我が家のアイドル、シフのチェロを聴く
前編
ブラームス
チェロソナタ第1番ホ短調作品38
チェロソナタ第2番ヘ長調作品99
チェロ演奏:ハインリッヒ・シフ
ピアノ演奏:ゲアハルト・オピッツ
録音:1996年8月
PHILIPS(輸入盤 456 402-2)ハインリッヒ・シフ。チェロ奏者である。ピアニストにアンドラーシュ・シフという人がいるから、混同しやすい。しかも、今のところシフといえば、ピアニストの方が有名かもしれない。有名か、有名でないか、どこで境界を設けるか定かでないが、残念ながら、チェリストのシフはあまり認知されていない気がしないでもない。こんなことを書くのは、レコ芸4月号の記事を読んで唖然としたからである。「話題のレコードを最新のオーディオで聴く」のコーナーで、あろうことか、シフは「録音向き」と書かれているのである。小林利之さんも菅野沖彦さんも、決して否定的な意味で「録音向き」という表現を使ったわけではないとは思うのだが、どうも釈然としない。私はシフのエネルギッシュなコンサートに何度も接しているので、「録音向き」といわれると、「あんなダイナミックな人がどうしてそんなふうに書かれるのか」と首を傾げてしまう。私にとってシフは完全に「実演向き」の音楽家なのである。
この人は、熊さんのようなチェリストで、風貌からして可愛らしい。しかもおとなしい熊さんではなくて、かなり大暴れするのである。「身体全体で音楽を奏でています」という感じがはっきり分かる人なので私は大変好感を持っている。ただし、そうしたことはCDでは分からないし、ましてや、大手レーベルからのCDリリースは少ないから、「録音向き」などと書かれてしまうのではないだろうか。左の写真は、某オケでハイドンの協奏曲を弾き振りするシフの雄姿である。身体全体が音楽していて、見ているだけで楽しい。実は、シフは我が家ではアイドルなのである。
それはともかく、シフの新譜が出たことは、私にしてみればまことに喜ばしい。しかも、ブラームスのチェロソナタだという。「斉諧生音盤志」風に書くと、「買わざるべからず」。ブラームスのチェロソナタは、室内楽のわりに、巨大な重量感があるところが特徴である。特に第1番は、3楽章すべてが短調で、ピアノの音域より低いところでチェロが暗い響きを発散させるという、いかにもブラームスらしい陰々滅々の音楽。だから、あまり気分が晴れ晴れとしない日にはとても聴けない。また、交響曲第4番の後に書かれたチェロソナタ第2番も、第1番ほどではないにせよ猛烈な重量感があり、大オーケストラ曲を聴いているようなスケールを感じさせる。だから、第1番と第2番を通して聴くのは、かなりしんどいと私は思う。
そのチェロソナタをシフはなるべく力まないようにして演奏しているらしく、持ち前の逞しさよりも、繊細さを前面に打ち出しているようだ(これが「録音向き」という表現につながったのだろう)。さすがに第1番の第3楽章のフーガでは迫力ある重戦車のようなチェロを聴かせるが、全体的には繊細なブラームスというべきであり、大変聴き応えあるすばらしい演奏だと思う。PHILIPSの名録音が、チェロとピアノの音色を実に上手に捉えてくれたのも嬉しい。
考えてみれば、やや肉体派のイメージもあったシフが、こうした繊細なブラームスを演奏するというのは、非常に面白いことだ。自分の内面にある音楽を時間をかけて熟成させた結果なのだろう。シフはどんどん深みのある音楽家になっていくようだ。今後がますます楽しみになってきた。
ところで、このCDジャケットのデザインには遊びがある。小さなハリネズミの絵が描いてある。なかなかいかしたデザインである。CDそのものにも、それらしき絵が描いてあるのだ。これは、ひょっとしてシフのことだろうか? 私は熊さんみたいな人だと思っていたが、欧州ではハリネズミのような男として知られているのだろうか? ハリネズミであれば、ピアノのオピッツさんもそう見えなくはない。うむむむむ。これは気になるぞ!一体どういうことなのだろうか?(その後判明。「赤いはりねずみ」はブラームスの好きなレストランだとか...。疑問が解決しました)
もうひとつ、シフのチェロを楽しめるCDをご紹介しておく。というより、室内楽を楽しむのに打ってつけのCDではないかと思う。
ブラームス
ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調作品8
ベートーヴェン
ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調作品97「大公」
ピアノ:アンドレ・プレヴィン
ヴァイオリン:ヴィクトリア・ムローヴァ
チェロ:ハインリッヒ・シフ
録音:1993年6月
PHILIPS(国内盤 PHCP-20240)ブラームスとベートーヴェンのピアノ三重奏曲を優秀録音で楽しめる名盤。室内楽というと、過去の大演奏家達のの録音が重宝される傾向があるが、デジタル時代にもいいものはある。
ブラームスが室内楽をどのように考えていたのか、私は大変興味がある。私には、室内楽で大オーケストラのスケール感を出そうとしていたように思えてならない。しかも暗く、晦渋な場合もある。また、一部の曲はどうも重厚すぎてついていけない。しかし、3つのピアノ三重奏曲のうちでも、21歳の時にいったん完成されたという第1番は重厚すぎず、若い青年の希望が見え隠れするような趣があって好ましい。
また、ベートーヴェンの「大公」は傑作中の傑作として知られてはいるが、重々しい作品ではない。雄大な第1楽章を持つ大曲であるものの、豪快な曲ではなく、むしろ爽快な音楽である。これら室内楽の名曲を二つ選んで、当代の名手を使って録音されたこのCDは、まさにCDならではの音楽を聴くことの醍醐味を味わわせてくれる。
年齢でいえば、1929年生まれのプレヴィンが圧倒的に年上だ。ムローヴァは1959年、シフは1952年生まれだから、プレヴィンが若い二人をリードするように思われる。が、ここでプレヴィンはかなり控えめで、バイオリンや、チェロを常に立てている。というより、それぞれが、お互いの音楽を尊重しながらアンサンブルを楽しんでいるように聞こえる。大家同士の演奏になると、力みすぎて、結果的には大熱演になるものの、何度も繰り返して聴く気になれないものもある。が、これは出しゃばる奏者がいないという点で理想的とも言える名演奏だと思う。少なくとも、私はこんな演奏が好きだ。ブラームスも、ベートーヴェンも明るく、爽やか。
悩ましいのは、3人が3人とも非常な美音の持ち主であることだ。ムローヴァのきめの細かいしっとりとしたバイオリン、シフの柔らかく温かみのあるチェロ、そしてきらきら輝く粒建ちのプレヴィンのピアノ。そんな3人がお互いを尊重しながら作り上げる演奏が悪いわけがない。清澄な響きに満たされた両曲は、何度繰り返して聴いてもその美しさに溜息が出る。音楽には透明感があり、すっきりまとまっている。過度に重くなったりしないのが好ましい。この組み合わせは一時的なもので、トリオはこの録音終了とともに解散されている。プロデューサーはよくこれほど見事な組み合わせを考えついたと感心するが、1回限りにするのは何とももったいない。第2,第3弾は出ないものだろうか?
2000年4月17日、An die MusikクラシックCD試聴記