クーベリックの1991年ライブ

管理人:稲庭さん

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CDジャケット

モーツァルト
交響曲第38番「プラハ」
ドヴォルザーク
交響曲第9番「新世界より」
クーベリック指揮チェコ・フィル
録音:1991年10月、スメタナ・ホール(ライブ録音)
DENON(国内盤COCO-70408)

参考DVD
同演奏会の模様を収めたもの
DENON(国内盤COBO 4326)

 

 はじめに

 

 今月(2004年6月)は、なぜかチェコ・フィルのDVDが色々と発売されたり、再発売されたりする月です。以前は1枚6,000円以上していて、全く手の出なかった、クーベリックとチェコ・フィルの1991年のライブのDVDが3,000円以下になっていたので購入してみました。曲目は上記のCDの収録曲+モーツァルト「ピアノ協奏曲25番」(ピアノ:フィルクシュニー)です。さらに、DVDには本番の演奏だけではなく、リハーサル風景も収録されています。そして、私はこちらから見始めました。

 

 これまでの感想

 

 以前からこの演奏はCDで聴いていてはいたのですが、よく分からなかったのです。「プラハ」は、堂々たる序奏が始まり、そのままそういうアプローチなのかと思いきや、主部に入ると古楽器も真っ青の超快速です。「新世界より」はチェコ・フィルの十八番のはずなのに、何だか落ち着かない演奏をしているな、といった感想くらいしか思い浮かばなかったというのが正直なところでした。

 

■ 映像の効用?

 

 DVDの映像を見て、CDの演奏で何が起こっているのかようやくわかるというのは恥ずかしい限りなのですが、私は、このDVDのリハーサル風景を見てようやく分かったような気に、少なくとも今は、なっています。そのことを少し書いてみたいと思いパソコンに向かっています。

 

 クーベリックのリハーサル

 

 クーベリックがリハーサルで話した言葉で最も印象的だったものをまず挙げるところからはじめてみたいと思います。それは、「新世界より」の第2楽章の90小節から100小節までのクライマックス(第1楽章の主題が組み合わされる部分)の、とりわけ95小節、すなわち本当のクライマックスの1小節手前でクーベリックが発した言葉です。ここは、次の小節の冒頭に向かってオーケストラ全体がクレッシェンドしていくところなのですが、とりわけトランペットは同じ音型を繰り返しながらこのクレッシェンドを成立させるために重要な役割を担っています。そこでクーベリックはそのトランペットに向かって「それではクライマックスに向かっているのが見え見えだ。そうではなくて、次の小節の冒頭で突然クライマックスが出現するような意外性がほしい」という趣旨の言葉を述べているのです。

 

 これまでのクーベリックのイメージ

 

 私がクーベリックを初めてCDで聞いたのは、彼がバイエルン放送交響楽団と演奏したモーツァルトの交響曲でした。今でもその演奏は、現代楽器の演奏としては屈指の名演であると思っており、私がまず聞きたいモーツァルトなのです。そして、その演奏は内に「熱いも」のを秘めながら、その熱いものを開放的ではありながらしっかりとした構造の中で実現している演奏というイメージがありましたから、上記の一言に私はすっかり驚いてしまいました。

 

■ リハーサル再論

 

 この言葉を聞いて(実際は字幕で見るわけですが)、クーベリックの指揮に注目すると、ようやく、クーベリックという指揮者がいたるところでこの「意外性」を求めていることが分かったような気がします。もちろん、単に意外性のための意外性ではなく、曲を客観的に組み立てた上での意外性なのですが(例えば、「新世界より」の第1楽章のコーダの最初の和音を突然世界が開けたように演奏してほしいと要求していることなどは、その和音が曲の中で占める位置を的確に把握した上での要求でしょう)。

 そして、クーベリックの指揮を見ていると、おそらく驚くべきことに、そういった意外性を一音ごとにとまではいかないまでも、かなり事細かに求めているように思われるのです。例えば、第1楽章の第2主題(91小節)に付されているスフォルツァンドおよびアクセント記号について、クーベリックは執拗にそれをきちんと演奏するように求めるわけですが、これもクーベリックにとっては、そういった意外性の現れのように読めていたのかもしれません。また、全体的に、同一フレーズの中では加速する方向に、フレーズが変わる直前では大きな呼吸を求めているように思われるのが印象的でした。

 

■ チェコ・フィルは?

