エッシェンバッハ−苦悩からの開放を求めて−
31年の時を経ても何一つ変わらぬ苦悩

文:松本武巳さん

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■ コンサート見聞録
クリストフ・エッシェンバッハ指揮フィラデルフィア管弦楽団
2005年5月20日、横浜みなとみらいホール

  

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ピアノ:ラン・ラン
ピアニストのアンコール:岡野真一編曲「朧月夜」
チャイコフスキー:交響曲第5番
アンコール:スメタナ作曲「売られた花嫁」序曲

 

■  突然書くに至った経緯

 

私はエッシェンバッハへの想いを清算するべく、31年ぶりに彼のコンサートに身を委ね、結果としてまたもや無惨にも打ち砕かれてしまった。しかし、彼への長い永い私からの想いを、ここでまとめておきたいと念じ、重い腰をあげようと思いたった。これはもしかしたら、試聴記ではなく、個人の心情告白に過ぎないかも知れないが、何卒私の心の整理として、記録に残したいと念願した気持ちをお許し願えればと思う。

 

■  1974年9月以前

 

私の古典音楽の理解は、エッシェンバッハの奏するモーツァルトを聴いて育まれたと言っても特に言い過ぎではないだろう。今なお、モーツァルトのピアノソナタは、エッシェンバッハのCDが最も私の体内ではしっくりと来る。また、彼が録音した『ピアノレッスンシリーズ(DG)』はある意味、不滅の金字塔として永遠に語られるべき偉業であると信じている。この偉業は、フィッシャー=ディースカウとエディット・マティスと言う20世紀の偉大な2人の歌手によって完成された『シューマン歌曲全集』のピアノ伴奏をも上回る、彼のピアニスト時代最大の業績であると思う。

 

■  1974年9月の事件

 

私は、エッシェンバッハが兵庫の片田舎でベートーヴェン・アーベントを開催することを知ったとき、狂喜乱舞し、そのリサイタルの当日を心待ちにしていた。しかし当日は、私の学校が不幸にも文化祭の前日であったために、全校生徒が校内に拘束されていた状況にあったので、大胆にも逃走を試みた。私は、校庭を接するお隣の女子校に侵入し、両校の間に位置していた、カトリック教会を経由して脱走し、念願のエッシェンバッハのリサイタルに制服のまま駆けつけたのである。実は、カトリック教会の司教さまと、お隣の女子校のシスター校長先生に相談し、イエズス・キリストのご加護のもと、一日限定でジャン・バルジャンになることが許されたのである。6歳からカトリック教会の日曜学校に通い続けていたことを、この時ほど神様に感謝したことは、その後も決してない。

しかし、その演奏会は私にとって、悪夢を超えたディエス・イレーとなってしまった。多分エッシェンバッハ自身も・・・4曲のベートーヴェンのピアノソナタの最後は、26番「告別」であった。その最終楽章のフィナーレに近い箇所に派手な下降音型があり、一瞬そこで終わったように感じる、その箇所で一人の男性が派手な拍手をしてしまった。そんなことは良くあることだが、この男性は終わったのでないことを察知した瞬間、あろうことか、大声で「なんや、終わったんと違うんかいな・・・」と叫んだのである。会場が凍りつき、エッシェンバッハの演奏も中断した。コンサートがあと1分もしないうちに、無事に終わろうと言うときに・・・2,3分程度であったろうか、私には何時間にも思える恐ろしい静寂を破ったのは、エッシェンバッハのピアノの音であった。彼は、何と、「告別」の第1楽章の初めから再度弾きはじめたのである。

私は、楽曲の構造や演奏会のルールとしては、一応正当であるかも知れないエッシェンバッハの行為であったが、直感的に「彼はもうピアニストを続けられない」と感じた。実はこれは、この事件がなくても思ったかも知れない。なぜならば、当時の彼はまさにシューマンの歌曲全集の録音中であったにもかかわらず、一方ではネオ・ナチであると噂され、実際当夜の演奏会のステージ衣装も、軍服と見紛う衣装であった。しかし、そのような表面上の問題ではなく、私はその日までレコードで親しんできた彼を、本能的に全拒否してしまったのである。理屈ではなく、私は彼の演奏内容以前に、彼を目の前にし、彼を受容できなかったのである。

 

■  その後の31年間

 

私は、しかし彼のことが常に気になり、一方でピアニストから指揮者へと活動を移行させてきた彼のディスクを、その後も1974年の事件にかかわらず、買い求めていた。いつしか、彼は指揮者としては、ピアニスト当時とは大きく方向を転換し、極めて個性的な指揮者として、一部の濃いファン層を形成するようになった。清潔で生真面目であるとされた、DGへのピアノ録音とはコペルニクス的転換を見せた、ブルックナーやマーラーの大柄な振幅の大きい、スケール豊かな指揮者として、評価されるようになった。その演奏姿勢は、ピアニスト当時とはまったく異なった、健康的な演奏で、実際身振りも大きく派手な指揮ぶりであると噂され、ピアニスト時代を上回る評価と、指揮者としての大成振りがうかがわれた。私は、そのことがとてもうれしく、徐々に31年前のトラウマを自らも払拭したいと念願するに至った。そして、2005年5月20日フィラデルフィア管弦楽団を率いた彼のコンサートに、今日私はついに出かけたのである。

