An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」
マーラー篇
ベルティーニと都響のマーラー9番
文:グリエルモさん
マーラー
交響曲第10番より「アダージョ」
交響曲第9番 ニ長調
ベルティーニ指揮東京都響
録音:2003年11月29日(第10番)、2004年5月30日(第9番)、横浜みなとみらいホールにおけるライブ
fontec(国内盤 FOCD9259/60)「マーラーはどんな言葉で夢を見たのだろうか・・」 そんなことをよく考えます。彼の生まれたボヘミアの寒村カリシュトは、当時はオーストリアの支配下にあったはず。「マーラーは音楽教育はウィーンで受けているのできっとドイツ語かなあ・・・」と思いつつ、「でもプライヴェートではチェコ語やヘブライ語も話したかも・・・」などと想像は膨らみます。そんなことを考えたのは、テレビでサイモン・ラトルが「音楽は言葉です。音楽は言葉と密接に結びついてます」と語っていたからです。
私は生涯で2度、神がかりといえるような「究極のマーラーの9番」を体験する幸運を得ました。ひとつは、バーンスタインとイスラエルフィルの来日公演。これは終演後立ち上がれないほど打ちのめされました。残念なことに、NHKホールには記録用録音マイクさえも吊られていませんでした。まさに、伝説だけ残る一期一会の事件。(DGから出ている、コンセルトヘボウとの録音が、一番時期的に近いらしいのですが、印象は異なります)。
もうひとつが、ここに紹介する、2004年5月30日に横浜で聞いた、そして涙が止まらなかった東京都交響楽団とベルティーニの「音楽の遺言」というべき演奏です。それは、バーンスタインの体験にも劣らない特別の重みを持つ音楽体験。同じ思いの関東圏のコンサート・ゴーアーは多いと思います。
しかも、幸運なことに、この演奏は素晴らしい音質で録音されています。終演後に暫く続いた、まるで教会のなかの祈りのような沈黙・・・その後湧き上がる喝采まで。
ベルティーニはあっさりと手を下ろし、その沈黙は1分弱に留まりましたが、あの日の素晴らしい聴衆は、もし手を下ろさなければ、永遠に祈りつづけていたかもしれません。
このCDは、マーラー演奏に抜群の定評のあるユダヤ人指揮者ガリー・ベルティーニが日本で行った最後の演奏会の記録です。東京都交響楽団の監督であったベルティーニが埼玉と横浜でマーラー全曲演奏会を春と秋に1曲づつ1番からほぼ順番通りに行い、5年かけて完結したマーラーチクルスの最終日でもありました。そして、この演奏の翌年3月にベルティーニは癌で亡くなります(本人は悟っていたのかもしれませんね)。
9番の演奏会は、本来はその年の秋に予定されていたものですが、ベルティーニが東京都の理不尽な「都響リストラ策」を強行したことに対して抗議の意味を込め、任期の途中で音楽監督を辞任した影響で、半年繰り上がり8番「千人の交響曲」の演奏会(これもCDが残っています)の10日後に演奏会が組まれました。
「自分が満足できるマーラー演奏にはユダヤの血が欠かせない。」 バーンスタインとイスラエルフィルの演奏が強烈なマーラー原体験ですので、私は本気でそう思う一方で、矛盾するようですが、このユダヤ人指揮者ベルティーニと東京都交響楽団の奇跡のような演奏については、たとえ演奏者が日本人であっても満足します。
演奏者全員が指揮者のマーラー観に感化され、共感し、大切なものとして価値観を共有し自分の肉や血とし、指揮者のやりたいことを迷いなく完全に実現している姿に打たれます。
ここに記録されているのは、音楽というものを遥かに超えた、「音楽による遺言」「人間たちの生き様の記録」「人間の尊い営みの記録」だと思います。
この演奏の特徴は、マーラーへの思慕と敬愛と愛情の強さと重さ。指揮者に対するオーケストラの信頼感の強さ。いや、一体化。指揮者が、一番大切に思うマーラーについて自分が信じるものを、弟子のようなオーケストラに時間をかけ丁寧に、心から伝えようとして5年間じっくりと、手間を惜しまず続けてき営みの総決算。その音楽の遺言を、自分の血や肉とし、全身全霊で受け止め、音楽にこめられた思いを紡いでいくオーケストラ。
