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作曲家篇 マーラー

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ボタングスタフ・マーラー

 すでに見てきたコンセルトヘボウ管弦楽団の公式HPには、"Mahler and Bruckner"や"Working with Composers"といった項目があります。100年を超える歴史を持つオーケストラともなると、いろいろな作曲家との結びつきも多いわけです。ではまずそのHPからマーラー(1860-1911)に関する部分を、例によって直訳してみましょう。

コンセルトヘボウ管弦楽団は、ブラームス、マーラー、ブルックナー、そしてリヒャルト・シュトラウスを含む、後期ロマン派のレパートリーの演奏によって喝采を受けてきた。マーラーの伝統は、マーラー自身がここで指揮をしたおびただしい演奏会に基盤を置いており、1920年のマーラー音楽祭の間に最初の頂点に到達した。マーラーの作品は常にコンセルトヘボウ管弦楽団のレパートリーの重要な構成要素であり続けたのだが、マーラーの交響曲の完全録音によって、そして一連のクリスマス昼間興行の間のマーラー・プログラムの演奏によって、マーラーの伝統を一段押し上げたのはベルナルト・ハイティンクだった。1995年5月のマーラー音楽祭は、コンセルトヘボウ管弦楽団にウィーン・フィルとベルリン・フィルが加わったとき、完全に国際的な感銘をもたらした。マーラーの第8交響曲を指揮するリッカルド・シャイーはそのハイライトの一つだった。2000年1月リッカルド・シャイーはこの偉大な交響曲を数回にわたり再び指揮する。

 この翻訳に疑問を持たれた方がいらっしゃいましたら(全員そうでしょうけど)、コンセルトヘボウ管弦楽団のHPにアクセスして原文をご参照ください。さてここでポイントの一つは、作曲家であると同時に優秀な指揮者でもあったマーラーが、コンセルトヘボウ管弦楽団を何度も指揮した、という点でしょう。『名門オーケストラを聴く!』(音楽之友社編,音楽之友社,1999)その他の資料によりますと、最初に客演に招かれたのは1903年10月22日と23日、曲は自作の交響曲第3番だったとのこと。1903年といえばコンセルトヘボウ管弦楽団の創設から15年、メンゲルベルクの時代になってから8年目という時期にあたり、マーラー自身は交響曲第5番を完成し第6番の作曲を開始した頃ということになります。当時マーラーはウィーン宮廷歌劇場の楽長で、ウィーンを拠点に活動していたのですが、その作品はウィーンで必ずしも高く評価されていたわけではなかったらしいのです。ところがアムステルダムでのその演奏会は大成功をおさめたため、すっかりアムス贔屓となったマーラーはその後もコンセルトヘボウ管弦楽団に何度も登場、例えば翌1904年には2番と4番の交響曲をとりあげ、1906年には交響曲第5番、『亡き子をしのぶ歌』や『嘆きの歌』、1909年にはその前年にプラハで初演されたばかりの交響曲第7番を指揮しています。1907年にはメトロポリタン歌劇場の指揮者としてニューヨークに居を移していたマーラーでしたが、ジェット機などなかった当時、船によるヨーロッパへの行き来はさぞ大変だったのではないでしょうか。しかしマーラーはアムスをしばしば訪れ、自身で指揮をするだけでなくメンゲルベルクが指揮する自作の演奏会も聴いて、そのことが作品の改訂や補筆につながったといいます。

 もう一つのポイントはこのメンゲルベルクです。マーラーの作品の理解者であったメンゲルベルクが、1902年にマーラー本人と会って親交を深め、翌年彼をコンセルトヘボウ管弦楽団に招いた、というわけです。マーラーはアムス滞在中は、コンセルトヘボウのすぐ近くにあったメンゲルベルクの家に居候していたということなので、相当親しい関係にあったものと思われます。上記HPに出てくる1920年のマーラー音楽祭は、メンゲルベルクがコンセルトヘボウ管弦楽団就任25周年を記念して開催したもので、9日間にマーラーのほぼ全作品を指揮したとのこと。この世界初の試みによって、コンセルトヘボウ管弦楽団とマーラーとの結びつきは決定的なものとなったのでした。その後、ベイヌム、ハイティンク、そしてシャイーがこの伝統を脈々と受け継いでいることは、ご存じの通りです。

 最後にコンセルトヘボウ管弦楽団のマーラー録音歴について。戦前はマーラーの録音そのものがほとんどなされなかった時代ということで、メンゲルベルクのものは第4番の録音が残っているだけのようです。ベイヌムも第4番と「大地の歌」、「さすらう若人の歌」があるのみ。録音上はやはり、1962年からあしかけ10年をかけて完成されたハイティンクによる交響曲全集が、最初の重要な成果でしょう。ハイティンクは主要な歌曲も録音しており、第1・4・7番は再録音もあります。さらにこれも上記HPで言及されている「クリスマス・マチネー」のライヴ録音(1977〜1987年)も第6・8番を欠いた選集としてまとめられており、第6番についてはNMクラシックスから出ている放送音源ボックスセットに1968年のライヴ録音が収録されているという具合で、コンセルトヘボウ管弦楽団との録音だけでもかなりの量があります。一般的には、1980年代に開始され中断されたままになっているベルリン・フィルとの新全集録音の方が評価の高いハイティンクのマーラーですが、冷たくメタリックな印象を否めないベルリン・フィルのサウンドよりも、「伝統の」コンセルトヘボウ管弦楽団の方が、やはりマーラーにふさわしい気がしてなりません。

CDジャケット そしてこの「伝統」はシャイーにも継承されており、1989年から現在までに第1・4〜8番の6曲が録音済みで、こちらは中断することなく全集録音がなされるようです。二種類以上のマーラー交響曲全集を持つオーケストラは現在まだ存在していないのではないのでしょうか。3月に発売されたばかりの第8番(左写真)は、上記HPで言及(*)されている「2000年1月の再演」の際に録音されたものです(*この部分はHPの更新により現在は削除されています)。シャイーは、1990年9月10日付の「ザ・タイムズ」紙インタビューにおいて、「アムステルダムでは、マーラーの曲に対する信じがたいような共感と理解がある。それは一小節ごとに感じられるほどだ」と語っているとのこと(孫引きです)。

 他の指揮者では、バーンスタインの新全集で第1・4・9番(及び「子供の不思議な角笛」)にコンセルトヘボウ管弦楽団が起用されているほか、ショルティによる第4番と「大地の歌」、ヨッフムによる「大地の歌」といった録音があります。クレンペラーが1951年に「復活」を指揮した、オランダ音楽祭のライヴ盤も残されています。非正規盤ではテンシュテットの第5番などもありました。


(An die MusikクラシックCD試聴記)