ハイティンク指揮の「ドン・ファン」を聴く 前編
(文:青木さん)
リヒャルト・シュトラウス
交響詩「ドン・ファン」作品20
ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1982年12月13日、コンセルトヘボウ、アムステルダム
フィリップス(国内盤 日本フォノグラム 32CD47)■ R.シュトラウスのオーケストラ曲について
クラシック音楽の愛好家の中には、R.シュトラウスのオーケストラ曲を好まない人も少なくないようです。ワタシは大好きなのですが、敬遠される理由も想像はできます。例えば、シュトラウスと同じ時代に、同じように大編成オーケストラの曲をたくさん作曲し指揮者としても活躍したマーラーと比較してみましょう。
マーラーといえば「世紀末ウィーンの頽廃と浪漫」とか「ユダヤ人としての苦悩や情念」といった要素が、楽曲自体やその成り立ち、あるいは本人の生涯に幅と奥行きのある豊かな背景を与え、それが多様な演奏スタイルにもつながって、聴き手は様々な「取っ掛かり」「思い入れ」を得られます。それに対してシュトラウスにはそのようなエモーショナルな側面が乏しく、楽曲は「技巧を凝らした職人の作品」みたいな形でクールに突き放されている印象があります。しかもそれが派手めの標題音楽ばかり(交響曲と名の付くものでさえ!)ときては、「空疎で内容がなくやかましいだけ」「外面的に過ぎ精神性に欠ける」「通俗的で格が低い」となってしまうのでしょう。
ワタシは必ずしもそうは思わないのですが、百万歩譲って仮にそうだとしても、それとは別の側面を楽しめばいいのです。個人的には「(1)オーケストラの演奏・音響」と「(2)楽曲の構成・展開」とを堪能するための音楽として、この上なく愛好しております。これに「声楽」と「演劇」の要素を加えれば、歌劇・楽劇の楽しみ方に似ているかもしれません。
■ (1) オーケストラの演奏・音響
シュトラウスの管弦楽曲は、オーケストラのダイナミックでカラフルなサウンド、ソロやアンサンブルの名人芸・機能美を楽しむのにもってこいで、そういった観点からは一般にカラヤン指揮ベルリン・フィルの録音が、名盤ガイドの類いで必ず挙げられることはご存知の通り。カラヤンが苦手なワタシの場合はライナー、ショルティ、バレンボイムらによるシカゴ響のCDがそれに該当します。あるいは迫力や技巧とは別の、オーケストラの個性や合奏美を味わうのにもふさわしく、代表的なものはもちろんベーム、ケンペ、ブロムシュテット、シノーポリらによるシュターツカペレ・ドレスデンの録音でしょう。プレヴィンや昔のカラヤンらによるウィーン・フィルの録音も、これに該当するかもしれません。
ここで、コンセルトヘボウ管弦楽団の立ち位置は、やや微妙です。「英雄の生涯」がメンゲルベルクとコンセルトヘボウ管に献呈されたという歴史的事実により、シュトラウスの曲はヘボウの主要レパートリーのように認識されているような感もあるのですが、個人的には正直あまり相性がよくないような気もしないではありません。これはホールの音響やフィリップスの録音の個性とも関係があり、サウンドの重厚さと残響の豊かさが、大編成で複雑なオーケストレーションとスピーディーな展開を再現するのに必要な「ある種のシャープさ」に対してはマイナスに働く面があるように思われるのです。同じ大編成でもこれがマーラーであれば、曲そのものの時間的な展開がずっとゆったりしていますので、決してマイナスにはなりません。ところがシュトラウスの曲は、凄いスピードでめくるめくように展開していくのです。
■ (2) 楽曲の構成・展開
シュトラウスの標題音楽は、漫然と聴いていたのではたしかに訳のわからない部分もあります。しかし詳しい解説書を参照して場面展開と対比させながら聴けば、その標題性と楽曲の形式がすんなりと理解でき、たちまち面白くなってきます。交響詩の創始者リストとは違い、シュトラウスの交響詩の場合は大部分が既存の形式に則って構成されていることが特徴です。