しかも、相思相愛の指揮者とオーケストラが、外部の諸事情もあり、「別れを告げる」特別な状況(通常、さよなら公演は、もっとよそよそしいものでしょう。しかしこの両者の関係は絶頂のまま)。
それに加えて、このころ、オケのメンバーは、ほんとうに極限まで張り詰めた毎日を送っていました。この頃、東京都響の演奏会は「舞台に音楽の神が舞い降りているのではないか」と思われる演奏会が続いていました。同年4月のフルネ指揮のサン・サーンスの「オルガン」交響曲など、この曲の1楽章後半が愛児へのレクイエムであることを初めて体感させるような、場内に啜り泣きが満ちるほどの演奏でした。
東京都知事から突きつけられた理不尽な運命 (注) を「良い演奏をすることで克服しよう」と心に決めているかのような突き抜けた、悟ったような気迫。まさに「崖っぷち」にしがみついて「危機は誠意と努力により<機会(Chance)>に変わる」と信じているような、まさに瞠目するような演奏を続けていた時期が重なります。オケはこの演奏会の直前に都知事の要求を受け入れました。そのやりようのない怒りをも、昇華してしまうような、この演奏は、尋常ではない特別な「非日常」な出来事となりました。
(注)
その骨子は、補助金の半減、3年毎の契約更新制導入、年金制度廃止というもので、受け入れないと削減後の補助金を出さないというものだったと記憶します。(オケのメンバーの貢献度を音楽を知らない都の職員がどう評価するのでしょうか?)演奏開始から、気迫の漲る心地よい緊張感に溢れる演奏でしたが、後半の章にいたっては、指揮者、演奏者、観客の気持ちが本当にひとつになった、ことりとも雑音のしない、澄んだ透明な、でも思いの凝縮した時空が生まれていました。奏者たちの姿や姿勢が美しかったこと。 黒澤映画に出てくる侍達のような姿勢のよさ。最後の列の奏者まで、ベルティーニとの大切な時間を慈しんでいるかのようでした。自分の演奏個所でないところも前傾姿勢で演奏に参加していました。忘れられないのは、チェロの最後尾の年配の女性奏者。彼女はまるでベルティーニの棒にすがりつくかのように奏していました。目には涙を浮かべながら(私は2列目で、切れ目から彼女が良く見えました)。
そのときの空気がどのくらい重く、深く凝縮し集中していたか。
最終章の「祈り」のような厳かな主題が積み重なっていき、虹を描き息の長い頂点を迎えたあとに、静かな天国の門のようなチェロのソロがあります。このCDでは修正されていますが、横浜の実演では、百戦錬磨の首席席奏者(注※)が、あまりの空気の重さに、まるで金縛りにでもあったようで、その個所の音が掠れ音にならなかった。でもそれはまるで咽び泣いているように聞こえ、逆に楽員全体が感じているこの瞬間の思いを代弁しているかのようでした。
(※注)
古川さんでは無い方の首席奏者。因みに、古川さんはこの時期、ソロ・コンサートマスターの矢部さんとともにサイトウキネンオーケストラの欧州ツアーに参加しており、バルトークを演奏していました。こちらもCDになっています。日本のオーケストラのなかで、東京都響は「マーラー演奏」に特別の伝統と自負を持った団体です。若杉、インバル、ベルティーニという優れたマーラー指揮者と系統立ててマーラー全曲チクルスを行っており、このような日本の団体はほかにありません。
しかも、ベルティーニとのチクルスは5年をかけたうえ、2004年5月はベルティーニはほぼ1ヶ月、都響とともにマーラーの8番と9番を題材に時間をともにしています。
5月始めに来日した彼は、12日、13日の「イベリア」等を演奏した定期演奏会の練習と並行して、マーラー8番の練習を行い、18日(新宿)、19日(埼玉)、20日(横浜)に8番の演奏会。合唱団にまで4日間練習をつけるほどの熱のいれよう。その後「運命」「未完成」「告別」という意味深な曲目の演奏会(23日)を挟んで、月末まで9番の準備をしています。ただ、28日の埼玉公演は今ひとつだったとの証言もありますが、危機感を抱いて懸命に最後の練習をしたのか1日置いての2004年5月30日は、聴くものにとって生涯忘れることのできないマーラーを聞かせてくれました。
マーラーの9番に興味を持たれるかた、この演奏を聞かずして墓に入るのは実に惜しい。
(2007年12月25日、An die MusikクラシックCD試聴記)