4回も録音を残しています。そして、代表盤といわれておりますDGでの全集は、ベルリンフィルとの共演でした。しかし、この全集は8番が単発で録音された後、5年ほど放置され、そのあと7番を録音し、そして残りを一気に採ったようです。クーベリックは全集にあたり、ベルリンフィルとの8番がすでにあったために、DGがベルリンでの全集企画を彼に提示した際に、クーベリックが引き受けた理由の最大の理由は、ここまで延々と書いてきました第7番の交響曲への理解があったためだと信じます。

 世評としてのブラームスとの関連性と言いますか、影響を受けたとされております部分に乗っかり(確かにこの交響曲の一側面を捉えているとは思います)、クーベリックは最も望ましい形で、ドヴォルザークの交響曲全集が残せたのだと思います。これが正しい理解かどうかは分かりません。しかし、クーベリックのディスクが極めて強い説得力を持っている理由としては少なくとも正しいのだと思います。

  • このエッセイは、内藤久子氏が1995年に大阪大学に提出された博士論文に、多くを拠っていることをお断りします。彼女の論文を拝読した際の衝撃がこのエッセイへとつながりました。記して御礼申し上げます。

(2005年11月23日記す)

 

(2005年11月27日、An die MusikクラシックCD試聴記)