デイヴィスの「幻想交響曲」を聴く 続編
他のオーケストラの録音(文:青木さん)
「幻想交響曲」といえば世間で決定的名盤とされているミュンシュ指揮パリ管盤ですが、ワタシの耳にはガサツでせわしない凡演にしか聴こえませんでした。ボストン響との旧録音のほうがよかったほどです。ゲルギエフやミュンフンやバーンスタインやカラヤンなども聴く気がせず、ハイティンクやドホナーニもイマイチ、アバードやバレンボイムもつまらなく、ストコフスキはぜんぜんダメ、という体たらく。こんな本音を公言してしまって大丈夫かと心配になりますが・・・。逆に愛聴しているものをいくつかご紹介します。
■ ポール・パレー指揮デトロイト交響楽団
(11:33/5:33/14:36/4:20/9:03)
録音:1959年11月28日 キャス工業高校ホール、デトロイト
マーキュリー(国内盤:ユニバーサル UCCP9457 輸入盤:434 328-2)ワタシがいちばん好きな「幻想」のディスクがこれです。パレーとデトロイト響のマーキュリー録音は、CD化されたものを聴いた範囲内ではすべてが素晴らしいと感じましたが、その中でもこれが最高。
全編超ハイスピードという印象を記憶していたのですが、今回聴き返してみて、そうでもないことを確認。第2楽章の冒頭などスローといってもいいほどで、だからこそ主部に入ってからの颯爽とした高速ぶりが際立ちます。第1楽章のラストはベイヌム以上の痛快な加速ぶり。しかしテンポが速い部分もセカセカした感じはなく、爽快な疾走感を堪能できます。第4楽章のラストから終楽章の入りのあたりなど目眩がしそうなほど。
そういう演奏ですから、これも描写的ではなく純音楽的なアプローチですが、一種のクールなマッドネスを感じさせるあたりは、デイヴィス盤や後述するショルティ盤にない側面。これはパレーの個性の一つであるラテン気質がなせるわざ、なのでしょうか。骨っぽい男気やイナセな風情も感じられ、とにかく聴き惚れるのみです。
オーケストラは、アップテンポでもアンサンブルが乱れぬ技術面の凄さもさることながら、明晰な中に軽妙洒脱さを感じさせる音色やフレージングもなかなか味があり、工業都市デトロイトのイメージとは大違い。これはオーケストラそのものの個性に加えて、シンプルさを旨とするマーキュリーの録音ポリシーとの相性が良かったのでしょう。
そういうわけで、指揮・演奏・録音のベクトルがうまく一致した、シャープで痛快無比の名盤です。併録の行進曲や序曲もすごくいい演奏で、言うことなしのCD。
■ サー・ゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
(15:19/6:10/16:30/4:51/10:04)
録音:1972年5月 イリノイ大学クラナート・センター
デッカ(国内盤:POCL2901)『ショルティ自伝』(木村博江訳,草思社,1998)によりますと、「私はベルリオーズを心から敬愛しているが、恥ずかしながらそれほど数多く指揮したことがない」としながらも、「私は『幻想交響曲』は繰り返し演奏し、録音も二回おこなった」と書かれています。その再録音はザルツブルクでのライヴ盤で、今回採りあげるのは旧録音。シカゴ響との最初の数年はマーラーばかり録音していたショルティは、就任3年目の1972年5月に堰を切ったように大量の録音を行っていますが、その中の一枚です。
これはデイヴィス盤以上に、標題性を一切無視してオーケストラの機能性を極限まで表出させているかのような、ある意味で凄まじく突き抜けた演奏だと感じます。そういえば初出LPのオビには『おそろしい”幻想”だ! これほど徹底的に追及された”幻想”があっただろうか・・・・・・』という意味不明の惹句が記されていたのですが、決してプログラムのリアルな描写を追及したから恐ろしいわけではありません。この演奏の第3楽章を聴いて「野の風景」を思い描ける人はほとんどいないでしょう。
全体に渡って、情熱も絶望感も狂気も寂寥感も不気味さもまったく感じさせず、完璧な合奏美で管弦楽をダイナミックに鳴らし切ることだけを極めた、剛毅でハードボイルドな演奏。こういうのが好きな人にはたまらないものがあります。あのオビのコピーは、はっきりそう書いてしまうと引いてしまう人が続出するのでわざとあいまいに表現したのではないか、と想像されます。
リピートは第1楽章のみ実践、第2楽章はコルネット・ソロなし。第5楽章の鐘はかなり遠くで鳴っている印象。ケネス・ウィルキンソンによる録音は明るめの音色でくっきりした分離を優先させた典型的なデッカ調で、ゴリゴリ唸る雄弁な低弦や豪快なティンパニの迫力は凄いものの、ずっしりした重量感はほどほどです。
ちなみに、これに比べると1992年の再録音は、グッとまろやかさが出た常識的な表現になっています。さらに、同じシカゴ響を起用したアバードやバレンボイムの録音は当然ながらショルティとはまったく異なるアプローチで、結果は退屈な凡演にしか感じないのですが、アバード盤も登場時は絶賛されてましたねぇ。
■ ウィレム・ファン・オッテルロー指揮ハーグ・フィル(レジデンティ管弦楽団)
(12:56/6:02/15:29/4:36/9:03)
録音:1959年6月10-12日 コンセルトヘボウ、アムステルダム
