ミレニアム企画 アバド・ケンペのベートーヴェン交響曲全集を聴く

交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」

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 ケンペ盤

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
バレエ「プロメテウスの創造物」序曲 作品43
劇音楽「エグモント」序曲 作品84
ケンペ指揮ミュンヘンフィル
録音:1972年6月23日〜26日

 世上、ケンペはどんなイメージを持たれているのだろうか? 堅実?熱狂?緻密?華麗? 私の場合、そうしたイメージ全てをケンペに対して持っている。ケンペは一人で様々な顔を持つのである。とても一筋縄ではいかない。このベートーヴェン全集を聴いていると、さらに「業師」という言葉も浮かんでくる。「天の邪鬼」という気もする。例えば、「エロイカ」の冒頭である。ご存知のとおり、「エロイカ」は、最初の2小節に、全曲を象徴する変ホ長調の主和音が2回打撃されることによって開始される。ベートーヴェンは四分音符にスタッカート記号をつけていて、それが全楽器で打ち鳴らされる。文字どおり打撃なのである。通常の演奏では、勢いよくン、ンとなるか、ン、ンとなり、オケの気合いを込めたアインザッツ(入り)が聴ける。しかも、この2回の打撃音がその後の演奏を占う役目を果たしているから、演奏する方だけでなく、おそらく聴く方も集中力は極度に上がっている。

 そこをケンペはどうしているかというと、ちょっと間延びしているのである。私の耳が悪いのかもしれないが、スタッカート記号を意識してはずしたようだ。どうも拍子抜けする。こういうところがケンペの面白いところだろう。「してやったり」という顔が浮かんでくるようだ。ケンペは聴き手の意表をつくのである。

 しかし、ケンペがすごいのは、それに終始しないことなのだ。この「エロイカ」で、茶目っ気を出しているのは最初の二小節だけ。あとは完全な正攻法で、遊びがない。作品に対する敬意もあったのだろう、ケンペは大変な集中力を持って演奏している。オケの響きは分厚く、誠に立派である。これは伝統的なスタイルによる貫禄の「エロイカ」演奏といえるだろう。ケンペは意表をつくことはあっても、それに頼り切った演奏をしないのである。実力あっての遊びであり、ケンペはあくまでも余裕をもって演奏しているのである。それも、ケンペほどの才能とそれを許容する環境がなければ出来ないことだろうが...。これだけのベートーヴェンを聴くと、「もう充分」という気がする。何かを付け加えようかと考えつかないからである。

 では、アバド盤はどうか。

 

■ アバド盤

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
アバド指揮ベルリンフィル
録音:2000年3月、フィルハーモニー

 カップリングは交響曲第4番。3番と4番の組み合わせによるCDは珍しい。

 私は上記ケンペ盤なら、クラシックをこれから聴くという人にも、かなり聴いたという人にもお勧めできると思う。ではこのアバドの新盤は? 答えはこうだ。「できれば、そのよさを誰にも教えずに、一人で聴き続けたい」。

 「エロイカ」を実演で聴いたことがある人なら、ちょっと非力なオケであっても、かなり激しい音響が作られることを知っていると思う。曲がそもそもダイナミックにできているのである。だから、大編成の上手いオケで聴くと、それだけで半ば成功を約束される。が、そうした方向をアバドは選ばなかった。アバドも、さすがに「エロイカ」ともなると、最初の2曲に比べて若干編成を大きくしているとは思うが、少なくとも聴感上、弦楽セクションが急に大きくなっているとは思えない。

 ところが、この演奏ではものすごく激しい音響になっているのである。それというのも、オケの気合いが半端でないからだ。アバドの集中力は、驚くべきことに、上記ケンペを大きく凌いでいる(ケンペのファンの方、許して!)。それどころではない。これはアバドが全身全霊を捧げた、まさに究極の演奏だ。私はベルリンフィルを最大限に利用できる立場にあるアバドが、過去の演奏経験を全てここに盛り込んだのではないかと思っている。鈍重さは微塵もない。リズムは抜群によい。オケの音色には透明感があり、研ぎ澄まされ、繊細、そして時に豪放。アバドは一心不乱に指揮をしていると見え、第1楽章のテンポなどとても速い。それが単に速いだけではなく、全てのフレーズが生き生きとし、輝いているのである。