今回採りあげる「ドン・ファン」は、ソナタ形式という古典的形式の最たるものがベースになっており、その中にロンド形式的なものが組み込まれているとのこと。標題性に関しては、「ティル」「ドン・キホーテ」「アルプス」のような物語風のテキストではなく、詩の断片をベースにしてドン・ファンという人物の心理や思想という抽象的な素材を扱っているため、あまり分かりやすいとはいえません。その点では「ツァラトゥストラ」に似ていますが、ツァラの場合CDのトラック番号によって展開を把握しやすいのに対して、「ドン・ファン」は全曲に1トラックが割り当てられているCDばかりです。ブロムシュテットとカペレのDENON盤には17パートの詳細なインデックスが付いているものの、インデックス機能が省略された最近のCDプレーヤーではそれも無意味。
では、そのあたりにも触れつつ、ハイティンク指揮のCDを聴いていきます。テキストは『作曲家別名曲解説ライブラリー R.シュトラウス』(音楽之友社,1993)です。詳細な楽曲解説の中には主な主題の譜例が付いているので分かりやすく、たいへん便利なシリーズです。前記のような理由で、このシュトラウス篇は必携の一冊と言えましょう。そんな聴き方は面倒かもしれませんが、オペラのCDを歌詞対訳を読みながら聴くことを考えれば、大差ありません。
■ 構成に沿ったハイティンク盤の感想
(番号はブロムシュテット盤のインデックスに合わせてあります)
○提示部
1)〔悦楽の嵐〕のモチーフ(0:00〜)
いきなり豊饒な音響の洪水で始まります。この演奏はたっぷりとした豊かな響きで、余計な力みがないのはいいのですが、冒頭の「掴み」としては少々弱いかも。
2)〔女性的なるものの広大なる魔の国〕のモチーフ(0:06〜)
最後に鳴るティンパニの「ダダダダ!」は、通常のマレットではなく木のバチで叩かせているために激しく硬い音となります。この録音では右寄りに配置されるティンパニですが、残響のせいでその硬さが和らげられていて、好みの分かれるところではあります。
3)〔ドン・ファン〕第1主題(0:11〜)
弦に大きく出る主題。演奏は堂々としていますが、ちょっと重めです。
4)〔女性〕のモチーフ〜ドン・ファンの主題
5)〔誘惑〕のモチーフ(1:15〜)〜ドン・ファンの主題木管。
6)〔女性〕の新モチーフ(1:48〜)
独奏ヴァイオリン。左右いっぱいに拡がる音場の中で、コンマスの位置にピタッと定位します。ここまでの2分弱の間に、モチーフが6つも出てきました。
7)〔女性〕第1主題(2:25〜)
これはソナタ形式上の第2主題で、これまでの慌しさとは打ってかわって、ここからゆったりと盛り上がっていきます。「女性」とあるものの、これはドン・ファンが女性=美にひざまずく姿だそうです。立体的な響きが素晴らしく、ここは聴き応えがあります。
8) 〔悦楽の嵐〕のモチーフ(4:25〜)
冒頭の動機がチェロに出ますが、激しい力に負けてしまいます。このあたりは、オーケストラの重量感が効果を発揮しています。
○展開部
9)〔ドン・ファン〕第1主題(4:51〜)
ここからが展開部で、ドン・ファンがまた女性の魔の国をさまよう場面です。
10)〔女性〕第2主題(5:30〜)
ヴィオラとチェロによるこの主題は、新たな女性を見つけたドン・ファンの求愛であり、これに抵抗する女性を表すものは5:40からのフルートのモチーフです。しつこく言い寄るドン・ファンがホルンやトランペットの金管だとすれば、もう少し強さ鋭さの欲しいところですが、金管のサウンドが柔らかく溶け合ってしまうのがコンセルトヘボウ・サウンドの特徴なので、仕方ありません。
11)〔女性〕第3主題(6:42〜)
