ヴァーレクのスクとヤナーチェク
管理人:稲庭さん
スク
交響詩「プラーガ(プラハ)」
ヤナーチェク
狂詩曲「タラス・ブーリバ」
「シンフォニエッタ」
ウラディミール・ヴァーレク指揮チェコ・フィル
録音:1997年5月、ドヴォルザーク・ホール、ルドルフィヌム
EXTON(国内盤、OVCL-00390)■ はじめに
久しぶりにチェコ・フィルを聞きました。久しぶりにチェコ・フィルの新しいCDをかけたということもありますが、ライナーに木幡氏が書いているように、久しぶりにチェコ・フィルであればこうであってほしいと、個人的に思っているような演奏を聞きました。なぜ今になって12年以上前の録音が新譜として発売されるのかはさておくとして、1997年と言えば、首席指揮者はアシュケナージの時期です。そして、個人的なことで申し訳ないのですが、私がチェコ・フィルに興味を持ち始めたのも、アシュケナージが首席指揮者を務めている時期でした。そういう意味で、この時期の録音には、私が個人的に惚れ込んだチェコ・フィルの音が収録されています。そして、おそらく、そのような音は、ノイマンが首席指揮者を務めていた時代と連続性を有しているのではないかと思っています。
■ 最近のチェコ・フィルを聞いて
2009年の11月にチェコ・フィルの来日公演を聞いてきました。曲目はブルックナーの交響曲第8番、指揮はブロムシュテットでした。チェコ・フィルを生で聞くのは、この時も、この場合は単に時間的な意味で、久しぶりでした。今シーズンからチェコ・フィルの首席指揮者はインバルになるとのことですが、前々シーズンまでは、マーツァルが首席指揮者でした。そして、私がチェコ・フィルのコンサートに以前ほど積極的に行かなくなったのも、録音でこれぞと思うものを見つけられなくなったのも、マーツァルが首席指揮者を務めるようになってからでした。
マーツァルが指揮するコンサートは何度か聞きました。その中では、マーツァルと最初に来日した時の「グラゴル・ミサ」が印象に残っています。マーツァルとの録音もそれなりに聞いてきました。ドヴォルザーク、マーラー、チャイコフスキーが主なところでしょうか。現在は、ブラームスの交響曲を録音しつつあるようですが、私は未聴です。所々で批評を見ると、マーツァルのコンサートや録音はおおむね好意的に受け止められているようです。例えば、マーツァルが録音したマーラーの交響曲第3番はレコードアカデミー賞なる賞をもらったみたいですね。
ところが、私の方は、コンサートに行くたびに、「何かが違う」と思い、録音を聞くたびに「こんなはずではなかった」と感じていました。例えば、先述のマーラーの交響曲第3番の録音を聞いた私は、その直後に、ノイマンの新しいほうの録音を出してきて「口直し」とばかりに聞き直しました。その結果、単に好みの問題だけではなく、例えば、第6楽章の最後の盛り上がりの直前の金管楽器のコラールなど、どう聞いても、マーツァルの方が優れているようには思えない、という結論しか出てきませんでした。「期待が大きすぎるからそうなるのではないか」とか「こちらの聞き方がどこかで変わってしまっているのではないか、チェコ・フィル自体は変わっていないのかも」などと考えようとはしてきたのですが、そう言い聞かせたところで、事実が変わるわけではありません。
■ ヴァーレクの録音の私にとって意味
今回のヴァーレクの録音はその事実をとても分かりやすい形で示してくれたように思います。チェコ・フィルは、考えてみれば実にあたりまえのことなのですが、変化する。その変化が私の好みと一致しないものだとしても。
以前から親しんでいる録音(例えば、以前に取り上げたノイマンのマーラーの交響曲第1番など)と、マーツァルの録音を比較して、違うということは分かってはいたのですが、「もしかすると、親しんでいる録音には思い入れが強すぎるのかもしれない」と考えないこともありませんでした。しかし、今回のヴァーレクの録音は初めて耳にするものです。しかも、マーツァルの一連の録音と多少時期がずれるとはいえ、録音しているスタッフも基本的には同じ人、録音している場所も同じなのですから、チェコ・フィルが変わったということを、私に対してこれ以上明瞭に示してくれる材料も他にはありそうにありません。
■ チェコ・フィルの変化
首席指揮者がマーツァルからインバルに変わったので、マーツァルの時代のチェコ・フィルがどう変化したのか、私の考えるところを少しだけ述べてみたいと思います。それは、私がチェコ・フィルに何を期待していたのかということと切っても切れないことなのですが。
まず、マーツァルの時代のコンサートや録音から、ここは改善されたという点を一つ上げるとすれば、安定性です。アシュケナージの時代のチェコ・フィルは出来不出来の差が激しすぎました。それに対して、いくつかのコンサートと録音で聴く限り、マーツァルのものは、好みの問題を除けば、基本的に「大外れ」はないように思います。
