セルの録音を聴く

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前編

CDジャケット

ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲
モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K.550
シベリウス:交響曲第2番ニ長調作品43
ベルリオーズ:「ラコッツィ行進曲」
セル指揮クリーブランド管
録音:1970年5月22日、東京文化会館におけるライブ録音
SONY CLASSICAL(SRCR 2539-40)

 最初に書いておくと、このCDは、今年私が聴いたCDの中のベストである。このページの読者で、このCDをまだ聴いていない人はおられるだろうか? もし、まだの方は、すぐCDショップに走るべきだと思う。2枚組で3,780円だが、内容を考えると決して高くはない。それどころか、おつりがくる。高々3,780円でこれほどすばらしいコンサートを追体験できるのであれば、安いものだと思う。

 このライブ録音は、一日の演奏を最初から最後まで、拍手も含めて収録したものだ。数日分の録音から、出来のいい場所だけを切り張りしたものではない。ここがとても大切なところで、これを聴けば、セルとクリーブランド管が1回のコンサートで、どれだけ高い水準の演奏を行っていたかを知ることができる。収録された曲は、ライブ録音であるにもかかわらず、完成度の高さにおいてスタジオ録音盤に全く遜色がないばかりか、演奏の熱気において完全にスタジオ録音を凌いでいる。

 最初の「オベロン」からただごとではない。最弱音から音量を増していき、堂々の演奏をしているのだが、強弱のダイナミズムに依存する演奏などではなく、しなやかなクリーブランド管の音色が浪漫の香りを放ちはじめる繊細極まりない演奏だ。10分に満たない「オベロン」序曲だけで、聴衆はセルとクリーブランド管のコンビがいかに高い水準で音楽を作り上げていくかを知り、驚嘆したのではないだろうか。30年たった今CDで聴いてもその完璧な演奏に深い感銘を受ける。

 次のプログラム、モーツァルトの交響曲第40番には、同じコンビによる有名なスタジオ録音がある。ご存知の方も多いと思うが、スタジオ録音盤はセルが秘術の限りを尽くしたような超絶的演奏である。第1楽章に何度も現れる主旋律が、現れる度毎に別のニュアンスを聴かせる。その「ニュアンス攻撃」は、それでいてとても自然に行われているから、漫然と聴いているとさっぱり分からない。しかし、じっと耳を傾けると、指揮者とオケの神経の細やかさにただ感心してしまう。このライブ録音では、さすがにスタジオ録音盤までの繊細さはないのだが、音楽にはそれを補って余りある推進力がある。繊細さ、細やかさに、わずかな剛毅さを覗かせる。セルのコンサートにける演奏姿勢が窺えて面白い。

 そしてこの2枚組CDのメインであるシベリウスだ。セルは1964年にコンセルトヘボウ管とシベリウスの交響曲第2番をスタジオ録音している(PHILIPS)。実は、そのコンセルトヘボウ盤を私は余り高く評価していない。オケの音色はさすがにすばらしいし、大きく盛り上がっているように聞こえるのだが、指揮者のテンションの低さを隠しきれない。残念だが、PHILIPS盤から私はシベリウスの熱いメッセージを聴き取ることができない。「さすがのセルも、当たりはずれがあるものだ」と私は思っていた。そのため、このライブ盤も、聴く前は少し不安だった。

 だが、これはまれに見る感動のシベリウスだ。シベリウスの交響曲第2番が私に与える感動は、ここ20年のうちに、徐々に風化しつつあった。渡邉暁雄さん(1919-1990)の指揮で聴いたシベリウスが私の記憶に焼きついているものの、その後、生でもCDでも、それを超える演奏に巡り会ったことはない。感動は日々薄れていくばかりだった。だから、「私はもうこの曲に飽きてしまっただけなのだろうか」と真剣に考えていた。ところが、セルの演奏を聴き進うちに、かつての感動が甦ってきたのである。私は久しぶりに自分の高ぶる鼓動を聞いたのだった。これほどの感動を、今年、私はクラシック音楽を聴いて得たことはなかった。

