ミレニアム企画 アバド・ケンペのベートーヴェン交響曲全集を聴く
交響曲第9番 ニ短調 作品125
■ ケンペ盤
ベートーヴェン
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」
ケンペ指揮ミュンヘンフィル
録音:1973年5月31日〜6月4日
声楽陣
- ソプラノ:ウルズラ・コジュート
- コントラルト:ブリギッテ・ファスベンダー
- テノール:ニコライ・ゲッダ
- バス:ドナルド・マッキンタイア
- ミュンヘンフィル合唱団
- ミュンヘンモテット合唱団
1971年12月、交響曲第8番を皮切りに開始されたケンペのベートーヴェン交響曲全集録音は、大曲「第九」をもって終了する。ベートーヴェンの交響曲は聴く側でさえ非常な緊張と集中力を要求される。ましてや演奏する側に要求されるエネルギーはひとかたならぬものがあるだろう。この「第九」まで辿り着くと、どの指揮者による全集を聴いても、私は巨峰に登り詰めたという感慨に耽る。
ケンペ指揮の「第九」も例外ではない。しかも、演奏はケンペらしい質実剛健さを誇る充実したものだ。特に最初の3楽章がすばらしい。第1楽章は構えが大きく、ずっしりとしたピラミッド状の安定感を作りつつ、表現は大変ロマンティックかつ劇的。ホルンのソロがやや頼りない点を除いては、各セクションの技量も冴えていて、匂い立つような色彩を見せる。全く見事な第1楽章なので、スコアを見ながら聴いていた私は、思わずスコアを放り投げてしまった。これほど覇気に溢れ、怒濤のように流れる音楽を前にして、ポケットスコアなんぞを素人ファンが広げているのはもったいなさ過ぎる。ケンペとミュンヘンフィルが創り出す巨大な音楽に身を委ねた方が得策である。
第2楽章もドラマチックこの上ない。やはり重量感を基調に据えながらも、的確なリズムを刻むケンペは、時にトランペットを鋭く強奏させる。その効果は絶大で、一度聴くと耳から離れなくなる。ケンペによって荒れ狂う音楽と化した第2楽章は、ケンペの燃えたぎる指揮者魂を垣間見るに十分な出来映えだと思う。
第3楽章は、オケの試金石ともなる難しい楽章だろう。木管楽器と弦楽器の腕前が露わにされる。スタジオ録音では編集が入りやすくなり、キズが見えなくなるので本当の技量はわかりにくいだろうが、ここで聴くミュンヘンフィルはとてもいい音を出している。ホルンは相変わらず頼りないのだが、第3楽章ばかりは大目に見てやっても良いだろう。
問題は、第4楽章だ。この楽章はどうも雰囲気がそれまでの3楽章と異なっている。もともと、声楽が入るという意味で、この楽章は特異なのだが、ケンペは独唱者にオペラチックな歌い方を要求している気がする。375小節目から行進曲のリズムに乗って入るテノールソロ「Froh,froh,...」の部分など、思わず吹き出しそうなほど面白い。それだけではない。どうもケンペはこの楽章に入ると、質実剛健さよりも、声楽が付加されることによる祝祭的な雰囲気を前面に出そうとしていたように思われてならない。それはそれでひとつのアプローチなので、私は別に構わないと思う。が、最初の3楽章が極めて高い集中力の中で演奏されたのが伝わってくるので、祝祭的な雰囲気の第4楽章がとても異質なものに感じられてしまう。ただし、これはケンペのせいではなく、作曲家にも責任があるのだ。この点については、後述することにしよう。
年末になると、日本では盛んに「第九」が演奏される。11月中旬からずっと「第九」である。一体、全国で何度「第九」演奏会が行われるのだろうか。おそらく想像を絶する回数だと思う。では、交響曲としての「第九」は市民権を得ているのだろうか? 私はとても「イエス」とは言えない。コンサートで眠りこける聴衆や、ロビーにおける人々の会話を耳にするにつけ、日本において「第九」とは、第4楽章、それも合唱部分だけを指して言われているのではないか、と私は考える。
「第九」に関して、次のような感想を持っている人は少なくないはずだ。
第3楽章までは何が何だかよく分からない音楽で、長くて仕方がない。第1楽章だけでも14分もあって、睡魔が襲ってくるのに、第3楽章ときたら動きがない! それなのに、15分近くもかけて演奏している。いやあ、うんざりだよ。第4楽章だけを演奏してくれないものかな?
