クライバー指揮バイエルン国立管によるベートーヴェンの交響曲第7番を聴く
ベートーヴェン
交響曲第7番 イ長調 作品92
カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管
録音:1982年5月3日、バイエルン国立歌劇場におけるライブ
ORFEO(輸入盤 C 700 051 B)面白い新譜が発売されました。クライバーの指揮によるベートーヴェンの交響曲第7番で、録音データが示すとおり、有名なベートーヴェンの第4交響曲と同日の演奏です。
既に聴かれた方も多いでしょう。すごいですね。
クライバーは1976年にウィーンフィルとともに交響曲第7番をDGに録音していて、それは夥しい録音の中でも色あせることのない魅力を放っていました。今DG盤を聴いてみても、クライバーならではの躍動するリズム、強烈なダイナミズム、しなやかな歌い回しに驚かされます。ウィーンフィルを起用したことで得られた音色もすばらしく、今も変わらずに交響曲第7番の代表的な録音のひとつであることを再確認しました。
今回発売されたORFEO盤はDG盤を激烈さでは超えてしまっています。十分激烈な演奏をしているDG盤も、ライブの白熱には及んでいません。クライバー節全開というか、炸裂というか、ちょっと漫画的な表現を使いたくなる激しさに満ちています。第1楽章から力みすぎではないかと懸念されるほどの演奏で、第4楽章までよく持ったものだと感心します。猛烈な勢いに乗って演奏される第4楽章ではフルートがあわてて飛び出すミスも現れるなど、オーケストラもやっとの思いでついていったのではないかと想像されます。クライマックスに上り詰める直前には、どこかで大きく破綻してしまうのではないかと私はハラハラして聴きました。すばらしいです。会場にいたら私は狂喜乱舞していること間違いありません。
基本的な路線はDG盤と同様のはずなのに、聴き終わった印象は全く違います。DG盤では、おそらくじっくりと時間をかけてリハーサルを行い、自分の解釈を徹底させたものと私は理解しています。ORFEO盤ではライブということもあり、その解釈が極端なまでに徹底されてできあがったものだと思います。あまり美しい表現ではないのですが、「爆演」と言い出す人がいても全くおかしくないでしょう。貴重なクライバーのライブ盤、しかも正規盤として多くの人に愛好されるCDになるのではないでしょうか。
ただし、クライバーがこの録音の発売を生前には認めていなかったことには思いを馳せてもいいのではないかと私は思っています。それは何故なのか。
第7番を既にDGから発売していたから、という単純な理由からではなかったと思います。もしかすると演奏上のキズのせいかもしれません。交響曲第4番をリリースした際にクライバーは「我々は、この耳に訴える『スナップ・ショット』に、いかなる化粧も施したくなかったし、どんな小さな修正も加えたくなかった。いかにとるにたらない批評にでも、我々は反論する根拠を持っている。」と述べていますが、さすがにこの演奏ではそこまで言い切ることができなかったのでしょうか。十分あり得ます。でも、それだけなのでしょうか? 私は「爆演」に近いこの演奏の性格によるところがクライバーをして躊躇させたのではないかと勘ぐっています。今となれば真相は誰にも分かりませんが。
ところで、このCDの音について書いておきます。
この録音は交響曲第4番と同じ日に、同じ会場で、同じレーベルによって行われています。オーケストラの編成が極端に変わるわけでもないので、プログラムの前後で大幅にマイクの位置を変えたとは思えません。しかし、交響曲第7番のCDに聴く音は、第4番と違い、オーケストラを至近距離で聴いているような気にさせます。弦楽器群のガシガシする様、木管楽器が目の前で鳴っている様が、良く言えば最高の臨場感を聴き手に与えます。こうしたストレートな音は、コンサート会場の最前列から6、7列目あたりに座っていると耳にすることができますが、評価が分かれるところでしょう。このCDはORFEO初のSACD/CDのハイブリッド盤だと言うことですが、SACDだからという理由であのような音になったわけではないはずです。マスターの制作過程において制作者の嗜好がこのように反映されるのだな、と如実に分かる録音です。
2006年1月23日掲載
本当に余談です。 上で「爆演」という言葉を使いました。私もこのサイト内でこの言葉を使ったことがありますし、ネット上にも散見されます。見た目にも、発音してみてもあまり美しくはないこの言葉を皆さんはどのように受け止めていますか?