 私はこの「エロイカ」を聴いてドキドキしてしまった。そして非常に感動してしまった。今までこのように量で勝負するのではなく、響きの透明度で勝負をし、豪快さも出しつつ、さらに光り輝く大音響を作り上げた演奏がいくつあっただろうか? このような方法が考えられたとしても、実現はなかなかされなかったはずだ。それをアバドは見事に実現した。私は正直言って、アバドがこれほどのセンスの持ち主だとは思ってもいなかった。これはアバドに脱帽である。

 ただし、この演奏は万人向けだとは思わない。伝統的なスタイルではないからだ。軽量級と非難したり、違和感を持つ人もいるはずだ。でも、そんなことは構わない。これほどの「エロイカ」演奏なら、誰にも教えず、自分一人のものとして楽しんでも良いのだ。実に感動的なベートーヴェンである。

 なお、第1楽章において、ケンペは繰り返しを省略、終結部のトランペットファンファーレも取り入れているのに対し、アバドは繰り返しを実行し、トランペットは落としている。私の場合、演奏全体の印象がこれだけで変わるわけではないので、あまり拘らないのだが、参考まで。

 

追記

 

 上で私は「大編成の上手いオケで聴くと、それだけで半ば成功を約束される」などと書いた。が、不遜極まりないことだ。もちろん、それだけで名演奏ができあがるわけでは決してないのだ。それほど単純であるならば、個性あるオーケストラが無数に存在する理由がなくなってしまう。音楽は音響だけで成り立つものではない。音響だけで成り立つ演奏を耳にすると、とても空虚な感じがする。音響だけの演奏は空虚すぎて楽しめない場合が多い。

 ところが、音響を徹底的に磨き上げ、大編成の高機能オケでベートーヴェンの交響曲を録音した大指揮者がいる。カラヤンである。

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲全集
カラヤン指揮ベルリンフィル
録音:1982〜1985年
DG(輸入盤 415 066-2)

 An die Musik上で、私はカラヤンのベートーヴェンに対して否定的な発言を繰り返してきた。すなわち、「ベートーヴェンの息吹が感じられない」と。感じ方は人によって違うと思うが、私はずっとそう思っている。この全集で、例えば、第5番、第6番などを聴くと、どうにもベートーヴェンらしくないのである。はっきり言って音響優先と感じられるからだ。ところが、ベートーヴェンらしさを感じさせなくても、やはりすごい演奏はある。正直に告白するが、この中に私が時々取り出して聴く録音が混じっているのである。交響曲第3番「英雄」と交響曲第9番「合唱」である。実は、時々取り出して聴くどころか、一時毎日聴いていたのである。

 10年ほど前、私はとある研修会のインストラクターに指名され、約2週間研修所に閉じこめられる羽目に陥った。帰宅は許されない。つまり、クラシックは聴けない。仕方なく、CDウォークマンを購入した。その際研修所で聴くべく用意した録音がカラヤンの「英雄」と「合唱」だったのである。研修所で私はわずかな時間を見つけてはカラヤンの演奏を聴きまくったのである。お陰で隅々まで覚えてしまった。私はカラヤンを全否定するわけではないし、全部肯定するわけでもない。いいものもあるし、好きでないものもある。この2つの録音はスポーティすぎてベートーヴェンらしくないかもしれないが、カラヤンの凄さを実によく表していると思う。

 カラヤンはここで、大編成のオケ、それも最高の技術をもったベルリンフィルを使い、これでもか、これでもかとだめ押しするように量的な拡大を目指している。第9番はその最たるものだが、第3番も負けてはいないのである。カラヤンはオケの磨き上げられたサウンドで、かっこよくベートーヴェンの楽譜をなぞっていく。通常、それ*だけ*ならば、空虚な音楽になるのだが、カラヤンとベルリンフィルのコンビともなると、次元が違ってくる。「オケとはここまでかっこよく演奏できるものなのか」と感嘆してしまうのである。「英雄」といい「合唱」といい、カラヤンがカラヤンらしく振る舞える最高の曲である。指揮者の資質に合致していたからこそ、ヒロイックなまでにかっこいい演奏ができたのであろう。今聴き直してみても、量的拡大を図り、分厚く切れ味のいいきらびやかなサウンドを聴いていると、オーケストラの華やかさに時間を忘れて聴き惚れてしまう。

 アバドが新ベートーヴェン全集で試みたのは、カラヤンとは全く逆のことだ。量を追求することなく、ベートーヴェンの本質に迫っている。改めて大したものだと思わずにはいられない。

 

(2000年12月11日、An die MusikクラシックCD試聴記)