エッシェンバッハ指揮ヒューストン響
録音:1995年
BMG(国内盤 BVCC-38254〜55)
DISC 1
ブラームス(シェーンベルク編曲): ピアノ四重奏曲第1番ト短調作品25
バッハ(シェーンベルク編曲):
- 前奏曲とフーガ変ホ長調BWV522「聖アン」
- コラール前奏曲「装いせよ、わが魂よ」BWV654
- コラール前奏曲「来たれ、創り主、聖霊なる神よ」BWV631〜「オルゲルビュヒライン」
DISC 2
R.シュトラウス
- 4つの最後の歌(ソプラノ:ルネ・フレミング)
- オーケストラ伴奏歌曲集(解脱(地上からの開放)、 お母さんの自慢の種、 森の至福、 ツェツィーリエ)
- 「ばらの騎士」組曲
今年、こんなCDが出た。少し地味なCDである。内容はちょっと見ただけだと、とりとめがないごった煮のような印象を与える。制作者は本来このような2枚組のCDではなく、違う内容のCDを2種類作ろうとしていたのではないか、と私は推測するのだが、どうもよく分からない。録音が1995年であるにもかかわらず、8年も経った今年発売というのも何か理由があったのだろうか? 単純に発売時期を窺っているうちに機を逸したのかもしれないが。
さて、この2枚組ごった煮CDであるが、私が読んだ雑誌の紹介文では、今をときめくルネ・フレミングが歌う「4つの最後の歌」が聴き所のように書いてあった。実際、CDジャケットにもフレミングの写真がちゃんと掲載されている。
しかし、私にとって面白かったのはブラームスの渋い室内楽とバッハの傑作オルガン曲のシェーンベルク管弦楽編曲版が収録されたDISC 1である。その中でも前奏曲とフーガ変ホ長調BWV522「聖アン」が出色だ。ここだけの話だが、原曲より面白いかもしれない。前衛的な音楽家であったシェーンベルクがこのようにストレート極まりないオーケストレーションを残したというのは、シェーンベルクを考える上で実に興味深いことだ。原曲はオルガン曲で、バッハが1739年に出版した「クラヴィーア練習曲集」第3巻の冒頭を飾る「プレリュード」と最後に置かれた「フーガ」が一緒にされたものである。シェーンベルクの編曲は1928年だから、約200年の時を経て復活したような印象さえ与える。
シェーンベルクはオーケストラの楽器を巧妙に使いながら一部にはオルガンの響きを残し、全体的には豪快なオーケストラ曲に編曲している。その編曲の妙は、原曲と聞き比べるとはっきりする。思わず微笑ましくなるのは図太い鳴り方をする金管楽器の咆哮である。こうした鳴り方は、後期ロマン派の音楽を経験した20世紀初頭を何となく彷彿とさせる。
ところで、この曲を私は初めて聴いたわけではなかった。CD棚を見ると、いくつかこのシェーンベルク編曲による「聖アン」があった。・・・実は、それらを聴いたという記憶さえなかったのでびっくり(女房には絶対ナイショ)。どう考えても1度以上はかけているCDなので、おかしいと思い確認のため今回は比較試聴もしてみた。が、やはり手元にあった数枚に魅力は感じなかった。あっさりし過ぎて、聴いていてカタルシスを得られない。それでは記憶に残らないはずだ。
ではなぜ、エッシェンバッハのCDを聴いて初めてこの曲の魅力を知ることになったのか。つらつらと考えていたが、どうもエッシェンバッハのあっけらかんとした豪快な演奏ぶりのためではないか、という気がする。バッハの曲で、それをシェーンベルクが編曲したからって、あまり難しく構えて聴く必要も、演奏する必要もないだろう。エッシェンバッハの演奏ではオケがかなり楽しみながら音を鳴り響かせており、それが結果的に面白い演奏になっているように思われる。金管楽器がバランスを崩さずに、これほど豪快になると気持ちいいものだ。
ところで、DISC 1に収録されているブラームスのピアノ四重奏曲第1番であるが、原曲を私はかなり苦手としている。特に第1楽章を数小節聴いただけで私は気分がふさぎ込み、何かに押しつぶされそうな気持になる。編曲したからにはシェーンベルクはこの曲にひとかたならぬ愛情を持っていたと思われるが、実際にこの編曲は原曲の陰鬱さがやや薄められている。シェーンベルク編曲を聴いて気持ちがふさぎ込んだ経験は今のところない。私は原曲よりはるかにこの編曲の方が好きなのだが、原曲の陰鬱さを低減させたシェーンベルクの編曲は名編曲といえるのかどうか・・・。
エッシェンバッハの演奏はおそらく「聖アン」に匹敵する演奏だろう。BMGはこのCDをわざわざ2枚組にしてなんだか焦点が合わない商品作りをしたが、DISC
1だけでも充分な商品価値があると私は見ている。こんな発売方法によって、かえってCDとしての生命が短くならないように期待するばかりである。 |