 

■ 今日、コンサート会場で起こったこと

 

私は、今日、会場で見たものは、見掛けは大きく変化した、エッシェンバッハであった。しかし、世評ではピアニスト・エッシェンバッハと指揮者・エッシェンバッハは『別人28号(本学園理事長の嗜好する洒落です)』であるはずであったのが、演奏が始まった瞬間、私を待ち受けていたのは、あの31年前のトラウマの再現であった。私は31年たっても、私の心はエッシェンバッハに対して『鉄人28号』に本能的になってしまい、全拒否をしてしまったのである。ただ、31年前と今日の決定的な違いは、例えば隣に座っていた青年カップルが「すげぇ、これで○○円は安いよ」と叫んでいたのは、単なる経済観念ではなく、真に感動していたのであることが、客観的に理解できたことである。31年前は私と同意見を持った人は結構多かったと思う(意見として同じだけで、本能的に拒否した人は当時もほとんどいなかったと思うが)。しかし、今日の聴衆は優れた演奏に酔っていたように見えた。

私にとって、周囲の興奮の分だけ、31年前に増してなお絶望的な状況に追い込まれた。なんと私は、後半の楽曲(チャイコフスキーの交響曲第5番)の途中から、心を閉ざしたせいか、深い眠りについてしまった。演奏を子守歌として心地よく爆睡することはたまにあるが、今日の眠りは、すべてを閉ざした「自閉症」的な眠りであり、実際眠りについた後の記憶がほとんど残っていない(子守歌として寝る場合は、楽章の間とか、結構記憶が残っているものである)のである。周囲から取り残され、一人だけ全身の身の毛が弥立つ状態で凍りつくさまは、やはり私が瞬間的に精神の病を得たと言い換えても大きくは間違っていないであろう。今日の私の収穫は、世評とまったく逆で、エッシェンバッハその人が、31年間同じ変わらぬ人物であった証明を、私の本能が私に対して与えたことにあるとしたら、あまりにもこの31年間の永きに渡り、少なくとも私が彼に対して想い続けた『こころ』は客観的に捉えても無惨であろう。

 

■  最後に思うこと、または祈ること

 

エッシェンバッハは、70年代後半に精神的に追い詰められたあと、ピアニストから指揮者に転換して、精神的な壁を打ち破ったとされている。このこと自体は多分正しいのであろう。しかし、私は今日コンサートホールでこのように感じた。彼の内心は何も変化していないのであろう。ただ単に、自らが平安に生き延びる方策として、今の指揮者としての方向性があり、またそれが世界の音楽ファンの心をたまたま捉えたのであろう。彼は、音楽を通じて、人生を続ける意味を模索し、実際に成功も勝ち得た。しかし、彼の心の開放は成し遂げたのであろうか? 私には、彼の能力とパフォーマンスの賜物ではあるが、彼の内心の葛藤・苦悩は依然として開放されていないのではないかと信じる。彼は生きかたがうまくなっただけで、いまもなお、精神は苦悩し続けているのではないだろうか?

幼少時、孤児としてエッシェンバッハ家に引き取られた彼が、養親の加護を得て成長し、世界的な地位を得た後に、苦悩が前面に出て、ピアニストとしての限界を感じた後、指揮者として成功し、精神が解放されたのは、結果として、彼の人生と精神のうちのごく一部であって、彼の心の深層での葛藤・苦悩・模索はいまなお続いているのではないだろうか? でないと、私が31年の時を経たにもかかわらず、全く同じ本能的な拒否反応を示した理由が見つからない。もちろん私の精神が異常であるだけかも知れないが、それならば、なぜ生まれてからこのような経験がたった2度しかなく、かつ、私がエッシェンバッハの音楽を40年近くに渡って、音源では愛し続けていることの説明がつかないのである。

私は今後も彼の音源を買い求め、ファンであり続けるだろう。しかし、もはや私は彼のコンサートに行く勇気がない。彼を前にすると、鉄仮面を被り、鉄の鎧兜を身に纏う、そんな悲惨な片面的な愛が、彼に対する愛情として相応しいと割り切ることが、神への冒涜となってしまうのか、私はこのことを恐れる。神の愛は無償の愛である。では、私のエッシェンバッハへの愛は果たしてどんな愛なのであろうか?

(2005年5月20日記す)

 

2005年5月21日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記