短期集中連載 An die Musik初のピアニスト特集
アルフレッド・ブレンデル 第6回
ブラームスの2曲の協奏曲を聴く語り部:松本武巳
注:
旧2録音はは直近(2004年9月現在)ではTRIO 3CDsシリーズで入手可能です。
PHILIPS(輸入盤 473 267-2)
併録曲:バイオリン協奏曲(バイオリン:シェリング)、バイオリンとチェロのための2重協奏曲(バイオリン:シェリング、チェロ:シュタルケル)、悲劇的序曲、大学祝典序曲。併録曲はすべてハイティンク指揮コンセルトヘボウ管
ブラームス
ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1973年5月
PHILIPS(国内盤 17CD-86)クラウディオ・アッバード指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1986年9月
PHILIPS(輸入盤 420 071-2)ブラームス
ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83ベルナルト・ハイティンク指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1973年12月
PHILIPS(国内盤 17CD-110)クラウディオ・アッバード指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1991年9月
PHILIPS(国内盤 PHCP-191)■ あまりにも演奏レベルが異なる両曲
ブレンデルのフィリップスへの2回にわたるブラームスのピアノ協奏曲2曲の録音ですが、2回とも第1番は非常な名演であると考えるのですが、第2番の方は私の個人的な感想では完全な「凡演」に過ぎないのです。1回目の全集は、コンセルトヘボウとの共演で、2回目はベルリン・フィルとの共演でした。世評は第1番の1回目は、ハンス・シュミット=イッセルシュテットが録音直後に急死すると言う、最も録音以外の私情が演奏自体の評価に入る条件(特に日本人!)での世評であったためでしょうか、発売時より結構高い評価を受けました。第2番の1回目は、コンセルトヘボウのシェフであったベルナルト・ハイティンクが受け持ったのですが、当時のハイティンクの指揮のせいで、第1番で名演を残したブレンデルが、第2番では良くない演奏をしてしまったとの批判を受けてしまったのですね。そして、2回目の全集は、両方ともにクラウディオ・アッバードが指揮をしたのですが、2曲ともに非常に高い評価を得ました。しかし、実際は第1番を録音後、第2番の録音をブレンデルは一時期渋ったのが真相でして、私にとっては、この2回目の全集の意義は、極論を言いますと、1回目のハイティンクに対する批判が、根拠のまったくない言い掛かりであったことが証明されたのみに留まっているのです。
■ 2回とも非常に名演と言える第1番
第1番の協奏曲は、2回の演奏ともに甲乙つけ難い優れた演奏になっています。世評で第1番の最も優れた演奏とされているディスクは、ルドルフ・ゼルキンとジョージ・セルのCBS盤と、エミール・ギレリスとオイゲン・ヨッフムによるDG盤が双璧であると言えるでしょう。確かに両方ともに非常に優れた名演であることを認めるに吝かではないのですが、両者の共通点は、ブラームスの音楽を、北ドイツの謹厳実直な、良くも悪くも『禁欲的』なスタンスから捉え、演奏しきった点であろうと考えます。これはこれで、ブラームスのある側面を極めて正しく捉えていますし、私自身も、2枚のディスクを良く聴きます。でもいろいろな方向性から、ブラームスの本質を考え、演奏することは正しいことですし、実際にブラームスの音楽の評価を、広めることにつながると思います。ところが、ブレンデルのディスクは少々違った演奏に聴こえます。壮大な伽藍配置を思わせるような、大振りな全体像を感じさせつつも、一方では一筆書きのような、遊び心まで感じさせる、軽い感覚を受ける部分も同時に感じさせてくれるのです。実はこのことが、ブレンデルの第1番の評価が比較的高いにもかかわらず、ゼルキンやギレリスの後塵を拝する評価に留まっている主原因であると思います。その背景としては、日本でしばしば語られる「ブラームスの協奏曲は、男女差別では決してないが、女性には演奏が極めて困難である」との常識! として語られることともつながっているのではないでしょうか? でも私は、クーベリック指揮のウィーンフィルとのブラームス交響曲の評論でも書かせて頂きましたが、ブラームスの音楽性を、そのような狭い範囲に閉じ込めることによって、どのような音楽を聴く上での利益をリスナーは得るのでしょうか? ブラームスに対する偏見を取り除いて聴く事で、彼の見えなかったロマンの香りが見えてくることを、私はお約束します。その香りの漂う典型的なディスクが、ブレンデルの協奏曲第1番(特に旧盤)なのです。良く言われるような解釈が、ブラームスの音楽の本質であるとしますと、なぜ彼の音楽が『後期浪漫派』に分類されているのでしょうか? クラシック音楽の愛好家の共通の欠点は、あまりにも真面目で、勉強熱心なことだと思います。もともと「教養としてのクラシック音楽」なるジャンルが否定し得ないのに、ブラームスには特にその面が強く強調されてしまう嫌いがあるように感じます。私は、ブレンデルの第1番を聴くと、理屈を超えて「あぁ、良いな…」と思えるのです。これ以上の分析を、少なくとも聴いている最中には一切しません。
■ 2番がブレンデルに合わない理由