次の女性はオーボエです。木管の美しさは、この演奏の美点の一つでしょう。ここからは、展開部の中の「第一挿入部」になるとのこと。先ほどの求愛の第2主題も出てきて、ドン・ファンの攻略が続きます。しかし・・・
12)〔ドン・ファン〕第2主題(9:51〜)
ホルンによる威圧的な旋律は、すべてを否定するドン・ファンの尊大さを表しているとのこと。この録音は、音色は魅力的なものの歌わせ方が滑らかすぎるようで、もう少し荒々しい力強さが欲しいところです。
13)〔謝肉祭〕(10:43〜)
ここからは「第二挿入部」で、賑やかな謝肉祭の場面。ここでもドン・ファンは美を探し求めるのです。別の女性を表すというグロッケンシュピールの音色が、不自然でない音量と定位で鮮やかに浮かび上がります。11:36から金管に〔ドン・ファン〕第2主題が出ますが、なんだかぶっきらぼうな調子なのが気になります。
14)かつての恋人のまぼろし(12:37〜)
〔女性〕第3主題と〔ドン・ファン〕第2主題が、形を変えて再現されます。ついにドン・ファンは女性に巡り会えたのか、それは幻だったのか。
○再現部
15)〔悦楽の嵐〕のモチーフ(13:22〜)
16)〔ドン・ファン〕第2主題(14:34〜)冒頭のモチーフに戻って、再現部です。魔の国のモチーフからドン・ファンの第1主題までが再現されますが、ソナタ形式上の第2主題(女性の第1主題)は再現されないまま、ドン・ファンの第2主題が高らかに響きます。やはりこのあたりは、演奏も音響も重心が少し低すぎる感が。これが対位法的に展開していき、第1主題に戻りますが・・・
17)コーダ(16:24〜17:26)
突然失速して暗く寂しい雰囲気となり、曲は終ります。美の追究が無駄に終ったことを知ったドン・ファンの死を暗示しているのでしょう。しかしテキスト(レーナウの詩)ではそれを後悔しない人物としてドン・ファンが描かれています。これは重要で、そこをおろそかにすると単に「女を口説いてばかりいたスケベ野郎の最期」で終わってしまうのです。しかし1分間でその無情感を表現するのは難しく、このハイティンク盤はそうでもありませんでしたが、後で聴き比べた他のCDの中には取って付けたような違和感あるエンディングになっているものもありました。
○まとめ
時系列的ではなく観念的なストーリーにソナタ形式を当て嵌めるのはピッタリだと、改めて感じました。「英雄の生涯」も一応ソナタ形式だそうですが、そちらはかなりフリーな構成であることからしても、「ドン・ファン」の形式感は明確です。
そしてハイティンクのCDですが、オーケストラの音色や音響の素晴らしさを、この曲のテーマを表現することに活かしきれていないといわざるを得ません。音と曲の相性がもともと良くない部分があるだけでなく、このようなテーマを持つ曲の場合は彼の生真面目さが裏目に出てしまうような気がします。しかし考えてみればハイティンクという指揮者は、長大な作品をしっかりしたバランス感でもって構築することに長けている反面、このような短い曲を巧みな語り口で要領よく面白く聴かせるというタイプではないようです。
もっとも、表題性をあまり気にしないのであれば、もの凄いオーケストラ・サウンドを存分に楽しめるCDだといえるでしょう。表題性を無視してもソナタ形式の構成感は把握できるわけですから。音の密度がぎっしりと高く、独特の色彩感と重量感に満ち溢れた、素晴らしい「コンセルトヘボウ・サウンド」の嵐に圧倒されます。
この音源は、2005年6月22日に国内盤「フィリップス・スーパー・ベスト100」シリーズで再発売されるようです。オリジナル盤の「死と変容」が1973年録音の「ツァラ」に差し替えられ、「ティル」を含めた3曲のカプリングで、税込み1,000円の廉価盤。お買い得です。
(2005年6月9日、An die MusikクラシックCD試聴記)