猛烈にすごい演奏を「爆演」と呼びそうな感じですね。で、そのすごいというのは何がすごいのでしょうか? 演奏技術でしょうか? 歌心でしょうか? ノリでしょうか? もしそうなら、それは「名演」であって「爆演」などという表記にはならないと思います。
爆演という言葉を使うとき、それはどこかのパートが突出しているけどすごい迫力だ、とか、指揮者がハイテンションになって猛スピードとなり、オーケストラがバランスを崩しながら演奏を続けていてなんだかすごい、とかいった状況を彷彿とさせませんか?
何が云いたいのか。爆演というのは褒め言葉として使えないのではないかということです。思慮が浅いので私も過去に褒め言葉のように使ったことがあり、とても反省しています。
演奏家に向かって「あなたのあの演奏はバクエンですね!」などと面と向かって言ってはいけないものだと私は思います。「あなたの演奏はなんだかバランスが取れていなかったけど、すごい迫力だったので面白かったよ」と言っているのとどこも変わらないと思うからです。私は演奏家ではないので断言はできないのですが、バランスが取れていない演奏をしようと思ってするプロの演奏家がいるものでしょうか?
したがって、上記ORFEO盤について私が「『爆演』と言い出す人がいても全くおかしくないでしょう」と書いたのは、必ずしも私が両手放しで褒めているのではないということを意味しています。
ORFEO盤をライブの記録として聴くなら最高に面白いです。これ以上に楽しめるCDが今年出てくるかどうか疑問です。しかし、必ずしも美しくはない局面があちらこちらに微細にではあっても現れ、それが指揮者の望んだものではなさそうな場合、それを当の指揮者が発売し、後世にずっと残そうなどとは考えないものだと私は思います。
繰り返しますが、このCDを聴くとたまらなく面白いです。しかし、生前の指揮者はDG盤をもって自分の記録としたわけで、その点だけは強く認識していたいものです。多くの指揮者が通常はスタジオ録音によってCDを作るのは、自分の解釈を最善の状態で音にして残したいという希望が背後にはあるはずです。
難しいのはそうした指揮者の意思とリスナーの嗜好の間に広がる大きなギャップです。今や市場は後者にべったりです。おそらくは少なくないリスナーが歓迎していることから指揮者が生前には承認していなかったライブ盤が量産されるようになってきました。扇情的な宣伝文がこれでもかこれでもかとライブ盤の激烈さを訴えます。
今やライブ盤全盛時代を迎えたといえます。これがどのような結果を生むのか私はよく分かりません。しかし、スタジオ録音盤の意義をもう少し問い直しても良いのではないかと私はこのところ常に思っています。・・・やはり私は時代の流れに逆行していますね。
2006年1月24日掲載
文:ゆきのじょうさん
爆演という言葉は、私もセーゲルスタムの稿で使わせていただきました。その言葉への疑問を素直に表明された伊東さんの姿勢は、まさに卓見だと思いました。そこで私も少し考えてみました。
まず広辞苑を紐解いても「爆演」という熟語はでてきません。当然ながら、ヤマト言葉でもないでしょうから、「爆演」は公式には認められていない、クラシックの世界での造語ということになります。さて、では「爆演」はどういう演奏を指すのか、「爆演」という言葉を最初に使った原典があれば分かりやすいのですが、見つけることは至難の業ですので言葉そのものから考えてみます。「演」は演奏を指すのはおそらく異論がないでしょう。では「爆」とは何か。
大修館書店 新漢和辞典を開くと「焼く、火がはげしい、火の燃える音の形容、おちる」などの説明があり、解字として、「火にやかれて物がはじきさける意」とされています。
このような説明を読むと、「熱演」という言葉も想い出されます。コバケンこと小林研一郎氏の演奏や、ミュンシュ/パリ管のブラームス/第1などが「熱演」にふさわしいように、私は思います。ただバーンスタインは若い頃は「熱演」ですが、晩年のマーラーなどは「熱演」とも言えませんし、さりとて「爆演」でもなさそうです。演奏の表現の言葉として「熱演」も「爆演」も、それぞれに限界があるようです。