 すごいのは、セルがコンセルトヘボウ管とのスタジオ録音盤以上に自分の意志をオケに徹底させていることだ。セルはクリーブランド管にはフレーズ毎に細かな指示を与え、それを守らせている。もちろん、大味な味付けなどないし、これ見よがしなはったりもないのだ。スコアを見ながら聴いていた私は、そのすさまじさに驚くばかりであった。「音楽は指揮者、オケでこうも変わるものなのか?」という驚きは今も私を去らない。クリーブランド管はライブだというのに、完璧な演奏をしている。それも、「完璧」という言葉から連想される冷たさとは無縁である。指揮者もオケも高い志気を保ったまま、技術的にも完璧な演奏を成し遂げたわけだが、言葉で書くとそれだけになってしまうのが悔しい。これは再現芸術のひとつの頂点だ。交響曲が演奏されている42分間ほどは、まるで別の世界にでもいるような気持になる。壮大なフィナーレが終わった瞬間、パチパチパチと入ってくる拍手の音で私は思わず我に返った。あの拍手がなければ、白昼夢のままであったことは想像に難くない。

 

中編

CDジャケット

マーラー
交響曲第10番よりアダージョとプルガトリオ(録音:1958年)
ウォルトン
オーケストラのためのパルティータ(録音:1959年)
ストラヴィンスキー
組曲「火の鳥」(1919年版)(録音:1961年)
セル指揮クリーブランド管
SONY CLASSICAL(国内盤 SRCR 2553)

 私はこのような寄せ集めCDはあまり好きではない。1枚のCDとしてのまとまりに欠けるからだ。このCDに収録されているのは、マーラーにウォルトン、ストラヴィンスキーと、20世紀の音楽ばかりだが、共通点を他に認められない。プロデューサーの見識が感じられない妙な組み合わせである。ウォルトンについては、他の録音と組み合わせれば、立派なウォルトン・アルバムができたのに、何とももったいないことだ。

 もっとも、それぞれが貴重な録音であることは確かだ。マーラーとストラヴィンスキーについては、恥ずかしながら、私は録音の存在すら知らなかった。「共通点がない」などと書いたが、埋もれていた録音という意味での共通点があって、日本のプロデューサーはそこをアピールしたかったのかもしれない。

 まずはマーラー。セルはマーラーの録音を交響曲第4番と第6番しか残していないはずだ。クレンペラーと同じようにマーラー演奏に関して何らかの主張があったのだろう。この指揮者が交響曲第3番や第7番、第9番、あるいは「大地の歌」を演奏するのを、私は想像するだけでも楽しいのだが、あいにくセルはそれらの曲目については録音をしてくれなかった。セルが選んだもうひとつの交響曲は、どういうわけか第10番で、プルガトリオのおまけ付きであった。私にとって第10番のアダージョは、それだけで完結した音楽とも言えるのだが、セルは感情移入を行わない醒めた演奏をしていて面白い。この演奏ぶりなら、次の楽章に続けられるような気がする。余り感情移入の激しいアダージョでは、その後を恐くて聴き続けられない。

 ウォルトンの「パルティータ」は、もしコンサート会場で演奏すれば大変なショウ・ピースになるだろう。1958年の作曲であるにもかかわらず、全く前衛的でなく、とても楽しい。ウォルトンは、オケの各セクションに聴かせどころを用意しているから、セルとクリーブランド管のような超絶コンビにはもってこいの曲だろう。わずか15分の曲だが、クリーブランド管のサウンドを十分楽める。

 しかし、ストラヴィンスキーの演奏の前には、マーラーの10番も、ウォルトンの「パルティータ」も霞んでしまう。この「火の鳥」は、まさに目もくらむような色彩と繊細さのオンパレードだ。この曲に聴くクリーブランド管は、最初の2曲など比較にならないくらいみずみずしい音を出している。特に木管には痺れてしまう。ティンパニーの地響きにも。これはある程度録音技術による部分もあったとは思うが(わずかな差ではあるが、3曲の中ではこの曲の録音が最も新しい)、それだけではないだろう。セルにとって、精緻なオーケストレーションを持つ「火の鳥」はぴったりの曲だ。オケにしても、腕の見せ所であることは百も承知であっただろう。もう最初から意気込みが違っていたとしか考えられない。これは数ある組曲版の中でも屈指の演奏ではないか。光が目の前できらめくような瞬間が次から次へと登場してくるので、気を許せない。聴き始めるとあっという間に終わってしまう。セルにはどうやら「火の鳥」の全曲盤の録音はないようだが、これほどの組曲版を演奏できるのであれば、全曲録音を作るべきだったのだ。いったいプロデューサーは何を考えていたのだろうか。あっという間に終わってしまう「火の鳥」を聴いて欲求不満に陥るのは私だけではあるまい。

