An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」
マーラー篇
天・地・人
文:サンセバスチャンさん
マーラー
交響曲第9番 ニ短調
ジュリーニ指揮シカゴ響
録音:1976年4月、シカゴ
DG(国内盤 UCCG-3975/6)ジュリーニがシカゴ交響楽団を指揮した演奏を買った。どこまでもゆるやかに流れる大河のような演奏である。「ダンテを思わせる解釈」なんて書いてあるので『神曲』を読んでみたが、どうしてこの演奏がダンテ的なのか。フィレンツェを追放され諸国を流浪したダンテとどう結びつくのか、全く理解できなかった。焦燥感や皮肉といったいわゆるマーラー的なものから遠いと批判することもできるだろう。マーラーの個人的な苦悩、世界大戦へ転落する時代 、一つの文明の最後の輝きといったものは排除されているが、普遍的な美を再現していることは間違いない。イタリア人らしい人文主義的なアプローチという点でダンテを想起するという意味だろうか。カンタービレは声楽的にていねいに処理されており、とても美しく、中までみっちりと詰まった果実のように重い。何度も聴いて、最初は感心し、次にもどかしく、今は再び心を打たれるようになった。
バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管
録音:1985年6月、コンセルトヘボウ、ライブ
DG(輸入盤 419 208-2)バーンスタイン指揮コンセルトヘボウの第4楽章、ロンド・ブルレスケが怒涛のようなアッチェレランドで終結した後(泥臭いバーンスタインにしては珍しく完全に突き抜けた演奏になっているが)、弦楽が奏でる旋律はため息交じりの詠嘆であって、寂寥感、いとしさが胸を打つ。ややもすれば、悲劇を演じている臭いがする指揮者であるが、ここでは自己を超越し凄まじいばかりの演奏を繰り広げ、普遍性の高みに登っているように私は思う。しかも、バーンスタインは個人の力を出し尽くしてこの成果を得ているのだ。曲自体が人生の総決算を要求しており、演奏する者に襟を正させ、最良のものを引き出すのではないだろうか。残念なのは録音で、低弦やティンパニがあまり聴こえない。
バルビローリ指揮ベルリンフィル
録音:1964年1月10,11,14,18日、イエス・キリスト教会
EMI(国内盤 TOCE-7208)バルビローリがBPOに客演し、楽団の要請で行われたといわれるのがこの曲の録音であるが問題点が多いと思う。今回3、4楽章しか聴かなかったが、息が浅く旋律が最後まで続かないところがある。彫琢の浅いのはEMIの録音のせいもあるかもしれないが、とにかく曇った音質で、厚みと立体感にか欠けている。私のは国内盤LPの1,800円シリーズなので、外盤で聴くと印象がことなる可能性はある(写真はCDのジャケット)。
ワルター指揮ウィーンフィル
録音:1938年1月16日
EMI(国内盤 TOCE-3556)個人の力量で普遍性を獲得しているバーンスタイン、知性で再構成したジュリーニに対して、ワルターが体現したのは時代であった。ワルターの実演ではコントロールを失ってしまうことがあり、この演奏会のときもVPOから「ワルターは駄目だ」という発言があったらしい。ホロヴィッツとのチャイコフスキーでも完全にソロに食われてしまっていて、指揮者というよりオーケストラがソリストに呼応しているようだ。でもこの熱情的な演奏の魅力は代えがたい。ワルターらしいたっぷりとしたバスの響きに乗って、ただただ高揚を続ける。テンポが速くなってしまうが、すべっているようには聴こえない。まるでワルター個人だけではなくて、VPOのメンバーが時代というものに渾身の闘争を挑んでいるような演奏だ。
ここまで書いてさらに何度もこの曲を聴いた。ワルターの演奏は第1楽章ゆったりとはじまるのだがしだいに興奮、第2楽章でいかにもこの時代らしいきびきびとした舞曲になる。この楽章は中欧の人でないとよくわからないのかも知れない。ニューヨークでの『復活』同様、このような曲ではワルターは圧倒的に上手く他の演奏では退屈に聴こえてならない。第3楽章は荒れ狂う弦楽器の厳しいアンサンブルが奔馬のよう。そして第4楽章、これは運命への闘争である。前へ前へ熱情的に進む。最後は諦観で終わるのではなく、ブラームスの第3交響曲のように、何を語っているかわからないうちに終結する。下降音階のところで意識してテヌートすることで、陰々滅滅となることがないのがワルターの必殺技か。
オーストリア人はドイツとの併合自体にはほとんど賛成だった。ドルフス首相が官邸で暗殺されたようにもうどうしようもないくらい、ナチの勢力は広がってきていた。コンサートのときも妨害があったという話もきくが、どの程度のものだったのか。権謀術数うずまくウィーンにどんなことがあったとしても私は驚かない。ワルターを追い落とそうとする一派にとってナチが勢力を強めることは願ったりかなったりであったろう。クラウスなど親ナチの音楽家もいたのだから。
一方でコンサートマスターのロゼは、マーラーの作品を取り上げたこの演奏会に全力を傾けたと思われる。ザルツブルク音楽祭でトスカニーニがVPOを指揮しているように、ワルターや楽員は闘わなければならなかったのだ。そのようなときの演奏は唯一無二のものでありもはや歴史の一こまとして貴重である。この演奏、仏EMIのLPでもっていたが、先日聴いたら音場が狭いように思った。この感想を書くときに参考にしたのは、NAXOS(8.110852)のCDである。最後の余韻が消えるか否や終わってしまうのが少し興ざめで、LPより即物的に聴こえてしまう(写真はEMIのCDジャケット)。
3月11日にドイツ軍は国境を越え、オーストリアは消滅する。ワルターは亡命し、晩年アメリカでこの曲を録音した。とても美しい演奏だと記憶しているが、私は大切な思い出として持っているだけで満足だ。
(2007年12月6日、An die MusikクラシックCD試聴記)