さて、「熱演」と「爆演」を並べてみると、「熱演」が静的(ずっと最初から熱い演奏)に感じられるのに対して、「爆演」はもっと動的に感じます。起伏が激しくじっとしていられないような印象です。さらに「爆演」には危うさも込められているよにも感じますね。一歩間違うと崩壊してしまうような危機感と言えばよいのでしょうか。
その意味では伊東さんが挙げられたクライバー/バイエルン国立のライヴは、(私は第7は聴いていませんので第4からの印象ですが)危うさというより、ほとんど壊れかけているような演奏でした。このようにクライバーのライヴ演奏は演奏家自身が己を忘れてしまいそうな瞬間が見え隠れしているように思います。第4の終楽章での管楽器奏者がぎりぎりのところで吹ききっているのはスリルと言えばスリリングですが、演奏の質を考えると疑問符がつきます。少なくとも何度聴いても飽きない演奏かというと、どうなのでしょうか?・・・(でも、この危うさは今まさにその刹那に生まれたという新鮮さを併せ持つことも事実ですし、それがクライバーの魅力の一つなのだろう、と言われれば、それには深く同意します。)
さて、セーゲルスタムのブラームスはどうなのか、確かに起伏が激しく「一体どうなってしまうのだろう」という危うさもあります。ただ、スタジオ録音だからなのか、セーゲルスタム盤はかなり計算された結果の起伏のように思います。己を忘れての演奏ではありません。だから最終的に音楽は破綻がなく創られています。これは指揮者自身が作曲家であることとも関係しているのかもしれませんね。
私は「爆演」という言葉は危うさではなく「起伏の大きさ」を表現するつもりで使っていました。伊東さんはおそらく「危うさ」の方が要素として強く指して「爆演」と言って居られるように感じました。少々まとまりがありませんが、「爆演」という言葉はどうもいろいろな意味を包括して流動的になっている、つまり言葉の使い手の思いによっては他人と違う意味性を持ちかねないように思います。
このような議論をすると、言語学者のソシュールの言うシニフィエとシニフィアンを想起させます。ご存じかとは思いますが拙い説明を試みますと、例えば犬という存在があります。チワワでもセントバーナードでも「ああ、あれは犬だな」と思える区別があります。それを「犬」という同一性(シニフィエ)とします。でも、この「犬」という同一性をなんと呼ぶかについては、世界共通の決まりごとはありません。「犬」「いぬ」「イヌ」「Dog」「わんわん」、なんでも良い訳です。このシニフィエを指し示す言葉、音声がシニフィアンです。シニフィエとシニフィアンの関係には法則がなく勝手気まま(=難しく言うと恣意性)だとソシュールは言っているのだと理解しています。
「爆演」という言葉(=シニフィアン)が示す実態(=シニフィエ)はおそらくは存在するでしょう。でも同じ「爆演」という言葉を使っても、それが示す実態(=シニフィエ)が同一とはなっていないのが現状だと思います。でもどちらが正しく、どちらが違うか、「爆演」というシニフィエが何かという議論は、現時点では不毛なのだと思います。その根拠を伊東さんが明示されていました。伊東さんが「爆演」が「褒め言葉として使えないのではないか」と疑問に思われるのもごもっともですし、演奏家に向けて発信する表現ではないでしょう。聴き手同士の交流においてのみ活きる言葉だと思います。この点が重要なポイントだと思います。音楽芸術は創作者(創造者)とそれを享受する側との交流(共鳴?)で成立しています。しかし「爆演」は享受する側の間のみで通用する言葉でしかありません。さらに、その際に「爆演」がどのような演奏を指しているのか、その共通認識がまだ成熟していない用語であるからこそ、注意深く用いなくては行けないのだな、と伊東さんの文章を読んで認識いたしました。「難しいのはそうした指揮者の意思とリスナーの嗜好の間に広がる大きなギャップです。今や市場は後者にべったりです。」と書かれたように、リスナー(=享受する側)のみが突出するアンバランスの中で生まれたのが「爆演」という言葉だと思います。
以上の考えから、私は伊東さんは「時代の流れに逆行して」いるのではなく、まさに本質を突いたご指摘をされたと、感銘を受けました。
2006年1月27日掲載
(2006年1月23-24日・27日、An die MusikクラシックCD試聴記)