「私のモーツァルト」
後期ピアノ協奏曲マイセレクション

文:たけうちさん

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■ 私の好きなモーツァルトは?

 

 「モーツァルト」。この余りに普遍的な価値を持つ有名すぎる音楽家について私は何をどう語るべきか迷ってしまいます。その短い生涯に残された珠玉の名曲の全てを、私は知っている訳ではありませんし、この先それら全部を聴き理解する事など到底出来ないでしょう。でも、私はそれで良いと思っています。何故なら人生において、こんなに素晴らしい音楽を聴く楽しみをまだ残しておけるのですから(バッハについても同様の事を言った人がおりましたが)。

 さて、今回伊東さんが「私のモーツァルト」というテーマを掲げられた時、「自分にとって好きなモーツァルトってなんだろう?」「普段最もよく聴いている作品は?」と自問してみました。音楽のあらゆるジャンルに作品を残しているのですから、それは人によって交響曲であったり、「フィガロ」「魔笛」などのオペラであるかもしれません。「モーツァルトを選り好みして聴くなんて!」とおっしゃる方もいるでしょう。

 ではあえて言わせて頂くとすれば、私の場合それは「ピアノ協奏曲」の数々です。私に限らず、ピアノ協奏曲を好きな方は大勢いらっしゃるでしょうし、今回もそれをテーマにした原稿が沢山寄せられる事でしょう。私もこの場をお借りして、私なりの「モーツァルトのピアノ協奏曲」について語らせて頂きたいと思います。

 

■ ピアノ協奏曲の魅力

 

 周知のとおりモーツァルトは生涯に27曲のピアノ協奏曲を作曲しています。初期の作品の中には9番の「ジュノム」や10番台の中にも傑作ありますが、やはり「後期」と呼ばれる20番以降の完成度は傑出しており、実演や録音も多いようです。私も20番以降は、様々なピアニストが演奏したディスクを所有しています。それぞれの曲は皆違った個性を持っており、日毎に「今日は何番にしようかな」と楽しみながら聴いております。

 ところで、普段ピアノソナタを全く演奏しないピアニストでも、こと協奏曲では古今の巨匠、名人の多くが録音を残しています。それは何故なのでしょうか? 私はピアノ演奏については全くの素人なのですが、少なくともプロのピアニストなら、ソナタでも協奏曲でも演奏上のテクニックは何ら問題は無いと思われます。協奏曲に比べてソナタには魅力的な作品が少ないからでしょうか? 逆にソナタは余りにもシンプルに作られているので音楽的に聴かせるのが難しいのでしょうか? そう言えばハイドシェックは「コンチェルトは好んで弾くが、ソナタには全く興味が無い。」 とさえ言っておりました。このあたりのプロのピアニストの見解を、私は是非知りたいのですが...。

 

■ 20番 女王の風格、内田光子

CDジャケット

ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
ピアノ:内田光子
ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団
録音:1985年 ロンドン
フィリップス(国内盤 UCCP-7004)

 後期の1曲目からして大変な名曲です。モーツァルトのピアノ協奏曲で1番最初に好きになったのがこの曲でした。これはピアノ協奏曲の中では短調で書かれた2曲のうちの1つですが、愛好家の中には「モーツァルトにしては厳しすぎるし、暗くて好きになれない」と言う人もいます。しかしモーツァルトだってこんな曲を書きたくなるような心境になる時だってあったのです。正確な事は忘れましたが、映画「アマデウス」の中でモーツァルトがワインをラッパ飲みしながら吹雪の中を行くシーンにこの曲の第1楽章が流れていたと記憶しています。それから映画が終わってのエンドロールでは第2楽章が流れていましたが、それこそ第1楽章の吹雪が去った後の春の訪れのような穏やかな音楽です。が、しばらくすると突然再び嵐のような旋律が展開します。先程までの穏やかさは一体どうしたのだろうと戸惑っていると、雲が晴れてまた春の日差しが戻ってきます。この緩急の激しさは一体? 私はこの第2楽章を聴くたびにモーツァルトが内に秘めた苦悩と狂気を感じずにはいられません。この曲にはベートーヴェンも多大な影響を受けており、後の彼のピアノ協奏曲の原点がここに集約されていたと言っても良いでしょう。

 さて、好きになった当時は、グルダとアバドのレコードを聴きまくっておりましたが、ここでは内田光子さんに御登場頂きたいと思います。内田さんは、今や国際的に認められた堂々たる大家ですが、国内ではこのピアノ協奏曲がシリーズとしてリリースされ出したあたりから認知度が深まったのではないでしょうか。それにしてもこの演奏の素晴らしさ...。モーツァルトが織成す短調のゆらめきを絶妙なニュアンスで表現しています。そしてそれをサポートするテイトの上手さとイギリス室内管弦楽団の美しさも見事です。本当は後期の作品全部について、彼女のディスクを紹介したいほどですが、何しろこの名曲群には他のピアニスト達の名演がひしめいております。とは言えその中においても、この内田光子さんの演奏は紛れも無くトップクラスに位置付けられるものだと私は思います。

 

■ 21番 おなじみの第2楽章はやはりルプ−向き?