それでは、私の好みではない方向への変化とは何か。それは、改善点と表裏一体なのですが、「大当たり」がなくなったという点です。「大当たり」とは、よい意味で、チェコ・フィル以外のオーケストラでは実現不可能であると感じさせる演奏のことです。もちろん、今のチェコ・フィルもチェコ・フィル以外の何物でもないわけですから、チェコ・フィルでなければできない演奏をします。しかし、考えた結果「確かにこの演奏はチェコ・フィルならではの演奏だ」という結論に到達するような演奏と、聞き始めた途端に「ああ、チェコ・フィルだ」と、これまたよい意味での、ため息をつきたくなる演奏とでは、「当たり」の度合いが違います。そして、後者がなくなったというのが私の正直な感想です。どうでもよい例えをすれば、昔のチェコ・フィルは打率1割だけれども、打てばホームランみたいなオーケストラだったように思うのですが、今のチェコ・フィルは打率は3割だけれども、打っても全部シングルヒットみたいなオーケストラになったと感じられる、と言えばよいのでしょうか。
仮にこれが当たっているとして、「打率1割+ホームラン」と「打率3割+シングルヒット」のどちらがよいかはなかなか難しい問題です。人がコンサートに足を運ぶ時、録音を聴くとき、一定程度の水準であればよいと考えるのか、それとも、とびぬけたもののみを期待するのか、どちらもあり得ます。しかし、今回ヴァーレクの録音を聞いていて、「久しぶりにチェコ・フィルを聞いた」と思うのは、サンプル数が1なわけですから、打率が理由でないことは当然です。先にも触れた木幡氏は、このヴァーレクの録音に聞くことのできるチェコ・フィルの「サウンド」が、現在のものとは異なるとしつつ、その原因を世代交代、特に有名な管楽器の首席奏者たち(ケイマル、ティルシャルが有名ですね)の世代交代に負うところが大きいとしています。しかし、弦楽器弾きである私はどうしても弦楽器に耳がいってしまいます。原因は何であれ、弦楽器の音色も随分と変わったと思います。
先にも書きましたように、こういう「サウンド」はノイマン時代から連続していると私は考えています。マーツァルは首席指揮者に就任した当初から、アンチェル時代のチェコ・フィルの響きが本来のチェコ・フィルの響きで、それを取り戻したい、ということを述べていました。このような指揮者を迎えれば、「サウンド」が変化するのは当然なのかもしれません。それが、アンチェル時代のものとどの程度似ているのかはともかくとしても。
しかし、打率が上がったとか、「サウンド」が変化したとかいうこと以上にと言いますか、それより少し次元の違うところで大きく変わったと感じることがあります。とはいっても、「感じる」だけで、何が原因でそう感じるのかは私にはわかりません。しかし、変わったと感じることを言葉にすれば次のようになると思います。いま私の脇で流れているヴァーレクの録音が旧世代のものだとすれば、この時代の録音には、オーケストラは各パートの組み合わせではなく、主体はオーケストラであって各パート・個人はオーケストラの一部に過ぎないということを感じさせる何かがあります。それに対して、マーツァルの時代の録音は、主体は各パート・個人であってそれを組み合わせればオーケストラになるし、音楽も各部分の組み合わせであって、分解・分析したものを組み合わせれば音楽になる、と感じさせる何かがあります。
用語法が時代錯誤であり、ちょっと危険な香りがすると感じられても仕方がないことを承知で言えば、オーケストラは一つの「有機体」であるのが理想である、という発想が私にはあるのだと思います。そして、かつてのチェコ・フィルはそれを強く感じさせてくれたのだろうと思います。そういうことを感じさせてくれた時代に録音されたヴァーレクの演奏を聞いて、片方で「やはりチェコ・フィルは素晴らしい」と思いながら、片方で「しかしそれは今のチェコ・フィルではないのだ」と感じることは、嬉しいことなのか、悲しいことなのか、今ひとつ自分でもよく分かりません。
■ おわりに
チェコ・フィルは変わりました。今のところ、私にはそうとしか感じられません。そして、今後、立て続けに10年以上前の録音が発売されるなどという事態が生じることは想像ができませんので、変わったことに不満を漏らしても仕方がないのだろうと思います。とすれば、今後私にとって、チェコ・フィルが何であるのか、単にヨーロッパにいくつかある上手なオーケストラの一つになるのか、チェコ・フィルのままでいるのか、を考える必要があると思うのですが、それにはもう少し時間がかかりそうな気がします。
■ おわったあとに
このCDでヴァーレクがどういう演奏をしているかについてあまり述べていないことに今気がつきました。最初に述べたとおり、この演奏は「チェコ・フィルであればこうあってほしい」という演奏であると私は感じています。音色も、音楽の進め方も。ただ、スクの曲はともかく、ヤナーチェクの曲は有名な作品ですから、他に録音もたくさんあります。以前「グラゴル・ミサ」について少し書かせていただいた際に、ヤナーチェクは苦手だと申し上げましたが、それはいまでも基本的に変わっていません。この演奏は、そういう私でも一気に聞くことのできる演奏、音楽の流れが自然でよく歌う演奏であると感じました。逆に言えば、ヤナーチェクにはそういった解釈ではなく、より厳格でアカデミックな解釈がふさわしい、と考える方がおられても不思議ではない演奏、ということにもなるのかもしれません。ヤナーチェクが苦手な私は、こういう演奏の方が好きなので、何の不満もありません。
2010年3月8日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記