 

 それでは、チェコ・フィルの方はどうでしょう。正直、クーベリックの棒についていけていない、という感じがします。例えば、リハーサルにおける第4楽章冒頭、シ・ドというのを一通り繰り返した後、4小節目からクーベリックは猛然と前に進みますが、チェコ・フィルの方はそこでハッと目が覚めたように少し遅れて付いていくという感じです。これは、演奏会を収録した方のCDからはそれほど強烈に感じ取れることではないのですが、リハーサルではまさにそういったクーベリックとチェコ・フィルの衝突の場(?)とでもいいたくなるような光景が繰り返し出現します。

 おそらく、本番の演奏についてみれば、こういった点はチェコ・フィルが演奏し慣れている「新世界より」より、「プラハ」の方からよく読み取れるかもしれません。例えば、第1楽章の主部に入ってから、あちらでバイオリンが16分音符をはしょるかと思えば、ファゴットは大慌てで自分のソロを弾き終えたり、クーベリックの指揮についていくのがやっとどころか、クーベリックが何も言わなくてもどんどん速くなる部分が出てきたり、という感じなのです。

 さらに「プラハ」においても、「新世界より」においても、先に述べたようなフレーズ内の加速とフレーズ間での大きな呼吸ということがあまりうまく行っていないようにも思います。というのは、チェコ・フィルの方では、クーベリックの指示の内前半についていくのにやっとで、後半の大きな呼吸という点では対応できていないため、前述のようにどんどん加速されてしまう結果に終わってしまう場合が多いように思われるからです。

 

■ まとめ

 

 というわけで、この演奏会でのチェコ・フィルは、言ってみればクーベリックに振り回されっぱなし、だと思います。それが、上記のように「何だか落ち着かない演奏である」という感想を抱かせる要因だと思います。しかし、もう一方で、今回DVDを見て、この演奏は、聞き方によっては、やはり名演と呼ばれる資格があるかもしれず、それはこの両者の緊張関係から出てきたものである、ということを再認識しました。なぜなら、振り回される側のチェコ・フィルは、クーベリックの指揮に必死についていく中で、いつになく張り詰めた音を出し、意欲的な表現を試みているからです。

 私は、このCDをチェコ・フィルの「名演である」といって強く勧めようと思ったことは今までありませんでしたし、リハーサルを見たことによってその演奏で何が生じているのか少し分かった今でも、「名演である」と言い切るには躊躇するものがあります。また、クーベリックの意図の実現という点からしても、彼がリハーサル中に述べている「響き」という点を別にすれば、彼の手兵であったバイエルン放送交響楽団との演奏の方が数段上ではないかとの思いを新たに抱きました。

 しかし、このCDはある強烈な個性を持った指揮者と、これまた強烈な個性を持った楽団が、お互いにぶつかり合う瞬間を見事に捕らえており、その意味では、貴重な記録であるといえると思います。

 

■ 残った疑問?

 

 それにしても、クーベリックという指揮者はなんという人なのでしょう。先に、私はクーベリックについて「熱いもの」を「構造」の中で実現するというイメージを抱いていると述べましたが、これは、正確に言うと「80年代以降の」クーベリックについてのイメージで、それ以前のクーベリックの演奏は「熱いもの」を直接に突きつけられているような感じがしてあまり好きではない演奏が多いというイメージも同時に持っています(もちろん、この時期のクーベリックが「構造」を看過していたというのではなく、逆にきっちりしているところはしているのですが、その点が「構造」すらも「熱いもの」に規定されているような気がして)。このような変化について、私は勝手に「歳をとって丸くなったのかもしれない」くらいに思っていたのですが、今回DVDを見たことによって、最晩年に至るまでクーベリックは変わってないのでは?と思ってしまいました。

 そうすると不思議なのはバイエルン放送交響楽団とのモーツァルトなど一連の、いわば落ち着いた雰囲気をも持った演奏です。どうしてあのような演奏ができたのでしょう?結局、謎が一つ解決して、新たな謎が出現してしまいました。

 

(2004年6月24日、An die MusikクラシックCD試聴記)