「私のモーツァルト」
グレン・グールドのピアノソナタ全集へのオマージュ

文:松本武巳さん

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CDジャケット

モーツァルト
ピアノソナタ全18曲
幻想曲 ニ短調 K.397
幻想曲 ハ短調 K.475
SONY(輸入盤 SM4K 52 627)

 

■ はじめに

 

 グレン・グールドのモーツァルト全集は、数多い全集の中で、ひと際異彩を放ってはいるものの、実は彼の残したバッハの選集に対するような賛辞を、残念ではあるが得られていない。また、全集全体を鳥瞰した評論すら数少ないのが現状である。それは、多分バッハの音楽の多様性の証明の例示として使われることの多い、彼の多くのバッハのディスクに比して、彼のモーツァルトのソナタ全集は、いまだに評価自体が定まっていないうえに、彼の全集の方向性の時点で、すでに大きく評価が割れてしまったからかも知れない。ここで彼のソナタ全集録音に対して、私が取り上げようと思い立ったのも、そんなに特異な分析をしようとしたのでも、反対に彼のモーツァルト録音に全面的な賛辞を表明しようとしたのでもない。むしろ軽い気持ちで、グールドの世界を若干でも整理できたら良いな、と考えたに過ぎないことをあらかじめお断りしておきたいと思う。

 

■ まず指摘しておくべきこと

 

 18曲あるソナタ全集のCDでの枚数である。4枚で全集となっているのは、意外に数少なく、グールドの他には、ギーゼキングとクラウスの旧盤などが代表例であろう。一方で、ピリスの新盤(DG)は6枚、チッコリーニがディスカバー・レーベル(消滅)に残した全集も5枚で収まらず、1曲だけ別のCDに収められていた。内田光子のように、初めのオリジナル盤では7枚を擁したものまである(後に5枚にまとめられた)。ところが、グールドで驚くべきことは、実は2曲の幻想曲を除くと、何と全集が3枚に収まる事実である(計230分程度)。すなわち、ギーゼキングとクラウスは、時代背景等もあって、繰り返しの省略が多々あるために4枚で収まっているのだが、グールドは実質3枚で全集になるのである。

 

■ 異様に早いテンポ設定が主流の全集

 

 グールドは、ごく一部の楽曲や楽章を除いて、極めて快速なテンポで貫かれた演奏スタイルを取っているが、有名なK.331のみ、冒頭から極端にテンポが遅いのである、と言うよりも冒頭のあまりのテンポの遅さで、まずは驚かされるのである。しかし、トルコ行進曲は第1楽章に比べると普通に近いテンポとなっている。従来このソナタの録音には懐疑的な意見や評論が大勢を占めてきたが、実は私が彼の全集の中で、もっとも早い時期から受け入れることができた演奏が、このK.331の演奏なのであった。そこで、このソナタについて、項を改めて考察したい。

 

■ K.331、トルコ行進曲つきソナタに関して

 

 グールドは、全集を目指して録音を続けていった際に、このソナタも順調に録音を終えたようであるにも関わらず、発売が異様に遅れたのである。どうもグールド自身が発売許可を与えなかったのではなく、レコード会社が発売を躊躇したのが真相であったようである。この曲のレコードが発売された当時、酷評されたのは止むを得なかったのかも知れないが、不思議なことに私は、とても面白いレコードだと捉え、何度も聴きなおしたのである。その背景を説明すると、私は多分小学校6年生であったと思うのだが、このレコードが発売される直前に、とりあえずモーツァルトのソナタの学習を一応終えたばかりであった。しかし、私はモーツァルトが良く理解できなかったために、人前で弾くことを極端に嫌っていた。特に私が嫌った曲が、幻想曲K.397とソナタK.331の2曲であったのだ。もう少し補足すると、この2曲の有名な演奏とされるレコードは、ある一定の傾向があったことは否めない(1970年当時)。K.331のソナタでは、ケンプもバックハウスもクラウスもヘブラーも似たり寄ったりであった。第1楽章の変奏曲に対して性格描写を加えつつ、終楽章のトルコ行進曲は元気に快活に演奏し終えるのである。一方の幻想曲K.397は荘重な出だしを経て、途中から思わせぶりなメランコリックな旋律を歌うのであった。しかし、グールドは違った。特にこの2曲が…