これでは、「第九」=「すばらしい合唱の名曲」と信じているほとんどの人にとっては、第3楽章までの音楽は前座でしかなく、拷問のような長い待ち時間である(実を言うと、20代の頃まで私もそう思っていた)。
曲の雰囲気も第3楽章までと第4楽章では極端に違っている。第3楽章までは暗く激しい音楽や、静謐の音楽が延々と続く。その色彩感は他のベートーヴェンの交響曲と比べるとやや劣っていて(失礼)、モノクロームの写真のように単調である(ブルックナーの交響曲が色彩感に欠けるのは、ブルックナーが単にオルガンの響きを念頭においていたからではなく、お手本としてのベートーヴェンの「第九」がそうだったからではないか、と私は憶測している)。「第九」は、第4楽章になると一転して華やかな音楽になり、色彩感がグッと増してくる。四声のソリストに合唱団が加わるだけではなく、ベートーヴェンはシンバルやトライアングルまで繰り出してくる。これでは祝典的にならないわけがない。それまでが「苦悩の待ち時間」であったからこそ、有り難みも増してくるようだ。
しかし、第4楽章だけに目(耳)を奪われると、交響曲としての「第九」の最もおいしいところを見逃してしまう。この曲はベートーヴェンが作った最も強力な交響曲だから、最初の3楽章はとてつもなく面白い。あれほど多面的で深遠な表情をもった交響曲は他になく、オーケストラの表現力がもろに試される。それだけに、オケや指揮者にとって、「第九」とは、第3楽章までが勝負となっているような気がする。それを裏付けるように、第4楽章まで劇的緊張感や集中力を完全に維持する録音は多くない。例えば、神の如きベートーヴェン演奏を行っていたクレンペラーであっても、第3楽章までと第4楽章の集中力は違っているのだ。驚くべきは、フルトヴェングラーがバイロイト祝祭管と演奏した有名な「第九」のライブ盤(EMI、51年録音)だ。これは第4楽章も、いや、第4楽章こそが劇的緊張と集中力の極限に達した希有な例である。だからこそ古い録音であるにもかかわらず、現在まで聴き継がれているのである。逆に言えば、第4楽章までを単に祝典的に扱うのではなく、交響曲としての風貌を残しながら第1楽章と同じ集中力で演奏するのは至難の技なのであろう。
そうなってしまった原因のひとつは、ベートーヴェンにある。私の記憶が正しければ、第3楽章までと、第4楽章は別の交響曲として計画されていた。第4楽章は「ドイツ交響曲」として誕生するはずだったのだが、ベートーヴェンは第3楽章までの旋律を第4楽章で回想するという奇抜なアイディアによって、曲の有機的統合に成功してしまったのだ。そのような妙案がなかったならば、この交響曲は非常に奇妙な姿を我々に示していただろう。全くベートーヴェンとはすごい人だ。
ベートーヴェン
交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付」
アバド指揮ベルリンフィル
録音:2000年4,5月、フィルハーモニー声楽陣
- ソプラノ:カリタ・マッティラ
- メゾソプラノ:ヴィオレタ・ウルマナ
- テノール:トマス・モーザー
- バス:トマス・クヴァストホフ
- スウェーデン放送合唱団
- エリック・エリクソン室内合唱団
アバドの新全集は単売されるのだろうか? この新全集は短期間のうちに集中的に録音セッションがもたれ、いきなり全集として出現した。かつて、ベートーヴェンの交響曲全集といえば、1枚ずつリリースされていって、全曲が完成したのを見計らってボックスセットが発売されるのが普通だったのだが、これは奏した前例を無視している。今や、クラシックCDの販売方法が大きく変わろうとしているのかもしれない。
