ミレニアム企画 アバド・ケンペのベートーヴェン交響曲全集を聴く
交響曲第5番 ハ短調 作品67
■ ケンペ盤
ベートーヴェン
交響曲第5番ハ短調作品67
ケンペ指揮ミュンヘンフィル
録音:1971年12月20日〜23日20年以上も前の話だが、マゼールが「運命」を録音したとき、レコ芸は酷評を浴びせた。正確な表現は忘れたが、「才人、才に溺れる」と書いてあったように思う。何でも、冒頭の5小節がわざとらしいのだとか。当時若年のために、レコ芸の批評文に過大な信頼をおいていた私は、その記事を読んでたちまちマゼール盤に対する興味をなくした覚えがある。
ベートーヴェンの交響曲の中でも、第5番は特に注目を集める曲だ。誰もが自分らしさを出そうと努力する。マゼールだって才人なのだから、半ば遊びのつもりで変わった演奏をしてみたかったのかもしれない。でも、どうなのだろうか? この曲で、「何か変わったこと」をしようと意識してそれを実行し、成功した例はいくつあるのだろうか? 私は成功例をあまり想像できない。
ケンペは、それを知っていたのだろう。ここに聴く「運命」は、奇を衒ったところはなく、全くの正攻法である。最初から最後まで、変わったことがない演奏である。唯一特筆するならば、力強いことだ。聴き手は、それほど大音量で再生しなくても、分厚く強力な響きに満たされたベートーヴェンを聴ける。それは、大編成オーケストラによる古典的演奏法を踏襲したものだろうが、その安定感や力感は、私のような保守的な聴き手にはやはりベートーヴェンにふさわしいと感じられる。第1楽章が力で推していく観が強いのはもちろん、やや女性的な面もある第2楽章も極めて太い線で描かれており、男性的。それも鉄の意志を持つ男を彷彿とさせる。重厚な迫力も申し分ない。
その重厚さに弾みをつけて第4楽章に突進すれば、それ相応の爆演を実現できただろうが、あえてケンペは危険な一線を踏み出していない。ケンペは丁寧な指揮に徹しているのである。音楽に自然に備わっている貫禄があれば、スタジオ録音で奇を衒う必要などないと判断していたのではないだろうか。最後の和音が豊かな残響を伴って空間に消えていくのを聴くと、実に立派なベートーヴェンを聴いたと感心する。正攻法とは何とすばらしいアプローチであろうか。このCDを聴くと、ドイツ人が演奏したドイツの伝統的音楽という感じがする。こうしたスタイルはもう古いのではないかと分かっていても、なお親しみを感じ、安心する私はどうしようもない保守派なのだろう。
ベートーヴェン
交響曲第5番ハ短調作品67
アバド指揮ベルリンフィル
録音:2000年5月、フィルハーモニー「運命」について、我々は既に多くの名盤を知っている。フルトヴェングラー、クレンペラー、カルロス・クライバーなど、過去から現在に至るまでに様々な大指揮者がレコード史上にその足跡を残した。アバドにしても、ベルリンフィルの統率者として、歴史に名を残すような記録を残すことをある程度は意識していたと思う。そのアバドが選んだ演奏スタイルは、交響曲第1番から第4番までの録音で見てきたように、透明感と卓越したリズムを基調にした独自のものである。ここでもアバドは、そのスタイルを崩していない。
全集としての統一感を考慮すると当然のようだが、それ自体がすごいことだ。指揮者にとって、伝統的なスタイルで演奏する方がよほど簡単なはずだ。そして、その方が一般聴衆の受けがよい可能性だってあり得る。アバドはベートーヴェン全集を録音するにあたり、完全に腹をくくっているのだ。現在のアバドにとっては、これが最高の答えなのであろう。仮にそれが批判の対象にされようと、アバドはアバドにしかなしえないベートーヴェンを表現した。私はアバドが誠心誠意をもってこの演奏に取り組んだと信じて疑わないのである。
この最重量級交響曲において、透明感とリズムを追求すれば、どうしても軽量級のベートーヴェンになるのは避けられない。上記ケンペ盤では、さほど再生装置の音量を上げなくても、厚みのある量感たっぷりのサウンドを聴くことができるが、アバド盤では、かなり音量を上げても透明感があって、厚みを感じさせない。まさに室内楽的な響きになっていて、各セクションの音が克明に聴き取れる。それも、ベーレンライター版の特徴なのか、時たま突飛に現れる?装飾的な音が明瞭に聴き取れるのは、録音スタッフの力もあったのだろうが、実に面白い(もっとも、私はベーレンライター版の楽譜を持っていないので、これについては明言はできない)。
