An die Musik 開設7周年記念 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」

ショスタコーヴィチ篇
テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルグ・フィル

文:グリエルモさん

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CDジャケット

交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」
テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルグ・フィル
キセリエフ(t)、ベズベンコ(br)他
録音:1995年1月
RCA(国内盤 BVCC 38209/10)

併録:ショスタコーヴィチ:交響曲第6番、森の歌 他

 

 数ある交響曲のアダージョ楽章のなかで、これほどまで私の心の一番深いところまで貫き通すアダージョ楽章を私はほかに知りません。ここまで痛いほど切なく、愛惜の情に満ち、自分の人生を振り返らせるような・・・

 私は今でこそ、ショスタコーヴィッチが東京で演奏会で取り上げられるなら、逃さず足を運んでしまうくらいショスタコーヴィッチの魅力の虜となっていますが、ほんの数年まで5番「革命」以外は自分とは無縁の音楽」と思っていました。

 その認識の転機となった衝撃的出会いは、2003年に来日した、ユーリ・テミルカーノフとサンクト・ペテルブルグ・フィルの演奏会でした。その演奏会は、客寄せのためにソリストを呼んで協奏曲を前半に置くこともなく、この交響曲7番「レニングラード」1曲だけで勝負するという強気のプログラムが災いしたのか、チケットの売れ行きが極端に悪く、招聘元が「会員ご招待の演奏会」の選択肢のひとつに指定したほどでした。それでも会場はかなりの空席が出ました。

 「サンクトペテルブルグ・フィルといえば、その昔、ムラヴィンスキーが君臨していたレニングラードフィルが名前を変えたんだなあ・・」友人がそうつぶやくまで、頭のなかで二つが繋がらないくらい、あまり期待もなしにサントリーホールに出向いていました。そしてうちのめされました。

 その夜の演奏会で驚いたこと。それは重厚で巨大なオケの重量感と、意表をつくほど柔軟で、ヴェルヴェットのような上品で上質で艶やかな弦や木管の音色が共存していること。そして、特に3楽章「アダージョ」の木管楽器群の、切り裂くようなでも、深い慈愛と包容力に満ちた祈りの歌。それに続く深く大きくゆっくりした静かな歩みのなかで歌われる弦のラメントの美しかったこと・・・テミルカーノフの祖国の悲劇の歴史(旧ソ連体制の抑圧も含む)にたいする想い、祈りの虹がかかったようでした。

 それまで、決して自分の血や肉とはなっていなかった「レニングラード」という曲。それが幸いしたのかもしれません。アダージョを聞いていて、思わず私のなかで、自分が失ってしまった大切なものたちへの想いが走馬灯のように心に浮かび、また消えていきました。そして涙が止まりませんでした。

 今でも、自分にとっては、このコンサートは大切な思い出です。

 このコンビには95年1月録音のこの曲の演奏記録があります。

 ただ、この盤を誉めた評論に出会ったことは一度もありません。それどころか、話題にもあまり上らない、無視に近い扱いをされている盤なのではないでしょうか。

 それはきっと、ショスタコーヴィッチの音楽として我々が通常期待し、イメージする音楽と、全く異なる方向を目指している特異な盤だからでしょう。

 即ち、戦争を題材にした交響曲の表現にしては、テミルカーノフのアプローチは純音楽的であり、過度の爆発や暴走、粗暴さ、派手な扇情や血なまぐささを極力避け、より深い、祈りが沈潜するような、どちらかというとゆっくりめで、重厚で落ち着いた、丁寧で入念で抑制された表現を志向していることが、一般的な聞き手のニーズと合致しないのではないかと推察します。とくに最終楽章のフィナーレの表現はあるいは、控えめ過ぎて「煮えきれない」と感じる人もあるかもしれません(指揮者の解釈自体が、この楽章を単純な勝利を描いたと考えていないのかもしれません)。また、RCAというレーベルの活動があまり目立たない時期の録音であることも一因なのかもしれません。

 「レニングラード」は終楽章の大円団の爆発的表現、荒々しく暴力的な表現が命であり、ショスタコーヴィッチ演奏の王道であり、伝統であり、本質であると考えるコアなファンには、この演奏は最も理想と遠い演奏かもしれません。

 でも、たとえば、3楽章のアダージョの表現。祈りと愛惜に満ちた木管、深い艶の憂いに満ちた弦、控えめで落ち着いた、でも室内樂的に寄り添いあうブラスと木管を聞くと、あの夜の深い感動がよみがえってきます。声高には叫ばないが実に情の深い歌・・・バーンスタインとシカゴ響の盤ような圧倒的な金管や派手な弦はないけれど、ロシアのほかの巨匠たちの狂気も、爆走もないけれど、ロシアの大地に足をしっかりつけたような、おだやかで控えめで祈りがつづきます。

 金管楽器、木管楽器は、自身が主導的な役割を果たす場所でも、印象的なソロでも、決してスタンドプレーをすることはなく、あくまで全体のなかの役割を認識しながら存在します。そして、美しい祈りを忘れることはありません。なんと美しいのでしょう。3楽章に限らず、全編の根底にあるこの美しさは、これまでの旧ソ連邦の指揮者の「レニングラード」の演奏のスタンダードからすると、全くの異端でしょう。あるいは誤った解釈なのかもしれません。でも、恐らく、過去このような演奏を志向したひとも、ここまで美しいショスタコーヴィッチの祈りの歌を引き出し、気づかせてくれた演奏も、ほかにはあまりないのではないかと思います。

 一聴して「自分の求めるものは何もない」と切り捨てる人がいるかもしれません。でも、噛めばかむほど滋味豊かな、慈愛と祈りに満ちたこの演奏。存在価値はありそうです。

 特に「ショスタコーヴィッチは苦手」と思われている方には、この作曲家の意外な側面を発見できる盤かもしれません。

 この交響曲の題名となった「レニングラード」。今の「サンクト・ペテルブルグ」といえば、いまやゲルギエフの八面六臂の活躍により、キーロフ歌劇場管が日本人にはお馴染みとなり、ショスタコーヴィッチの交響曲全集も現在進行中です。しかし、時代が移っても、この町を、そしてロシアを代表するオケは、サンクトペテルブルグ・フィルに違いありません。もっと、このコンビの活躍が我々に伝わってくることを願います。そして、彼らのこの名盤は、忘れられてしまうには惜しい盤です。日本盤は「森の歌」や6番とカップリングの2枚組廉価盤になっています。

 

追記

 

 サンクト・ペテルブルグ・フィルの演奏としては、同じ95年5月にアシュケナージが指揮したものがあります。これは、評判のよくないアシュケナージの指揮のCDのなかでは、例外的に評価が高いものです。4楽章のフィナーレにものすごい厳しい音色と音量で打ち込まれるティンパニーの音は、ちょっと心臓に悪いくらい衝撃的(DECCA)。

 また、ヤンソンスが88年に、名前が変わる前のレニングラード・フィルを指揮しています(EMI)。こちらは、ちょっと拍子抜けするくらい軽めの表現。

 モノラルながら、53年録音のムラヴィンスキーの演奏は,剛毅できびきびとした、まるで戦争映画でも見ているようなワクワクする演奏。これは、この曲の演奏のスタンダードでしょう。音質は厳しいですが・・(メロディア)

 

(2005年11月29日、An die MusikクラシックCD試聴記)