An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」

ベートーヴェン篇

文:のむさん

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■ クレンペラーの第9〜アンチ・ドラマ

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
クレンペラー指揮フィルハーモニア管及び合唱団
ソプラノ:オーセ・ノルドモ・レーヴベリ
アルト:クリスタ・ルートヴィッヒ
テノール:ワルデマール・クメント
バリトン:ハンス・ホッター
録音:19571年10月、11月、ロンドン、キングスウェイホール
EMI(国内盤 TOCE-3200)

 第9と言えばベートーヴェン。そして、その決定版と言えばフルトヴェングラーのバイロイト祝祭管盤。それに比べて、クレンペラーの演奏は、巷ではあまり話題にならない。もちろん、今日では、ピリオド奏法の面白い演奏もたくさんあるし、その他、細部にわたってすぐれた演奏もいくつもある。それでも、いまだにフルトヴェングラーが好まれるのは、なんといっても、その強烈なドラマ性からであろう。しかも、彼のドラマ性は、オペラ的なものではなく、ソナタ形式による交響曲というものの構造に根ざした、「正統的」なものだ。そのあたりが、そこらの単なる「劇的」な演奏と一線を画しているのである。

 以下、少しばかり、楽曲の分析をさせていただく。読者にはあまりに陳腐な内容で申し訳ないが、今回のテーマに関連しているので、ご容赦願いたい。

 さて、ソナタ形式とは、言うまでもなく、基本的には二つの主題からなる提示部、その展開部、そして再現部からなる。ベートーヴェン以前の古典曲では、大抵、第1主題が優勢で、展開部といっても推移的であった。ベートーヴェンでは、第9以前に、第3交響曲のように壮大な展開部を有する曲も登場するが、第2主題の扱い自体はそれほど変化がなかった。しかし、第9に至って、驚異的な進歩を遂げる。

 冒頭の、第3音を欠いた序奏部から浮き上がってくる第1主題。その中核となる3度の音階進行〜これを第1モチーフを呼ぶことにする〜は、展開部で徹底的に展開される。進歩というのは、第2主題の扱いである。第2題の中核は4度の跳躍音形であるが、これも展開されている。しかし、真に驚くべきはその後である。この二つのモチーフは楽章を超えて、なんと全曲に用いられているのである。すなわち、躍動的な第2楽章は第1モチーフによって出来ており、深遠なアダージョである第3楽章は第2モチーフを主題としている。そして、終楽章では、第1モチーフから第1主題(歓喜の歌の主題)が作られ、第2モチーフからト長調の荘厳な第2主題が作られる。そして、その二つの主題がついに、あの偉大な二重フーガで結合されるのである。

 このように、この長大な作品は、わずか二つのモチーフを土台として出来ており、いわば全曲が、極限まで拡大されたソナタとなっているとも言える。これをもし、男性的な第1主題と、女性的な第2主題が織り成す壮大なドラマととらえるならば、二重フーガはその歓喜の結合であり、それに続くコーダは、まさに圧倒的かつ、エクスタシーとさえ呼べる盛り上がりとなるはずだ。そして、まさに、二つのモチーフの対立的な性格を精緻に描き出しているフルトヴェングラーの演奏こそ、このドラマとしての第9の理想の姿なのではなかろうか。

 さて、それに対して、クレンペラーの演奏はどうか。私はそれを、アンチ・ドラマの演奏と呼ぶ。あらゆる点で、フルトヴェングラーと対照的だからだ。クレンペラーの演奏は、スタジオ盤やライブ各種のものが残されているが、基本的なアプローチはそんなに変わっていない。そのどれも「ドラマチック」でない。もちろん、緊張感はすさまじい。迫力も圧倒的だ。だがここで「ドラマ」でないと言うのは、ストーリー的に発展しないということである。クレンペラーでは、第1主題と第2主題の対比というのがない。楽章間の緩急の対比もない。(この曲では、楽章間の対比と主題の対比は直結する)。彼のインテンポというのは、厳密に速度が一定というのではなく、対比が無いということだ。実際、第1楽章の第2主題がインテンポなのはまだしも、第3楽章の速さは尋常ではない。フルトベングラーのような沈潜する美しさとは無縁である。もちろん、彼のこうしたスタイルは、なにもこの第9に限ったことではない。それにしても、ここまで二つの主題の対比(そして楽章間の対比)を無視して、この曲が成立するのだろうか?

 それが実は成立するのだ。クレンペラーによると、この曲は、そもそも「二元論の克服」というようなドラマではない。それは、すでにあの「序奏」に表れている。普通、第3音を欠いた冒頭は、第3音を伴った確固たる主題を提示するための「序奏」として考えられている。つまり、第3音が無いのは劇的な効果のためなのだ。だがクレンペラーの演奏は違う。冒頭部分は、例によって感情移入なしに、確固たる響き、しかも透明な「単なる」5度音程として演奏される。これは、「虚無」ではない。単なる「完全5度」だ。こういう所を聴くと、彼がブーレーズを評価していたのが納得できる。しかし、彼がブーレーズや他の「クールな」指揮者達と違うのは、その「単なる音響」にすさまじいエネルギーが内包されている所だ。彼においては、この冒頭は序奏ではなく、すでに主題なのだ。すなわち、「完全5度」という主題である。この交響曲は「完全5度」をテーマとした曲なのである。

 では、その「完全5度」は、そもそもどこから来たのだろうか? クレンペラーは答える。それは、オクターブの分節によるのだと。すなわち、完全5度と完全4度に分割された形としてである。確かに、こういったことは「原始的」な話ではあるが、「神秘の森から何かが登場する」風の「ドラマ」ではない。クレンペラーにおいて、「完全音程」とは、その中にあらゆる音程を内包していがゆえに、それは無限のエネルギーを有している特別なものなのである。

 従って、完全5度も、その内包するエネルギーによって自己分節せざる負えない。すなわち、ここでは3度と3度に分割される。そこに現れるのが、例の3度のモチーフである。では4度の方はどうが、こちらは第2主題で扱われる。4度は2度と3度に分割されてである。この2度の下降音形(後代に「ため息」と呼ばれる形)は全曲で重要な役割を果たすことになるのだ。

 このようにして、すべての重要なモチーフは、完全音程の分節という、純音響的な構造から導き出されている。すなわち、冒頭の単一の状態から様々な要素が生み出され展開され、全曲を「非ドラマ」的に構成しているのだ。しかも、クレンペラーはそれを描写しているのではなく、音響そのもののエネルギーを解放し造形しているのである。だから、例えば、あの二重フーガに続く、やや冗長ともとれるコーダも、実は2度下降音形の大切な展開であり、決して大団円のための「煽り」の音楽ではない。合唱のまさに最後の部分は、2度、3度、4度、そして最後に5度と、これまでのすべての音程モチーフをひとつづつ拡大しながら網羅する、見事なエンディングとなっているが、そういった構造がクレンペラーの演奏だと手にとるようにわかるのである。すべてのモチーフを同等に扱い、しかも全曲を巨大な構造物として構築していくクレンペラーのスタイルが、まさにこの曲の全貌を、すさまじい集中力をもって浮かび上がらせているのだ。実に恐るべき演奏である。

 因みに、彼の第9のライブ映像を見ると、なんと最晩年まで楽譜を見て指揮をしていたのがわかる。しかも、ちらっと見るのではなく、学生オケさながらに真剣に見ている。クレンペラーにとって、この「完全音程」の音楽は、「12音セリー」のシェーンベルクや、「微分音」の現代音楽にもまして、常に最先端の音楽だったのだろう。

 

(2007年11月19日、An die MusikクラシックCD試聴記)