しかも、アバドはスマートに演奏しているのではないのだ。軽量級の演奏には違いないが、オケには透明感を維持させたまま渾身の力で演奏させている。それが最も顕著に現れるのは第4楽章で、アバドはオケを徹底的に煽り立て、オケは、弾むようなリズム、怒濤のようなパワーを聴かせる。もし演奏しているのがベルリンフィルでなければ、薄っぺらい音による、ただのどんちゃん騒ぎに終わっていただろうが、ここではプロの至芸が聴けるのだ。オケは最強音で鳴り響く、しかし、透明感は維持される。リズム感も抜群で音楽の躍動を感じる。このような「運命」はとても珍しいのではないか。軽量級のベートーヴェンゆえに、この演奏を評価しない向きも多いと推測されるが、並みの演奏ではない。自信を持ってこうした演奏を敢行したアバドに私は大きな拍手を送りたい。ファンには申し訳ないが、上記ケンペの「運命」には正直なところ、新しい発見はなかった。しかし、アバド盤には新鮮な驚きがある。これはアバドというプロの中のプロによる立派な演奏記録だと私は思う。
ベートーヴェン
交響曲第5番 ハ短調 作品67
交響曲第6番 ヘ長調 作品68
ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管
録音:1997年3月25,26日、チューリッヒ・トーンハレ
ARTE NOVA(輸入盤 74321 49695 2)ジョナサン・デル・マーによるベーレンライター版は1997年に出版されている。ジンマンによる録音はほとんどその出版と同時に行われたといってよい。ARTE NOVAも、「モダン楽器によるベーレンライター版の世界初録音」とCDジャケットに大書している。
ARTE NOVAはBMG傘下の廉価盤レーベルだ。輸入盤でジンマンのベートーヴェン・シリーズを1枚買っても780円ほど。それをARTE NOVAは、ボックスセットにし、しかも2,700円ほどで売り出した。これ以上安いセットは考えられないと思った私は、ボックスセットを迷わずに買ったのである。ただし、安いから買ったのであって、この録音の価値など皆目分からなかった。あまり安かったので、有り難みがなく、他のCDを優先的に聴いていたのである。メーカーは、CDをむやみに安く売らない方がいいのではないか、と私はつくづく思う。
さて、ジンマンの全集は衝撃的な出来映えである。特にこの第5番を聴いたときの驚きは、今も忘れることができない。文字とおり卒倒した。フレーズをブツ切りにする奏法と強力なアクセント付けはまだしも、第1楽章後半に出現するオーボエのソロには「CDプレーヤーが壊れた」と慌てた。通常の版だと268小節目に現れるオーボエのカデンツは、全楽器が休止する中で非常に大きなインパクトを聴き手に与える。ジンマンはそこにかなり長い装飾音を加え、より一層強烈なインパクトを与えているのである。もちろん、CDプレーヤーが壊れたのではなかった。ベーレンライター版のスコアにはどのように書かれているのだろうか。大変興味深い。アバドの全集を買った際、真っ先にチェックしたのはそのオーボエソロであった。アバド盤は装飾音なしのノーマルな演奏であった。ということは、ジンマンの演奏は、ベーレンライター版の録音というより、ベーレンライター版の編曲なのかもしれない。本当のところはどうなのだろうか?
なお、断っておくが、ジンマン盤はキワモノではない。演奏はとても優れている。第5番だけを取ってみても、すこぶる密度の濃い、熱い演奏になっている。この全集は演奏もよく、録音もよく、解説も丁寧、しかも安いというとてつもない代物だ。解説には各交響曲のセッションに参加した団員名がそれぞれに記載されている。これはオケファンにとっては大変嬉しい資料になる。廉価盤でここまでのことができるのであれば、レギュラー価格のCDなら、もっと充実した解説をつけられるはずだ。アバドの新全集は高くて買えない、でもベーレンライター版の全集は欲しい、というファンには打ってつけの全集である。
(2001年1月8日、An die MusikクラシックCD試聴記)