フィリップス(国内盤:ユニバーサル PHCP20415 輸入盤:464 092-2)この輸入盤CDは、余白に入っている「ファウストの劫罰」抜粋(ドラティ指揮コンセルトヘボウ管)が目当てで買ったものですが、オッテルローの幻想交響曲も気に入りました。スター指揮者と超A級オーケストラによる技術的完成度の高い録音ばかり聴いていると、この演奏の素朴な味わいが逆にとても心地いいのです。
といってもボンヤリした演奏ではありません。速いテンポで緊張感ある表現を基本としながら、ところどころで急にのどかになったり、フレージングが独特な箇所があったりと、ある意味で変化に富んでいるものの、全体としては独特の格調ある雰囲気が保たれているのが魅力。それが何なのかはよく分からないのですが、「オランダの地方色」だと勝手に解釈しています。フィリップス・トーンそのものといった印象が強い録音のせいもあるのでしょう。
ですので、写真のフランス盤はデッカ・レーベルになってしまっているのがちょっと残念。国内盤CDはフィリップス・レーベルとして出ましたが、フィルアップはシベリウスの「フィンランディア」でした。
■ オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
(16:17/6:41/18:10/5:06/10:49)
録音:1963年5月・9月 キングスウェイホール、ロンドン
EMI(国内盤:東芝 TOCE13127、輸入盤:7243 5 67034 2 1)ワタシが持っているのは輸入盤(「クレンペラー・レガシー」シリーズ)ですが、最新の国内盤は「決定盤1300」シリーズで出ており、前記のヤンソンス盤も同じシリーズに入っています。定評ある過去の名盤と最近の録音が商品として同列に扱われ、新たなリスナーにとって録音史の時系列が崩壊してしまっている現況が、端的に現れているようです。クレンペラーの録音の多くは、LP時代末期には既に廉価盤でした。しかし内容と価格を連動させるとすれば1300円はあまりに安すぎる、まだ評価の定まらぬ新譜の何倍もの値付けをして然るべきではないか、などと思わせるような超弩級の名盤と申せましょう。
こんなに醒め切った表現でもこの曲はかように立派に成立するのです。遅いテンポで主声部と内声部を等価に鳴らし、オーケストレーションを一旦解体して再構成しているかのような印象。ですのでヴァイオリンを左右に分けた対向配置が、最高の効果を発揮しています。これがインテンポで淡々と進行し、全体は堂々たる風格に満ち満ち、まさに圧倒的。
この演奏の個性は現在でも立派に通用するものだと思いますが、第1楽章提示部のリピートを行い第2楽章にコルネット・ソロを加えるという選択も、1963年の時点ではかなり異色だったはずです。クレンペラーという指揮者のユニークな偉大さを、改めて痛感してしまいます。
プログラムに沿った説明調になったり妙に感情的になったりしていないところはデイヴィスやベイヌムやショルティらと同じとはいえ、結果はまったく違ったものになっていて、それらのそれぞれに違った魅力がある。標題性を強調せずともこれだけの受容力を持っていることからしても、やはり「幻想交響曲」はたいへんな名曲なのでしょう。
《ジャケット・デザインのこと》
かつて「幻想交響曲」のアルバムジャケットには不気味系のイラストが目立ちました。オーマンディのRCA盤とバレンボイムのDG盤は、デイヴィス盤と同様に第5楽章の悪夢の光景だと思われますし、カラヤンの74年盤は意味不明の巨大な怪鳥、アンセルメ盤やミュンシュ盤もグロテスクな絵。アバード盤のベルリオーズの肖像画さえ、サイケな背景(断頭台の場面つき)に彩られていました。
これらはそれぞれにインパクトがあって、強く印象に残っています。しかし、ワタシの場合そういったイメージはこの曲を聴く上でむしろ邪魔になりましたので、他の曲の場合ほどオリジナル・ジャケットに対する執着がありません。
むしろ強い憧憬の対象だったのは、前述したショルティの旧盤です。黒地に赤のレタリング、エンジ色の服を着たショルティの指揮姿がマルチスクリーンのようにあしらわれた、実にカッコいいデザイン。その2500円のLPを、SLA1042という型番まで覚えてしまうほど欲しかったのに、学生だった当時は買うことができなかったのです。しかしあれはキングレコード社のオリジナル・デザインだったとみえて、その後に国内外で何度かCD化されたものの、どれも違うジャケットに差し替えられていました。そしてある日とうとう、あのジャケットだけが目当てで中古LPを購入。解説書はディスクとともに内部に封入され、ジャケット裏面はオーケストラ・ホールのステージに勢ぞろいしたショルティとシカゴ響のポートレイト。この豪華な体裁の美麗盤が、わずか500円でありました。
以下は完全に余談ですが、ジャケットの変更にまつわるこの手の愚痴はほかにもたくさんありますね。レコード会社のみなさんには、アルバムのオリジナリティの重要性をもっと認識していただきたいと切望いたします。という声が届いたのでしょうか、最近は旧譜のCD化にあたってオリジナル・ジャケットが採用されることが多く、喜ばしいことです。レタリングまでは徹底していませんが。
紙ジャケットCDによる復刻の際に複製禁止云々のCD規定文を加えただけで非難殺到のロック界。ジャズ界では過去の名盤に別テイクや未発表曲を安易に追加することにも批判が出ています。クラシックの場合、ある程度のカプリング替えは仕方ありませんが、せめてアルバムの「顔」だけは大事にしてほしいものです。
(2006年4月5日、An die MusikクラシックCD試聴記)