短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル 第4回
シューマンの「クライスレリアーナ」を聴く

語り部:松本武巳

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CDジャケット

シューマン
クライスレリアーナ作品16
(併録=子供の情景作品15)
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
録音:1980年8月
PHILIPS (国内盤 416 899-2)

 

■ シューマンはロマン派の典型的作曲家とは言えない

 

 のっけから訳の分からぬ・・・とおっしゃられるかも知れませんね。この発言は確かに驚かれるかも知れません。だって、一般的には「ロマン派の旗手」と言われているのですから・・・実は上記の発言は、聴き手にとって、シューマンがロマン派の旗手であることへの否定では決してないのです。ここでぜひ話題にしたいことは、ロマン的なピアニストでショパンやリストに名演を残していることで評判の高い演奏家が、意外につまらないシューマンのディスクを残していることが多く、逆に古典派の名演を多く残した、ベートーヴェンの大家と言われるような演奏家が、実はシューマンの名演奏を残していることなのですね。ここに、シューマンを演奏することの本質とその困難があるのです。一体なぜそのようになるのでしょうか? 私は以下のように考えてみました。

 

■ ローベルト・シューマンの音楽性のキーワードは『独逸』である

 

 ここで、シューマンの音楽を色々な角度から、その方向性を模索してみましょう。

  1. シューマンのピアノ曲はロマン的か、否か?

気楽に聴くだけの場合は、ロマン派の典型に感じ、そこかしこからロマンの香りが漂ってきます。しかし、実際にはロマン的な気まぐれと言うよりも、むしろシューマンの楽曲の場合、彼自身の精神的に不安定な移ろいがモロに出てしまっている気がします。しかも彼の音楽にはそのくせにドイツ人特有の分別臭さが同時に内包されているのです。

  1. シューマンのピアノ曲に名演奏を残しているピアニスト群の演奏家としてのタイプはどんな人が多いか?

これは、ドイツ音楽や古典派の音楽に名演を残しているピアニストの方が、ロマン派を得意とするピアニストよりも、実際に数多く存在していると思われます。ショパンとシューマンの両方に名演を残す難しさよりも、不思議ですがベートーヴェンとシューマンの両方に名演を残す方が容易で、むしろ多く見られるのです。

  1. シューマンの音楽の癖はロマン派音楽の本質とは異なる癖を基本としているのか?

シューマンは、自らをロマン派の旗手と称し、文筆を絡めて多彩な活動をしました。しかし、そのことこそが、作曲家のシューマンは実は分別の塊で、独逸魂の塊であることの裏返しなのですね。つまりシューマンがロマンを語れば語るほど、講釈を垂れる分別臭いドイツ人が見えてくるのです。これは音楽としてできあがったものを評価しても本質的に変わらないのです。要するにロマン派の本質とは違ったところにこそ、シューマンのピアノ曲の魅力があるのです。

  1. どのように演奏すると、シューマンのピアノ曲は良い演奏になるか?

よって、まず彼の音楽を演奏する場合の基本は、論理的な楽譜の読み込み無くしては名演奏になりえないと言えるでしょう。ところが、精神的に不安定な時期の彼の作品は、アナリーゼが困難な場合があるのです。要するに結構論理破綻を来たしている音楽をシューマンは書いてしまっているのです。と言って、ロマン的な感情を前面に押し出して演奏しても、意外に栄えない演奏に終始してしまうのです。いっそのこと、『この曲はドイツ音楽だ』と割り切って、古典的解釈で押し通した場合の方が、聴いている側からみますと安定感のある名演になるようです。よって、少なくとも演奏行為をする側から言えば、シューマンをロマン派であると理解せずにピアノを弾くことが、結果としてシューマンの名演を残す基本であるのかも知れません。

 

■ ブレンデルのシューマンは優れた演奏と言えるのか?

 

 いきなり結論を申しますと、『つまらない』ディスクの方が多いと思います。その最たるディスクが、ここで挙げている「クライスレリアーナ」や、新旧両方の「交響的練習曲」であると思います。ところが、ブレンデルのシューマンで、結構良いな・・・って感じるのが、「幻想曲」や「幻想小曲集」なのです。不思議なのは、「ピアノ協奏曲」です。クラウディオ・アバドの指揮で入れた旧盤は名演です。でも、クルト・ザンデルリンクとの新盤は最悪に近いのです。なぜでしょうか? 私は上記のことと合わせて考えてみた結果、以下のように信じます。

  • 「本質的にロマンティストであるブレンデルとシューマンの音楽は水と油である」
  • 「理論派であり、考えるピアニストであるブレンデル(要するに良く知られている側面のブレンデル)にとっては理解不可能な音楽である」

 えっ!? 矛盾していますか? いいえ、私はこう言いたいのです。ブレンデルを肯定的に見た場合、強い論理性と、ロマンティックなファンタジーが彼の体内でうまく融和したときに名演が生まれています。シューマンの音楽を演奏する場合になぜそのようにならないのでしょうか? それは、ブレンデルの本質的に『極めて健康的で健全な精神』と、シューマンの本質的に『極めて不健康で病的な精神』を内包している魅力とは、逆立ちしても相容れないのだと思います。

 

■ 終わりに

 

 ブレンデルの演奏で、作曲家の能力を診断することができるのでは・・・と考えてしまうときがあります。それは、音楽の本質のうち以下を除く部分です。ひとつは、旋律そのものの魅力。ふたつは、偶然的魅力。これは、シューマンのピアノ曲を例に取りますと、ブレンデルが「謝肉祭」に決して手を出さないことがその典型であろうと思います。ブレンデルは「フロレスタンとオイゼビウス」になれないのです。こう言い換えて、結びとしましょう。ロマンティスト・ブレンデルの魅力とは、云わば『源氏物語』の世界の魅力なのです。しかし、ブレンデルに求めても無駄であるのは『徒然なるままに・・・』ピアノ音楽を聴こう・弾こうとする姿勢なのです。『源氏物語』のロマン=ロマンティスト・ブレンデルの本質であると、私は思っています。そのように理解しますと、ブレンデルの『分別』や『講釈』と、彼の『ロマンティスト』の部分は、決して矛盾していないと私には思われるのです。

 

(2004年8月16日、An die MusikクラシックCD試聴記)