 

■ グールド以後

 

 トルコ行進曲の部分をとてもゆったりと弾いたのは、多分DENONに録音したピリスの旧盤であろう(1974年ころ発売)。この盤は意外に好評であったが、トルコ行進曲のテンポ設定だけは疑問を呈せられた。しかし、ここにいたって私の脳裏には、以前発売になったグールド盤が再びちらつき始めたのである。両者の録音は何かが共通しているし、何かが私の中では、本能的に受け入れやすいこのソナタの演奏であったのだ。その意味を次項で続けて考察してみたい。

 

■ K.331のソナタに対する個人的考察

 

 終楽章の『トルコ行進曲』と呼ばれる音楽は、決して「行進曲」では無い。まずはこの事実を指摘したい。≪ア・ラ・トゥルカ≫とは、あくまでも≪トルコ風に≫なのである。次にこのソナタを、第1楽章「主題と変奏」と第3楽章「トルコ行進曲つき」を並列して考えると、変奏曲の途中から終楽章に飛んだとしても違和感がない場面が多くあることに気付く。とすれば、テンポ設定だけにとどまらず、演奏の方向性自体が第1楽章と終楽章を関連付けて演奏しても決しておかしくはないであろう。そうすると、大胆に、たとえば、第3変奏から終楽章に飛んで連続演奏し、その後第4変奏に戻ったとしても、楽曲として成立すると考えられるのである。そして、グールドの演奏をこのように編集して演奏を聴いてみると、グールドのテンポがもともと第1楽章の第3変奏までと第4変奏以後ではずいぶんと異なっており、極端に遅い第3変奏までに終楽章を続けた後で、第4変奏、第5変奏と聴くと、順に速度が増していく演奏として一貫性がもたらされるのである。驚くべきことであるが、和声上の問題は、この位置に終楽章を挿入してもさして問題がないので、あり得ない議論ではないと考える。

 

■ 幻想曲K.397に関する個人的考察

 

 この曲の演奏は、冒頭の部分の演奏が荘厳な雰囲気を醸し出すことが必要条件であるようになってしまったのは、一体いつの時代からであったのだろうか? この曲でのグールドの取り組みは、確かに異様ではあるし、真似をしようにもとても無理であろう。しかし、分散和音を逆に鳴らしてみたり、いろいろな方策の中から聴き取れることは、少なくとも彼の演奏からは、他の有名なピアニストの誰よりも≪幻想性≫が聴き取れること、そして、この幻想曲がニ短調であることを最も感じ取らせてくれる演奏であることは、ここで指摘しておきたい。この幻想曲へのグールドのアプローチは、私自身若干の抵抗感が現時点でも残っている。しかし、彼が少なくとも2つの方向から見つめると、納得できるこの曲へのアプローチであり、しかもかつて疎かにされていた視点からのアプローチであったことは、忘れてはならないと考える。

 

■ 昨年末の私のコンサートで…

 

 23年ぶりの復帰コンサートの最後は、伊東さんの主題への変奏曲を自作初演したのであったが(伊東さんの当該日記をご参照ください)、実はこのコンサートで、私はモーツァルトの幻想曲とこのソナタを演奏したのである。そしてこのソナタでは、グールドをヒントとして、第1楽章の第4変奏から、終楽章にいきなり飛び、そのまま演奏を終えたのである。この短縮版は私の確信犯であったのだが、残念なことに演奏自体が技巧的に破綻してしまったために、その意図するところが十分に伝わらなかったであろうと思う。また、落ち着いて演奏する機会があれば挑戦してみたいと思っている。

(2006年5月3日記す)

 

(2006年6月12日、An die MusikクラシックCD試聴記)