「フィガロの結婚」におけるアルマヴィーア伯爵
モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」は多数の名旋律に彩られた傑作です。この歌劇で印象的なのは終幕のフィナーレです。衆人環視のもと、自分の過ちを認めざるを得なくなったアルマヴィーア伯爵は歌い出します。
Contessa, perdono.
伯爵夫人、許してくれ。
これに応えて伯爵夫人は歌います。
Piu docile io sono,
E dico di ci.私の方が従順ですから、
はいと申しましょう。この部分は「フィガロの結婚」の中でも屈指の旋律です。特に伯爵が歌い出す場面は、どのCDのどの演奏を聴いても心を打たれます。それまでさんざんドタバタ喜劇を演じ続けてきたのに、この場面で一挙に雰囲気が変わるのです。一体モーツァルトはどうしてこのような旋律を思い浮かべることができたでしょうか。これなら伯爵夫人でも、それ以外の誰であっても伯爵の過ちを許してしまいそうです。
ですが、もしこの音楽がなかったとしましょう。心のこもった伯爵の歌が、音楽がなかったとしたら、伯爵夫人はこんなに簡単に許すと言ったでしょうか。現実的に考えると、伯爵夫人はよく許したものですよね。そこで許さなければこの歌劇は終わらないからといえばそれまでですが、伯爵の過ちというのはおそらく現代の女性の目から見ると簡単には許せないものではないでしょうか。
前日譚である「セヴィリャの理髪師」で、伯爵夫人になる前のロジーナに出会ったアルマヴィーア伯爵は自分の身分を隠してもロジーナに愛されたいと願います。そのロジーナと無事に結婚して伯爵夫人としてしまうと、いつの間にか伯爵は浮気心から好色なおやじと化してしまいます。伯爵は「フィガロの結婚」では、廃止されたはずの初夜権を持ち出してフィガロの結婚相手スザンナをものにしようとするのです。初夜権を使おうとするのは、要するに伯爵が欲しいのはスザンナの愛ではなく、肉体だということです。もうこの時点で伯爵の好感度は地に落ちてしまいます。「フィガロの結婚」の中で伯爵はスザンナにちょっかいを出し続けます。これだって誉められたものではありません。スザンナは伯爵夫人の侍女です。ということは伯爵とも主従の関係で、力関係は歴然としています。伯爵は自分の地位にものをいわせて立場の弱い女性にちょっかいを出しているのです。格好良くないですよね。
歌劇の終盤で、伯爵は伯爵夫人の不貞を責め立てます。伯爵夫人の不貞は無実で、その実はフィガロとスザンナの芝居です。伯爵は自分のよこしまな行動を棚に上げて二人をなじります。どこまで面の皮が厚い人だと思いませんか。伯爵夫人がスザンナに化けていた時には、自分の奥さんをスザンナだと思ってくどいていたんですよ。それなのに、そのすべてを知っているはずの伯爵夫人は、伯爵が「許してくれ」と訴えると寛大にも許してくれるのです。これには驚くしかありません。伯爵夫人は天使のような、いや、神様のように寛大なお方だと思います。女性の目から見てどうなのか知りたいところですが、男性にとって、どう考えてもこれ以上の伴侶を想像することはできないでしょう。
モーツァルトの時代から200年以上経っている現代では、どうなのでしょう。こんな男性は女性からたちまち離縁状を叩きつけられると思います。浮気でなくても、亭主の好き勝手な振る舞いを夫人は「許してくれ」の一言で許し、水に流してくれるとは到底思えません。「フィガロの結婚」の原作者ボーマルシェが現代に生きていれば、どのような台本を書くでしょうか。興味は尽きません。
最後にCDをひとつ挙げておきます。
モーツァルト
歌劇「フィガロの結婚」
カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団及び合唱団、ほか
録音:1968年3月、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(輸入盤 449 728-2)このCDでは、アルマヴィーア伯爵をフィッシャー=ディースカウが、伯爵夫人をヤノヴィッツが歌っています。いかにも生真面目そうな声のフィッシャー=ディースカウが好色なアルマヴィーア伯爵を演じているのには若干の違和感を感じるものの、モーツァルトの音楽の力、フィッシャー=ディースカウの歌の力はとてつもないです。聴いていて唸らざるを得ません。さらに、カール・ベームの指揮がすばらしい。オーケストラのきりりと引き締まった演奏を聴くと、ベームが指揮台に立っている姿を想像します。紛れもなくベーム絶頂期の演奏なのですね。今後も「フィガロの結婚」の代表的録音のひとつとされるでしょう。
(2014年2月3日、An die MusikクラシックCD試聴記)