短期集中連載 An die Musik初のピアニスト特集
アルフレッド・ブレンデル
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を聴く第3部「ブレンデルに繋がるピアニストの系譜」
語り部:松本武巳
■ ブレンデルは「フランツ・リスト」の直系である
最終話の第3部では、ピアニストの師弟関係を、ブレンデル本人から遡って行く形で、探ってみたいと思います。そこから意外な事実が浮き上がってくることを、この項での論旨の主目的とさせて頂きたいと存じます。
ブレンデルの直接の師匠は、バッハ演奏の大家であったエドウィン・フィッシャー(瑞西1896−1960)です。フィッシャーの弟子は、他にはウィーン三羽烏のうちのデムスとスコダに、加えてダニエル・バレンボイムが挙げられます。このうちデムスは、イーヴ・ナットやケンプの弟子でもあります。
次に、フィッシャーの師匠は、マルティン・クラウゼ(独逸1853−1918)であるのですが、クラウゼの弟子で大成したのは、フィッシャーとクラウディオ・アラウ(チリ1903−1991)でありますので、何とブレンデルの伯父さんにクラウディオ・アラウは当ることになるのですね。そういえば、この二人の共通点は、以前お話しましたが、ドイツ本流の音楽を得意にしていながら、終世リストのピアノ曲も同時に弾き続けたところにあると言えるでしょう。
さて、クラウゼの師匠は、フランツ・リスト(洪牙利1811−1886)その人であります。つまり、ブレンデルはリストの直系の曾孫に当り、アラウはリストの直系の孫に当るのですね。そのリストの弟子には、他にハンス・フォン・ビューローやアントン・ルービンステインやダルベールがおります。このダルベールの一番弟子があのドホナーニ(指揮者ドホナーニの父親です)なのです。ドホナーニとリストは、同国人ですので、まだこちらの方が自然に納得できる師弟関係であると言えるでしょう。
さらに、リストの師匠としては、アントニン・レイハ(チェコ1770−1836)とカール・チェルニー(墺太利1791−1857)がいるのですが、この二人はともに、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(墺太利1770−1827)の直接の弟子に当ります。ベートーヴェンの師匠はフランツ・J・ハイドン(英吉利1731−1809)であり、そのまた師匠はC・P・E・バッハ(独逸1714−1788)、そのさらに師匠がヨハン・パッヘルベル(独逸1653−1706)となり、ルーツ探しはここで終えることになります。なぜかと言いますと、パッヘルベルとC・P・E・バッハの間の頃に、ピアノフォルテが発明されたのでして、これ以前の師弟関係はあったとしましても、ピアノの師弟関係ではありえませんので、ここでルーツが決定することになるのですね。
■ コスモポリタンであるブレンデルの出自と系譜の齟齬
上記のブレンデルの師匠のルーツを見れば一目瞭然であるのですが、ドイツの本流の流れを直接汲んでいることは明らかでしょう。にもかかわらず、ブレンデル本人の出身は、旧ユーゴスラヴィアまたは、旧チェコ・スロバキアの辺境地域であり、音楽的な関係はおろか、宗教的に見てもキリスト教の本流にブレンデル本人はいないのですね。このために、ブレンデルは欧州人というよりもコスモポリタンであると、自らを語っているのですね。
さて、ブレンデルの音楽性の理解が意外なほどに困難なのは、結局のところ、西洋本流の師弟関係にありながら、本人の血統は極めて辺境亜流な出自であることから来ている、自己矛盾的な音楽性につきるのではないでしょうか。ブレンデルは王道を歩んでいるピアニストであるとの誤解は、上記の師弟関係からのみ捉えた見解であると思いますし、一方で、ブレンデルの本質を単なる亜流・アウトサイダーと捉えることも上記を見れば理解できるように、非常に一面的な理解であると言えるでしょう。
つまるところ、私はブレンデルの魅力とは、西洋の本流・王道を歩む師弟関係の中にありながら、人種・血統的には極めて亜流であるということが、本人の大いなる努力と相俟って、他の西洋本流のピアニストとは違った不思議な魅力を引き出していることに、尽きるのではないかと思っております。
※参考文献:ピアニストに贈る音楽史(音楽之友社2003初版)
(2005年5月22日記す)
(2005年5月23日、An die MusikクラシックCD試聴記)