ゼルキンのベートーヴェン

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CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノソナタ第8番 ハ短調 作品13「悲愴」
録音:1962年
ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106「ハンマークラヴィーア」
録音:1969-70年
幻想曲 作品77
録音:1970年
ピアノ演奏:ルドルフ・ゼルキン
SONY CLASSICAL(輸入盤 SBK 47666)

 私が本格的にクラシック音楽を聴き始めたのは、ルドルフ・ゼルキンというピアニストがかなり年をとった頃だった。だから、私にとってのゼルキンは、頭が禿げ上がり、どこかの茶飲み爺さんのような風貌になったピアニストだ。どうも頼りない。にこにこしているけれど、あんまり貫禄がない。こんなおじいさんでは、もうまともにピアノは弾けないのではないかと勘ぐったこともある。しかし、ゼルキン爺さんはそんな私の不安を大きく覆し、最晩年になるまで達者なピアノを聴かせてくれた。例えば、80年代にアバドと録音した一連のモーツァルト・ピアノ協奏曲はゼルキンの清冽なピアノが味わえる逸品だと私は思う。さらにその後録音したベートーヴェンの後期ピアノ曲集(第30番〜第32番)は、ゼルキンの告別の歌を聴くようで、とても「ながら聴き」はできない立派な演奏である。ベートーヴェンの音楽が持つ特性なのかもしれないが、居住まいを正す演奏だと思う。

 もっと居住まいを正される演奏がある。この「ハンマークラヴィーア」だ。これはこのピアニストが、信じられないほどの高みに登った演奏だと思う。あまり大げさな表現を使うと失笑を買ってしまうと思うが、この演奏を聴いていると、あたかもベートーヴェンが現代に突如現れ、スタジオに籠もってこの曲を録音してくれたのではないかと錯覚する。スタジオの中でベートーヴェンはどんな姿勢でピアノを弾いていたのだろうか、などと私は真剣に想像してしまうのである。こうした妄想を抱かせるほどにベートーヴェンを彷彿させる演奏はあまり類例がない。反論は大いにあると思うが、有名なポリーニの演奏も、ベートーヴェンよりもポリーニを聴くという意味合いが強いように私は思う。

 さて、この「ハンマークラヴィーア」。この演奏を聴けば、どんなに意識が朦朧としている時でも背筋がビシッと伸びてくる。「おまえ、そこで正座して聴かんとだちかんぞ!」と恐い顔をしたベートーヴェンが私に怒鳴りつけてきそうな気がするからである(また大げさな表現だなあ...)。しかし、この演奏を聴いたことがある人なら、きっと私がそう思う理由も理解して下さるだろう。録音されたのは1969年、ゼルキンの絶頂期である。やはりゼルキンも若い頃は強靱なピアノを聴かせていたのだった。以下、楽章ごとに簡単にコメントしてみる。

 第1楽章。骨太の力強いピアノが堂々たる演奏を聴かせる。テンポは遅すぎず速すぎず。必ずしも滑らかに動かないゼルキンのピアノだが、そんな些細なことなど忘れさせる神々しさだ。聴いているだけでベートーヴェンの音楽の偉大さに打たれる。音楽に畏敬の念を禁じ得ないすばらしい演奏だ。

 第2楽章。短いながら諧謔的なこの楽章は非常に印象的だ。曲は短く軽い。しかし、わずか2分の間に小宇宙ができている。ゼルキンは軽く弾き流すことなく、ここでも重量感ある音で演奏している。

 第3楽章。大変御しがたい曲である。ピアノという楽器では演奏しきれない、苦悩を呟くような旋律から始まるこの長大な第3楽章は、ピアノの限界を超えているのではないかと私は思う。このアダージョはピアニストに地獄のような苦しみを与えているのではないかと私は想像している。このアダージョを歌うのはいわゆる「歌心」があってもなお足りない。何が必要なのだろうか? 精神力なのだろうか? もしかすると、ベートーヴェンに対する信仰心なのであろうか(それが分かれば、誰も苦労しないが)? 「ハンマークラヴィーア」演奏の評価は、この楽章で決まるのではないか。第2楽章までは腕力で乗り切れるとしても、この楽章だけはそうはいかない。ベートーヴェンのスコアを熟知し、深く深く音楽に分け入ったピアニストだけがこの楽章を奏でられる気がする。その難曲をゼルキンは見事に演奏している。何と、驚くべきことに全編を歌い切っているのである。初めて聴いたときは信じられなかった。私はこの楽章ばかりは満足に歌うことができない曲だと考えてきたからである。それも生々しい人間の声が聞こえてくるような歌い方だ。すごい。必聴である。

 第4楽章。「嵐の前の静けさ」の前奏が終わると、一気呵成のフーガが始まる。腕力で乗り切れないこともないだろう。が、腕力だけでフーガを弾くと、音楽的にはならない。ゼルキンは怒濤のような演奏を繰り広げながら、ベートーヴェンへの信仰告白をしているような迫真の演奏を聴かせる。

 うーむ。ゼルキンは本当に偉大なピアニストだ。なお、超一流のピアニストであったゼルキンでも録音に5日かけている。ごつごつしたピアノではあるが、完成度の高さでは群を抜く演奏だと思う。またこの演奏を聴きたい。何度でも聴きたい。こんな演奏を残してくれて本当に嬉しい。

 

2000年1月18日、An die MusikクラシックCD試聴記