 なお、ウォルトンについては、下記CDが今年同時に発売された。ヒンデミットの「ウェーバーの主題による交響的変容」の代わりに、ウォルトンの「パルティータ」を収録すれば、完璧なウォルトンアルバムになったはずだ。が、実は、その割り込んできたヒンデミットが異様に優れている。セルが楽しんで演奏しているのが手に取るように分かる。セル御大、意外にユーモラスな曲が好きだったのかも。

CDジャケット

ヒンデミット
ウェーバーの主題による交響的変容(録音:1964年)
ウォルトン
ヒンデミットの主題による変奏曲(録音:1964年)
交響曲第2番(録音:1961年)
セル指揮クリーブランド管
SONY CLASSICAL(国内盤 SRCR 2559)

 

後編

 

 「セルを手兵であったクリーブランド管以外で聴くとどうなのだろうか」と思ってこんなCDを取り出してみた。

CDジャケット

R.シュトラウス
4つの最後の歌、ほか
ソプラノ:シュヴァルツコップフ
セル指揮ベルリン放送響、ほか
録音:1965年9月
EMI(国内盤 TOCE-7239)

 「4つの最後の歌」の決定的名盤として名高い録音。このCDを語る際は、いつもシュヴァルツコップフの歌唱ばかりがテーマになっているのだが、実は伴奏をつけているのはセルなのである。オケはベルリン放送響。私はこの組み合わせがどうしてできたのか不勉強につき知らないのだが、シュヴァルツコップフの亭主であった辣腕ディレクター、ウォルター・レッグが何らかの画策をしたに違いない。

 それにしても、レッグのプロデューサーとしての腕前は確かだ。多分セルであれば、こんな伴奏をしてくれると最初から分かっていたのだろう。それも手兵でなくても完璧にオケを統率できるセルを念頭に置いていたからこそできた組み合わせのはずだ。

 歌についてだが、私はCD評ではシュヴァルツコップフを絶賛する文章にしかお目にかからない。が、あろうことか、私は体質的にシュヴァルツコップフを受け付けないのである。名盤中の名盤といわれるこの録音を聴いてさえ、満足できない。こればかりはいくら責められようとも、生理的問題のようだから、ご容赦願いたい。

 注:私の最も好きな「4つの最後の歌」はこの録音ではなく、カラヤン指揮ベルリンフィルが伴奏し、ヤノヴィッツが歌った録音だ(73年録音、DG)。

 一方、伴奏の方は、断然この録音が他を圧しているのではないかと思う。カラヤン盤も冷気が漂い始めそうな美しさであるが、セルの演奏は、比較する気にもならないほどの水準だ。音楽を聴いていると、もはやこの世のものとは思えないのだ。そもそもオーケストラがこんなに美しく聞こえる録音を私は他に知らないのである。それは既に技術論を超えている。繊細とか、神秘的とかいう形容も当てはまらない。ただひたすら美しい。批評の際には、シュヴァルツコップフだけでなく、もっとセルの伴奏に話題が及んでもいいのではないだろうか。

 何度も書くが、セルの手兵はクリーブランド管であって、ベルリン放送響は客演したに過ぎないはずだ。にもかかわらず、これほど徹底した美を打ち立てるのは、(もしかしたら録音技術の恩恵に与ったのかもしれないが)、驚異的なことである。作曲したR.シュトラウスだって驚嘆するはずだ。論より証拠、皆さんのCD棚からこのCDを取り出して聴いていただきたい。最悪の場合、セルが伴奏していたことさえ気がつかなかったかもしれないが、どんなオケに客演してもセルは独自のサウンドを作り上げる能力を持っていたことが分かるであろう。空恐ろしい人だ。

 

2000年10月2日、An die MusikクラシックCD試聴記