An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」
シューベルト篇
文:松本武巳さん
シューベルト
交響曲第9番 ハ長調 D.944「ザ・グレート」
フェレンツ・フリッチャイ指揮ヘッセン放送交響楽団
録音:1955年11月4日
Tahra(輸入盤 TAH635)■ 窮地を救ってくれたフリッチャイ
実は、シューベルトの「ザ・グレート」の原稿は、最後までとことん悩み抜きました。しかし、この未開封CDを昨夜何気なく開封し、トレイに載せた瞬間、私の眼前で女神が微笑んでくれました。これは、私の脳裏に刻み込まれた1951年録音のフルトヴェングラーが構築した壁と山が、あまりにも分厚く険しく高かったためでして、正直なところ、もはや諦める以外には無いなと観念した瞬間でもありました。なぜフリッチャイで私は救済されたのかはこの後続けて記すとしまして、私はそもそも彼の録音をかなり愛好していますが、一方でこの「ザ・グレート」は彼の唯一の録音である上に、ライヴ録音でもあり、加えて以前聴いた彼の指揮する「未完成」に失望した過去の経緯まであったために、なかなかこの音源を聴く気になれなかったからなのです。私はもともと好きな指揮者の音源ではあるが、開封を渋っていたこのCDを開封する気にさせてくれた、気まぐれな女神様に対して感謝を捧げます。
■ リトル・トスカニーニ
若い時代のフリッチャイは、リトル・トスカニーニと形容されておりました。確かに若い時分のモノラル録音はかなり即物的な表現等を多用しておりましたし、相当なハイスピードで駆け抜ける演奏でもありましたが、個人的にはあまりそのような意識を持ってはおりませんでした。なぜなら彼の古い録音としては、フリッチャイの出身地ハンガリーの作曲家の作品であるとか、あるいはフリッチャイ自身の個性が表面に出ているディスクを多く聴いていたからでもあったからなのです。フリッチャイでいわゆる有名な西欧本流の伝統音楽は、そもそもそんなに多くを聴いておりませんでした。
■ フルトヴェングラーの再来
そんなフリッチャイが、白血病のために余命幾許も無いことを宣言されたころから、芸風が急速に進化あるいは変容し、フルトヴェングラーの再来であるかのように喧伝されるに至った経緯とかは、私は実際にあまり多くを知っておりません。しかし、この変容期にあたるであろう、ベートーヴェンの第9の録音や、ドヴォルザークの新世界の録音に対して思う私の感想は、そもそもが「かけがえのないフリッチャイ独自の境地」に対する感想であったのです。
■ クレンペラー!?
さらにフリッチャイはクレンペラーの再来であるとも言われましたが、フリッチャイが若い時代に、クレンペラーがブダペストのオペラ座で常任の指揮者として、コンサート等を振っていた歴史的な事実を除いて、一体どこがどうクレンペラーの再来であるのか、私にはちょっと見当外れのように思えてなりません。
■ これこそがフリッチャイの個性
それにしても、これが当時のスタジオ録音で残されなかったために、今頃になってようやくこの音源は日の目を見たわけですが、そもそも人生を駆け抜けてしまったフリッチャイには、スタジオ録音を残そうにも、許された時間との兼ね合いで許されなかった古今東西の名曲は、実際のところ星の数ほども存在しているであろうと思われます。
しかし、第1楽章のうねるようなテンポ感覚であるとか、音楽の恐るべき熱さとかは、確かにフルトヴェングラーを思わせるものがありますが、指揮棒の正確な振り分けであるとか、オーケストラの技術的な統率力は、フルトヴェングラーとは異次元の指揮者であったことも認識させてくれるのです。
次の第2楽章における軽妙な表情の変化と棒さばきは、反対にフルトヴェングラーには到底期待できなかった部分では無いでしょうか? 少なくともこの第2楽章はフルトヴェングラーを凌駕していると思われます。さらに、第3楽章は彼の演奏からシューベルトの本質である歌そのものが感じ取れる上に、フルトヴェングラーの重厚さとはまた異なった、舞い上がるような浮揚感が感じ取れます。こんな感覚はむしろ最近の現役指揮者が多く持っている現代感覚に近いと思われます。フリッチャイが時代を先取りしていた指揮者であった証拠でもあるでしょう。
そして、白眉は最終第4楽章です。この山が動くような大きなうねりが周囲から押し寄せてくるような表現は、本来はフルトヴェングラーの専売特許であったものですが、ここではほとんどフルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーのイメージが、私たち聴き手に対して与えられます。もちろん、このような書き方をしていること自体、いかにこの「ザ・グレート」に対する一般的なイメージが、フルトヴェングラーによって作られ、そしてその印象が私たちに定着しているかの証左でもあると思います。
■ この音源を聴いて
私は、フルトヴェングラーが、もしも並ぶものの無いディスクを残したのだとしたら、却って不幸であったと思います。これを救ったのがフリッチャイのこの古いライヴ録音であったと思うのです。誰もフルトヴェングラーを超えられないとしたら、実はそれはフルトヴェングラーにとっても名誉にならないどころか、クラシック音楽の終焉すら意味しかねない重大事だと思います。その意味で、このフリッチャイ盤に偶然出会えた幸福は、計り知れない幸福であったと言えるでしょう。
【 補足 】
この小文を書く前に、フルトヴェングラー盤と、私が試聴記を書こうとして比較視聴した諸々の名盤の中から、多少なりとも忘れがたい印象を持ったディスクを参考までに以下に掲出します。このうち、ルドルフ・ケンペは、1950年のドレスデンでの録音と1968年のミュンヘンでの録音を比較して、指揮者の意思の部分において露ほどの変化も感じ取れないことを勘案すると、もしかしたらケンペはフルトヴェングラーの1951年録音のディスクを聞いていないのでは無いだろうかと感じました。当時のヨーロッパでは、ディスクの位置づけ自体が、そもそもそんな程度であったのかも知れませんね。
一方で、クレンペラーとクーベリックは、密かにフルトヴェングラーのLPを鳴らしながら、日々悶々と悩んでいたのでは無いだろうかと勘ぐってしまうような作為的な部分が、多少ではありますが彼らの録音にしっかりと刻まれております。偉大な当時の大指揮者たちに多くの影響を与えていたことを偲ぶきっかけにでもなれば良いなと思って書き記した次第です。それにしても、こうやって聴き比べると、最後の2枚のディスク(アッバードとシノーポリ)はとても冷めた冷静な指揮振りが目に浮かんできます。そのことが良いか悪いかではなく、私は時代が大きく流れたのだということを痛感します。
(2007年11月30日記す)
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
DG(輸入盤 447439)オットー・クレンペラー指揮
フィルハーモニア管弦楽団
EMI(国内盤 TOCE13181)ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
Audite(輸入盤 AU92542)ルドルフ・ケンペ指揮
シュターツカペレ・ドレスデン
Tahra(輸入盤 TAH370)ルドルフ・ケンペ指揮
ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団
SONY(国内盤 SICC57)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
シュターツカペレ・ドレスデン
ドイツ・シャルプラッテン(国内盤 KICC9443)クラウディオ・アッバード指揮
ヨーロッパ室内管弦楽団
DG(輸入盤 4236562)ジュゼッペ・シノーポリ指揮
シュターツカペレ・ドレスデン
DG(輸入盤 4376892)
(2007年12月21日、An die MusikクラシックCD試聴記)