ヴェーグの遺産とシノーポリの遺産

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CDジャケット

モーツァルト
交響曲第38番ニ長調KV504プラハ
交響曲第41番ハ長調KV551ジュピター
ヴェーグ指揮カメラータ・アカデミカ
録音:1992,96年 ORFEO

 みなさんは蒸留水のようなモーツァルトを聴いたことはないだろうか? 混じりっ気がない分だけ味も素っ気もない演奏という意味でのモーツァルトのことだ。

 私のCD棚にもそんな演奏のCDがずいぶん並んでいる。そうしたCDが量産されるのはなぜだろう。モーツァルトは単に「軽く、明るく、流麗で洗練」されていればよいなんて思っている人が多いのだろうか?もしそうなら大変なことだ。これほどつまらないことはない。「私が選ぶ名曲・名盤」でクーベリックのモーツァルトを挙げているが、あれはそうした要件にプラスアルファどころかベータもガンマもある演奏であって、蒸留水とはわけが違う。やはり指揮者にそれ相応の年期がないとダメなのだろうか。もちろんヴェーグはつまらない演奏はしないし、クーベリックとは違うアプローチをしている。さすがだ。

 「プラハ」。冒頭から厚みのある、悪く言えばぶっきらぼうな演奏だ。あんまり自然な感じがしない。それでいて鈍重な感じがしない。鈍重どころかプラハにふさわしい激しさと躍動感がどんどん現れてくる。しばらくすると、「おお、これは!」と感心する。今流行の演奏様式ではないのだろうが、やはりプラハにはこんな厚みがあって活きがいい演奏でないとつまらない。ジュピターだって大したものだ。遅くもなく速くもない中庸なテンポ設定で繰り広げられるのだが、その圧倒的な推進力はどうだ。これといって変わったことをしているようには思えないのにジュピターの壮大さが眼前に現れてくる。これほど生き生きとした演奏を聴くと、古楽器がどうのこうのという議論が馬鹿らしくなる。

 驚くべきことは厚みのある弦楽器の音だ。よく言われているようにヴェーグは弦楽四重奏のヴァイオリン奏者であったため弦楽器の扱いに長けていたらしいが、このCDを聴いてなるほどと納得。解説の中程にあるこの楽団の写真を見てびっくり。本当に少ない人数だ。あの人数だけで演奏しているのだろうが、すごいことだ。これほど厚い構築的な響きを少人数のカメラータ・アカデミカから引き出せるとは。やはりヴェーグ、ただ者ではなかったのだ。

 なお、このCDはオルフェオにしては珍しいデジタル録音であった。

 

 

CDジャケット

リスト
ダンテ交響曲
シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1998年 DG

 まず演奏について。

 シノーポリ渾身の指揮だ。「地獄」を表す第1楽章には度肝を抜かれる。それこそ天地を揺るがすようなすさまじい演奏で、オケがシノーポリの燃えるタクトにぴったりついて見事な鳴りっぷりを示している。CDで聴いても迫力満点。おそらく会場でこの演奏に接した聴衆は久々の快演にたまげたことであろう。シノーポリはこうした文学的な曲に適性があるようだ。同じリストのファウスト交響曲もすばらしい演奏だった。リストに余り共感が持てない私でもあの熱いファウスト交響曲はついつい聴いてしまう。

 第2楽章の「煉獄」はちょっと冗長な音楽のような気がするが、ここでもオケの音色を楽しめる。特に木管がすばらしい。静かなところで聴衆の咳がやたらうるさいのは、これがライブであることを誇示するために残したのだろうか。そんなキズがあっても気にならないほど完成度の高い演奏だ。これからこの曲を聴いてみたいという人にはおすすめのCDだ。

 しかし、ここから別の話をしたい。

 リストが特に好きでもない私がこのCDを買ったのは理由がある。このオケが気になるのだ。このオケ、今でも上記のとおり十分にうまいオケなのだが、最近はシノーポリのもとでダメになりつつあるようで不安でたまらない。聴きたくなくなるときも多い。それでもCDを買ってしまう。しかし今回のCDでもかつての木目調の音色はやはり聴けなかった。ほかのオケにはない伝統の音色を持っていたのに、それがほとんど失われてしまったのではないだろうか?

 その原因は何だろう。やはりこのイタリアの指揮者のせいだろうか? 壁の崩壊がもたらした激動のせいだろうか? あるいは過去の名のある首席奏者たちが姿を消したせいだろうか? あるいは伝統の音なるものは私の持つ幻想なのだろうか? グラモフォンの録音が極めて鮮明なだけに気になる。

 

1998年11月17日、An die MusikクラシックCD試聴記