コンセルトヘボウ管の珍録音を聴く
(文:伊東)
ブラームス
交響曲第1番ハ短調 作品68
録音:1980年2月29日、アムステルダム
メンデルスゾーン
交響曲第4番イ長調 作品90「イタリア」
録音:1979年11月17日、アムステルダム
コンドラシン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管
PHILIPS(国内盤 PHCP-9242)ライブとはいえ、PHILIPSはよくこんな変わった演奏を発売してくれたものだ。問題はブラームである。このブラームス、第1楽章冒頭から威風堂々、さらに熱血の演奏を繰り広げているのに、最後の最後、土壇場で聴衆の度肝を抜くのである。それもあまり嬉しくないやり方で。
コンドラシンは第4楽章も最後の最後、Piu Allegroで木管楽器と弦楽器によってフォルテッシモでリズムを刻みつつ、最大の山場を築きにかかるのだが、その山場、407小節から始まる金管全体によるファンファーレを突如p(ピアノ)にしてしまうのである。要は、最高の山場でハズシテくれるのである。この演奏が全くの正攻法を貫き通し、作為的な個所などなく、ひたすら熱いブラームスを聴かせるのに。もちろん、はずした2小節が過ぎると、コンドラシンは一気呵成に音楽を怒濤のように終結させる。が、その直前のはずし方が異常なので、素直に喜べない。何か悪いものでも観てしまったようなばつの悪い思いをする。ショックである。
一体どういうことなのか、理解に苦しんだ私は、普段はまず見ることもないスコアをめくって件の場所を探してみた。よもやブラームスがそのような書き方をしていたのかと不安に襲われたからである。しかし、スコアを眺めても、407小節からはフォルテッシモで音楽が奏でられるようにしか書いていない。楽譜の読み方次第ではあのような解釈が可能なのだろうか? 私のような素人ではもはや窺い知れない。
それでも終演後は聴衆からの熱狂的な拍手が送られる。ライブではこのようなはずし方も許されるのだろうか? あるいは音楽全体のあまりの盛り上がりに、その程度のことは気にもとめられないのであろうか? 私は最初ショックのあまり呆然となり、さらに、聴き返したときは、おかしくてお腹がよじれそうになった。全く人を馬鹿にしたような演奏である。
そのような演奏はいくらコンセルトヘボウ管でも即興ではできないと思う。なにしろ、舞台にいる金管楽器、すなわち、ホルン、トランペット、トロンボーン全員が突然はずすのである。指揮者はリハーサルの際にきっちり指示を出しておいたはずだ。コンセルトヘボウ管の団員からは不平不満が出なかったのだろうか? 謎が謎を呼ぶ不思議な録音である。
ただし、最後のファンファーレ以外は実に見事な演奏で、熱血漢コンドラシンの面目躍如たる録音である。冒頭、ティンパニの皮の音が地を這ってくるような激しい響きで開始されるが、楽音が実に良く調和している。ライブでありながら、アンサンブルの精度もすばらしい。唯一不満なのは、第4楽章、ホルンが情熱的にアルプスの調べを奏でるところである(Piu Andante、30小節以降)。この部分のホルンはどういうわけか金属的な音がする。何故だろうか? 第3楽章まで、ホルンセクションが金属的な音を出すことはなかった。それが、こともあろうにあの情熱的なアルペンホルンの響きが聴かれるべき個所で金属的になるのである。もしかしたらここにも仕掛けがあったのかもしれない。そうだとしたらコンドラシンはとんでもない天の邪鬼男だ。これは皆様のご意見を伺いたい。
なお、カップリングされているメンデルスゾーンは、このショッキングなブラームスに比べると、いたって穏和である。この破天荒なブラームスに比べてはいけないと分かってはいるが。
音楽雑誌MOSTLY CLASSIC 10月号に野口悠紀雄先生のエッセイが掲載されている。経済学者の野口先生は大のクラシック音楽ファンで、私は先生が方々で書いたクラシック音楽の話にかねてから注目していた。今回のエッセイは特にしっかりまとまったもので大変面白かった。
そのエッセイの中に、「ドイツ音楽はドイツ語」という気になる一節がある。中途半端な引用の仕方をすると野口先生からお叱りを受けてしまいそうだが、先生は以下のように書いておられる。
...ブラームスは、第1交響曲の最終楽章の序奏部分に現れるホルンの主題に「Hoch auf'm Berg, tief im Tal, gruess ich dich viel tausend Mal!=山の上高く、谷深く、御身に何千回もの挨拶を送る」と書いている。聞いてみればすぐに分かるように、これらは音楽と一体なのだ。
私は、ドイツ語がきわめて音楽的で美しい言語であると思う。そして、いくら勉強してもドイツ人のようには操ることができないもどかしさを感じる。ドイツ音楽について感じる疎外感がこれと密接に結びついているのは間違いない。MOSTLY CLASSIC 2001年10月号 p.42
第4楽章のホルン主題は、ブラームスがクララ・シューマンに送った、音楽によるラブレターと言われている。私はブラームスが交響曲の中で書いた最も美しいフレーズだと思う。あのホルンによる朗々としたフレーズは、このドイツ語の響きに見事に合致している。このブラームスによるドイツ語を口にしてみると、その響きは大変リズミカルで、既にひとつの音楽と化していると私も思う。ブラームスの天才ぶりが発揮された部分である。ここぞというふうに登場するホルンの旋律は、やがてフルートに受け渡され、これも朗々と響き渡るのだが、情熱を込めて(sempre e passionato)響くホルンの音色は、第1交響曲の大きな聴き所のはずだ。だからこそ、ブラームスの書き記した言葉が彷彿とされる演奏が聴き手を感動させるのだろう。
それにしてもドイツ語の響きの何と美しいことか。私は時々、「ドイツ語は馬の言葉だ」などとドイツ語を蔑む声を耳にするが、そういう人に対して私は、「ドイツ語をドイツ人がしゃべるのを聞いたことがあるのだろうか」と疑問に思っている。ドイツ人がしゃべるドイツ語はとても美しい。仮にバイエルンの訛があったとしても、その抑揚やリズムはすばらしい。野口先生が「音楽的」と表現されたのも私は頷ける。
ところで、このブラームスの言葉は、通常スコアに書き記されているものなのだろうか? 私が持っている音楽之友社のポケットスコアにはその記述は見あたらない。門馬直美さんによる日本語解説にあるだけだ。残念ながらドイツ語の原文は載っていない。私は野口先生のエッセイを通じて、この部分の原文を初めて読んだ。音楽の理解にはやはり原文に当たることが欠かせないのだろう。学者らしいアプローチではあるが、さすが、とど素人の私は感心してしまった。
(An die MusikクラシックCD試聴記)