そんなブレンデルの第2番の演奏は、どちらの録音を何度聴いても、私の心に響いてきません。これは、どうしたことなのでしょうか? ところで、ブラームスの協奏曲で2曲ともに名演であるとの評価を得ているディスクはほとんどないのですね。先ほど挙げましたゼルキンもギレリスも第2番の評価はさほど高くありません。逆に第1番の評価があまり高くない、ウィルヘルム・バックハウスとマウリツィオ・ポリーニの第2番はとても高い評価を受けています。しかもバックハウスとポリーニのピアニズムは正反対とも言えるほど違ったものです。その両者が名演を残していることも、摩訶不思議なブラームスの協奏曲ですね。私なりの結論を申しますと、ブレンデルのピアニズムがショパンのそれと相容れないことは、すでに書かせて頂きました。それに、ブレンデルは本質的に暗い音楽に、明るい一筋の光を差し込ませる演奏技法に非常に長けている演奏家だと、私は考えていますが、本質が暗い作曲家が本質に反して明るい音楽をたまに書いた場合は、ブレンデルはあまり優れた演奏をしていないのです。もうお分かりかも知れませんが、協奏曲第2番はブラームスのイタリア旅行の産物でして、非常に明るい光が差し込んでいる、との評価がされています。これが、ブラームスの音楽の中で、極めて人気の高い楽曲になっている理由の一つと言えますが、その典型的な場面は、第4楽章に表れますことは周知の事実かも知れません。そこで、楽曲分析の世界では比較的知られたことなのですが、通常の演奏評論や録音評論ではあまり語られないことを一つ指摘させて頂きますと、第2番の協奏曲の第3楽章は、チェロ協奏曲であると揶揄されることはさておきまして、この楽章のブラームスの書法は、明らかにショパンの書法を模倣あるいは研究した点が指摘できるのですね。細かい部分の指摘はしませんが、第3楽章の後半は特に、ショパンの書法の影響下にあるか、ショパンを熱心に研究した成果を、ブラームスが最も取り入れた楽章であるのです。もう私が言いたいことはお分かりでしょう。ブレンデルには不向きであると…
■ バックハウスとポリーニの共通項
これは、この特集がブレンデルの特集である関係で、以下の2点を挙げるに留めたいと思います。
第1点:二人ともに、若い時分にショパンの練習曲で、究極の名盤を残していること。言い換えれば、ピアニズムに特化した話をしますと、二人ともに天性のショパン弾きであると言える点です。
第2点:バックハウスの音楽性の本質は、温かいヒューマニズムに満ちた音楽を奏でることであり、ポリーニの音楽性の本質は、如何に気難しい性格であったとしても、イタリアの陽気なピアニズム、すなわち『音』そのものがとても輝かしいことである、という事実です。
要するに、ブラームスには珍しい明るい音楽である協奏曲第2番に合致した音楽性を、二人は共有していると言えるのではないでしょうか? バックハウスは晩年のベートーヴェンのピアノソナタ全集の評価が一人歩きしているためでしょうか、彼のピアニズムや音楽の本質に関しまして、極めて大きな誤解をされているように思います。この誤解が良い方向にされていますので、バックハウスの名誉は傷ついていませんが、バックハウスの音楽に対する本質を正当に語られていないと信じています。
■ 最後に
ブレンデルは、第2番の2回目の録音を、アッバードとベルリン・フィルとの共演で録音した直後に、今後第2番の協奏曲をレパートリーから外すことを決意したとのことです。このことは、ブレンデルが、彼自身、自らの音楽性を察知し、正しく把握している証拠の一つであると言えるのではないでしょうか? この発表時に、評論家の一部は首を傾げたとのことですが、私にはあまりにも当然のこととして、彼の発表を受け入れることができました。この私の記述は、私が音楽を正しく聴いたり捉えたりしていると言いたいのでは全くありません。ここで言いたいことは、演奏をした人間でしか分からないピアニストゆえの感性という物もあるというだけのことです。要するに、演奏の全くできない方の評論にも大きな意義があると同時に、演奏をかつてした者のみが分かる部分(ほとんど本能的な物です)を取り込める、元演奏家の評論も、決して無意味ではないと言いたいだけなのです。これが、素人のための素人によるホームページであるAn die Musikに私なんかが文章を書かせて頂いている最大かつ唯一の理由であるのです。
■ オマケ
今年(2004年)も、草津夏期国際音楽アカデミーに参加して参りましたが、日本の音楽界の世界の最大の問題点は、草津で皆様のお顔を拝見しただけで、この人はプロの演奏家、こちらはプロの評論家、あっちは学習中の生徒さん、こっちはその付き添いの親御さん、そちらの方は一般のファンの方、なんて風に判断できてしまうことに尽きると思います。音楽とは、私はこう思います。演奏家はできる限り評論を書くべきであると思います。なぜならば感覚的に音楽を捉えているに過ぎない自己の演奏を、自身によって文章化してみることで、演奏行為自体や楽曲の理解が深化するからでありますし、批評に対し「演奏もできないクセに勝手なことを言う」などと言った傲慢な態度を取る演奏家が多少減ると思うからです。評論家は実際に楽曲を弾けなくてもかまわないが、少なくとも全ての楽器の特性を理解するべきであると信じます。なぜならば演奏家がなぜその部分でつまずいたり流れが滞ったりしているのかを理解できますし、無理難題を吹っかけたと演奏家に拒否されることが減ると信じるからです。そして、一般愛好家は、好きになった音楽の楽譜を買ってみたり、実際に機会を見つけて楽器をいじくって遊んだり、聴きながら例えば手を振って指揮の真似事をするべきであると考えます。このような行動はすでに演奏行為の一部に踏み込んでいるからなのです。曲を正しく弾けなくても演奏と言うものがどんなものか実感できることで、さらに音楽が好きになると考えます。このように私はいつも思い、信じ、考えています。それが、各自の立場の違いを認め合って、互いに思いやり、尊重しあうことにつながると信じます。皆様が好きな音楽の世界はとても狭い世界でもあります。何とか、お互いに理解しあって、幸せな音楽ライフを送りたいと念願しています。
(2004年9月2日、An die MusikクラシックCD試聴記)