An die Musik 開設8周年記念 「大作曲家の交響曲第8番を聴く」

ブルックナー篇

文:ゆきのじょうさん

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CDジャケット

ブルックナー
交響曲第8番 ハ短調
ルドルフ・ケンペ指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
録音:1971年11月12-13日、チューリヒ・トーンハレ
欧Somm Recordings (輸入盤 SOMMCD016)

 

■ 一枝坦

 

 私が、仕事で何年か一度、京都に行くと時間を作って必ず立ち寄る所があります。北区紫野にある大徳寺、その中でも建立してから約700年経つ最古の塔頭(たっちゅう)の一つ、龍源院です。大徳寺塔頭では大仙院や瑞峯院がとても有名で訪れる人も多いのですが、これらの塔頭での賑わいとうって変わって龍源院はひっそりとしています。龍源院にある枯山水庭園は4つあり、わが国で最も小さい壷庭である「東滴壷(とうてきこ)」が有名です。しかし私は方丈に入ってすぐ視野一杯に拡がる前庭の「一枝坦(いっしだん)」がお目当てです。この庭園は一面に白砂が敷き詰められています。視野中央からやや右手奥に背の高い石が並んでいるのが蓬莱山、さらに右手前には鶴島、そして左手には広く苔に覆われた中に亀島を示す石があります。これだけの構成でありながら、訴えかけてくるものは比類なきものと感じます。石の配置からくる奥行きと立体感、白砂が象徴する大海原がもつ雄大な広がり。理屈などでは表現できない絶妙な空間配置と色彩感覚が、私に別の世界を感じさせてくれます。方丈に腰を下ろして時間を忘れて眺めていることも多いです。何度目かに訪れて眺めていたときに、私はふとあることに気が付きました。

 

■ 内省的演奏?

 

 このケンペ盤は古くから幻の演奏としてCD化が嘱望され続けたディスクです。日本ではLP2枚組としてケンペが亡くなる直前の1975年に発売され、その解説を担当した有名な評論家U氏が「極めてユニークで内省的な演奏」と紹介しました。その後、CD時代になってからは、権利関係の問題でこのディスクはCD化されないまま、次第に評論家U氏の言葉だけが一人歩きするようになったために、一体どんな演奏なのかと期待が膨らみCD化を希望するアンケートでは上位にランクされることも多くなりました。そして漸く2000年に初CD化として発売されたのです。

 私は、LP時代にこの演奏を国内盤と、その原盤であるスイスTUDOR盤で聴きました。そして評論家U氏の解説には首を傾げる思いがあったのです。この録音はとても残響がたっぷり録られていて、BASFから出ていたケンペ/ミュンヘン・フィルとのブルックナー/第5のデッドな響きと比べてみると、確かに角が丸い印象がありました。しかし、音楽そのものは第5と同じようにスケールが大きく、金管もここぞというところでは鳴り響いていて、到底「内省的」とは言えないと思いました。当時貧乏学生であったので、評論家氏が推すクナッパーツブッシュや朝比奈などを聴き比べるために買うなどという余裕はなく、相対的にそういうものなのかな、と単純に考えていました。

 

■ Flower & Garden Show

 

  私が、龍源院の一枝坦を眺めて、ふと気付いたのは、アメリカに2年半生活して帰国した後に訪れた時のことでした。その在米中にWashington D.C.で、Flower & Garden Showという催しが開かれたので、「庭(園)」というキーワードに惹かれて行ったのです。大きな会場を全面に使って、半分は造園業者(?)の庭(園)の作品が、半分はいろいろな関連商品の小売りテントが立ち並んでいました。

 さて、興味深かったのはそのテントの方です。草花の苗とか種とかが売られているのかと思えば、およそ何でもありの世界でした。草花染めの布製品、ハーブ、梯子はまだいい方です。庭に置く小さな小屋、街灯(?)、ワイナリーからのワイン、果物、ブランコ、テーブル、椅子、バーベキュー・セット、ガーデン・パーティのための(?)エプロンやドレス、簡単に増設できるサンルームなどなど。これらと、造園業者が作った庭のディスプレイを見ていると、アメリカ人にとって、「庭とは居住空間の一部なのだ」と実感しました。