アバドの新全集は、好き・嫌いの面では賛否両論あるだろう。ベルリンフィルという世界最高のオケを使いながらも、アバドは重厚なベートーヴェン演奏に180度背を向け、透明感やリズム感を前面に押し出したアバドならではのベートーヴェン演奏を行っている。こうした演奏スタイルは、ここ四半世紀の間にクラシック音楽界を席巻した、古楽器奏者達の演奏スタイルに啓発されたところが少なからずあると思う。が、それを考慮してもなお、ベルリンフィルの当主として、21世紀に伝承しうる優れた録音だと私は思う。アバドのベートーヴェンには重量感がないため、我々が一般的に思い浮かべるベートーヴェン像とは著しくイメージを異にしているが、これはおそらく他の指揮者ではやろうと思っていてもできなかったものだ。西洋の芸術が、いかに先人と異なるスタイルを打ち出すことができるか、という点で評価されるとすれば、アバド盤は文句なしに大きな評価を与えられるのではないか。
その新全集の中でも、この「第九」は交響曲第3番「英雄」と並ぶ屈指の名演奏である。集中力、激しさ、力強さ、オケのノリ、どの点を取っても甲乙つけがたい。しかも、「英雄」の良さがすぐには伝わりにくいのとは違って、「第九」ではアバドは完全に直球勝負をしているので、誰の耳にもその凄さがすぐに伝わる。アバドの剛速球は唸りをあげて飛んでくるのだ。第1楽章からアバドの尋常ならざる気迫に圧倒されるのは私だけではあるまい。何度も繰り返すが、アバドは重量感を極力排しながら演奏しているのだが、ベルリンフィルが燃える指揮者の棒のもとで極度の集中力をもって演奏するので、とてつもない迫力が生まれている。荒れ狂う弦楽器、天の啓示を思わせる木管楽器、地鳴りを思わせる強烈なティンパニ。これがスタジオ録音の所産だとは俄には信じられない。いかにアバドが嫌いな人でも、この「第九」を聴けば考えを改めるのではないだろうか?
続く第2楽章も会心の出来映えであっただろう。アバドは清澄な弦楽器群、それも最高度に透明な弦楽器群に鋭いリズムを刻ませ、一方、ティンパニにはオケ全体と完全に渡り合える強打をさせる。そのコントラストは絶妙で、使い古された表現だが、この曲の前衛性を露わにしている。
第3楽章は、ベルリンフィルの機能をフルに発揮、緊張感のある弱音により聴き手を幻惑する。惜しむらくは演奏時間が短く、13分しかないことだ。これだけ繊細なサウンドを聴けるのであれば、もっと長く演奏してほしい。なお、ベルリンフィルのソロホルンの技量はケンペ盤と比較にならないほど卓越している。第3楽章までに登場するソロは、呆気にとられるほどうますぎる。誰が吹いているのだろうか?
そして第4楽章。アバドはライブでもないのに、この第4楽章でもかなりの集中力を維持している。合唱団はエリック・エリクソン率いる、スウェーデン、いや、世界の名門。これまた大人数による合唱団ではないのだが、声楽におけるベルリンフィルともいえるスウェーデン放送合唱団は、アバドのベートーヴェンにぴったりの組み合わせだ。感涙にむせぶような情緒的な演奏ではないにせよ、アバドの指揮のもと、オケと声楽陣が熱い演奏を繰り広げる。アバドもプレイ・バックを聴いて満足したのではないか? CDのジャケットには、今までのアバドらしからぬ、不敵な笑みを浮かべる顔写真が使われている。このCDジャケットが全てを物語っているような気がしてならない。
(2001年2月8日、An die MusikクラシックCD試聴記)