 私がアメリカに来たときの第一印象は、「芝生のくに」だと思いました。どこの家にも芝生があります。しかも芝生は、どの家もきちんと管理されています。その芝生は決して「愛でる」対象ではないようです。「そこで生活するための多目的空間」と言うべきでしょうか?リビングの延長のようです。パーティがあれば、芝生に椅子やテーブルを並べ靴でずかずかと歩き回り、子供達は走り回ります。だからガーデン・パーティの用品も、Flower & Garden Showで当然のように売り物として、並ぶのです。そして、ガーデンにおかれる事物や草木は、いわば室内におかれる家具などと同じです。石もローマかギリシャの神殿の柱を模したものや、幾何学的な処理を施したものが殆どです。あくまでも人間の手の入ったものである「証」があります。

 アメリカの公園もしかりです。「芝生に入らないで下さい」などという掲示は見たことがありません。夏の暑い日には木陰で昼寝や、読書をしている人がいます。バーベキュー・セットが当然のように置かれており、いつでもパーティが出来るようになっています。芝生は部屋に敷かれている絨毯と同じ発想なのだと思います。

 さて、Flower & Garden Showで、造園業者の作品の中でその年の一等賞は日本庭園を模したものでした。いかにもという感じの池、白砂(Zen Sandというそうです)などがありました。しかしそこにも、座布団と大きな座卓が置かれて、お銚子と杯が並んでいました。どうしても、庭で何かをやるんだぞ、という姿勢を、強く感じました。

 そんなことを経験して、帰国して初めて一枝坦を眺めたとき、そこは(当然ながら)「入らないで下さい」などという看板がなくても、足を踏み入れてはいけない空間でした。白砂は「Zen Sand」などと呼んだら罰が当たりそうなくらいの神々しさがあります。庭に配置されている石はあるべきように、そこに峻厳として存在します。しかし、見るものを拒絶するような緊張感は一枝坦にはありません。まったく単純な物体で構成されているのに、不思議と暖かく、観る者を包んでくれるような感覚があります。この感覚はアメリカのみならず、ドイツやフランスで訪れた歴史のある「庭園」ではなかったものです。

 そして私はふと気づきました。方丈から一枝坦を眺めているとき、この庭の端から端までを自分の視野に一度に入れることができないのです。事実、この庭の写真でも全容を方丈から捉えることができていません。入り口からすぐのところで庭を斜め横からで撮影していることがほとんどです。あとは亀島、蓬莱山、鶴島を収めた正面からの写真もありますが、亀島から左手は写っていません。従って、写真のように切り取った空間では一枝坦が持つスケールの大きさは測れません。視野に入りきれないこの庭を、私たちは受け止めなくてはならないのです。

 

■ 真紅のジャケット

 

 権利関係が漸くクリアされて、ケンペ/チューリヒ・トーンハレ管のブルックナー/第8が遂に発売されました。当時はとても話題になったと共に戸惑いの声も聞かれました。集約すると「内省的と聞いていたが豪快な演奏で意外だった」というところだと思います。

 この当時、私は既にこの演奏に関するある程度の答えを持っていました。最初に日本へ紹介されたときのTUDOR盤は実は原盤ではなく、大元のex librisというレーベルから出たものを4チャンネル仕様に変換されたものでした。この際に残響が加わることになり、結果的にふわりとした印象が付くことになったのだと思います。ex libris盤を入手したところ、BASF盤よりは残響が豊かではありますが、ケンペの基本的なアプローチは変わっておらず、「内省的」とは正反対の演奏であることが明白でした。CD化されたとき、私はそれを再確認したのです。現在までのところ、このチューリヒとの第8以外には、ミュンヘン・フィルとのスタジオ録音の第4,第5(BASF),同じくミュンヘン・フィルとの第4の放送録音(EMI)、そしてロイヤル・ストックホルム・フィル自主制作盤の第7しか正規音源としては存在していません。オケは違えども、ケンペのアプローチはどれも基本的には同じだと感じます。

 しかし、さらに私は気づくことがありました。評判のクナッパーツブッシュや朝比奈、後年話題になったヴァントと聴き比べても、ケンペ盤は同じようなアプローチのようでいて、何処かが違うのです。宗教性とか、虚心坦懐に音楽と向き合うとか、そういう言葉では括れない何かをケンペ盤に感じます。

 CDのジャケットは、元々のex libriss盤のジャケットをそのまま使っています。ご覧のように一面真紅になっています。同じex librissから出た「新世界から」や「運命」は、ケンペのポートレートや演奏風景を使っているので、ブルックナーだけわざわざこのデザインにしたということになります。TUDOR盤では銀の地に黒で伽藍(おそらくザンクト・フローリアン)が描かれていて、そのイメージが焼き付いている者にとっては奇異な印象を受けます。

 

■ 「楊貴妃」という名の老樹

 

  このディスクが出た後に、出張のため京都に行く機会を得て、やはりお目当ての龍源院の一枝坦を訪れました。一つの視野に収まらないこの空間に、石の配置だけではなく、箒目の間隔、広さなど全てに作り手の意思は行き届いており、どこにもあやふやなところがありません。でも人を寄せ付けぬような冷淡さは微塵もないです。そんな一枝坦に対峙していると、私の内でケンペのブルックナー/第8の演奏が響き始めました。この演奏は、内省的は演奏では勿論ないけれど、ただの豪快な演奏でもない。テンポは遅くはないのですが、演奏の息づかいはとても穏やかで無理がありません。宗教的という言葉でも表すことができない高みを感じますが、決して畏れではない。そんなことが一枝坦を観ながらすっと感じることができました。それは帰ってから聴き直しても同じ印象でした。

 これは、そう、一枝坦を最初に観たときに感じた、包み込むような感覚と同じです。ケンペの音楽にはあざとい作為がありません。十分考えられた音楽は、没個性とか枯淡とは違うものです。透徹した意思がはっきりと存在します。最初から、ケンペはこの曲の最後までがしっかり見えていて、隅々まで「こう表現する」という意思があります。従って、よくある批判としての第2楽章のテンポの速さだって、こけおどしではない確信があります。それでいて聴き手を無理矢理に自らの世界に連れて行こうとするような強引さはないのです。聴き手がケンペの音楽に対峙して包まれようとしたときに、初めて感じることが出来るのだと思います。それが何かを書き記すことは困難ですが、もしかするとこのディスクで真紅のジャケットが使われたのも、何かの符号なのかもしれません。

 一枝坦は最初から枯山水庭園であったわけではありません。建立以来、中国種の「楊貴妃」と名付けた山茶花の老木が石灯籠とともにあったそうです。ちょうど今くらいの季節から一面に真紅の花が咲き乱れて、それはそれは見事であったと言います。しかし昭和55年にこの老木は樹齢が尽き、枯れ去ってしまいました。当時の住職であった喝堂和尚が設計して、その後につくられたのが現在の一枝坦です。住職は新しい山茶花を植えることはせず、白砂と石、そして苔を用いてこの庭を造り替えたのです。この庭に、おそらくは、以前の真紅に咲き誇る山茶花への想いを何らかの形で込めたのかもしれません。私は煩悩に生きている今は、それは感じようと求めても感じることはできないでしょう。しかし、もし、以前あった山茶花の真紅の花を感じることができるようになれば、私はまた一層、この庭を観に来ることになるだろうと思います。

 

■ 最後に

 

 ケンペのブルックナーは、宗教的とも、大自然とも、森羅万象とも異なる、深い魅力があります。ケンペはブルックナーをどう考えていたのか、その背景はケンペが亡くなって30年経ちますが、今なお、私にとっては尽きせぬ思索の対象です。これからもこの魅力にめぐり合いたいと願っています。

 「さがすべきではない。めぐり合うべきである。さがすということは、意識的な小細工を意味する。めぐり合うのは、作曲者とその音楽に対する献身の結果である。」 ルドルフ・ケンペ (尾埜善司 訳)

 

(2006年12月8日、An die MusikクラシックCD試聴記)