CDジャケット

ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467
ピアノ:ラドゥ・ルプ−
ウリ・セガル指揮イギリス室内管弦楽団
録音:1974年 ロンドン
デッカ(国内盤 UCCD-9257)

 この曲の第2楽章は、モーツァルト入門の定番中の定番で、オムニバスアルバムには必ずと言って良いほど収録されています。元々は北欧映画に使われた事もあって、より一般に知られるようになったようです。ただ余りに俗っぽくなってしまったため、一部の音楽通と称される方の中には、「モーツァルトも生活の為、たまにはイージーリスニングも書いた」と揶揄しているようですが、モーツァルト以外の一体誰がこれほどの「イージーリスニング」を書けるのでしょうか?

 この曲も多くのピアニストが録音していますが、ここではあえてラドゥ・ルプ−のディスクを挙げます。

 ルプ−は私が大好きなピアニストですが、残念ながら今の所彼はこれ以外にソナタも含めてモーツァルトの録音を残していないのです(ペライアとの2台のための協奏曲があった位?)。そればかりか最近ルプーの新譜が全くリリースされていません(私の不勉強かもしれませんが、演奏活動の方もどうなっているのでしょうか?)。1970年代には、DECCAから比較的頻繁に新譜がリリースされており、特にその中ではグリーク/シューマンのピアノ協奏曲をカップリングしたレコードが忘れられません(メータと組んだベートーヴェンの協奏曲全集もありましたが、これ等はCD化されて再リリースされないのでしょうか? せめて4番だけでも聴きたいものですが)。

 ルプ−は「千人に一人のリリシスト」と称されているとおり繊細なピアニズムが特徴ですが、これがこの曲の第2楽章のような、傍目から見ても余りにフィットし過ぎて、それこそ「歯が浮くようなイージーリスニング」になるのでは?と要らぬ心配をしてしまいますが、その辺はさすがにルプ−、妙に叙情的に溺れる事も無く、リリシズム溢れるモーツァルトを奏でています(ただ欲をいえば、23番、25番、27番の録音もして欲しいところですが)。

 ここで蛇足ながら、この第2楽章の音楽について私なりの見解を述べさせてもらいます(私は専門に音楽を勉強した訳でもなく、ましてピアノは全く弾けませんのでとんちんかんな意見かもしれませんが、その辺は御了承下さい)。この楽章の演奏は、素人目に見ても技術的には難しくなさそうです。聴いていて「自分にも弾けるかも?」とつい思ってしまいます。但し、音と音の間がかなりあるため、逆にオーケストラと呼吸を合わせるのが難しいのではないでしょうか? まして、オーケストラの伴奏が無い場合を想定してみると、間合いの難しさがよりはっきりすると思います。下手なピアノだとそれこそ「ただのイージーリスニング」になりかねません。モーツァルトの音楽は、必要最小限の音を使い、かつそれら全てが楽譜の上で最も的確な場所に位置付けられています。晩年に至るにつれてのその完成度は、まさに神業と言っても過言ではありません。

 「音楽を奏でる時は、音を出す時より、出さない時の方が難しく大切なのである」

という事を聞いた事があります。特にこの曲のような場合、「モーツァルトの音楽」と「ただのイージーリスニング」との紙一重の所でピアニストは常に勝負しているように思います。まあ、私ごときがこんな事を言ってると、天空のモーツァルトから「そんなに難しく考えなさんな。私は最初からイージーリスニングのつもりで書いたのだから。」と意見されそうですが...。

 

■ 23番 肩の力の抜けたポリーニ、ベーム/ウィーンフィルも極上の美しさ

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ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
CC-1085 廉価盤(原盤はグラモフォン)

 次は23番です。どうしてこうも、素晴らしい曲が次々と創作出来るのでありましょうか。この曲も後期の中では、特に人気が高いので名演が目白押しですが、ポリーニはいかかでしょう? ポリーニのモーツァルトは極めて珍しく、少なくとも独奏曲の録音は存在していないはずだったと記憶しています。確かこの時期のポリーニは、同じくベーム/ウィーンフィルとベートーヴェンの協奏曲全集の録音が進行しており、そのよしみで本録音も企画されたのでしょう(何かの文献で読んだのですが、ポリーニを指名したのはベームだそうです)。

 ポリーニと言えばベートーヴェンやショパンの正確無比なテクニックを駆使した演奏、寸分の狂いもなく構築されたその音楽は、聴いていて息が詰まりそうな事すらあります。しかし、このモーツァルトに限って言えば、いつもの眉間にしわを寄せたポリーニの姿は想像出来ません。もっとも、モーツァルトを演奏するのに、眉間にしわを寄せたって仕方がないのですが、ベーム/ウィーンフィルの例え様もなく美しい伴奏があれば、どんなピアニストだってルンルン気分で演奏してしまうでしょう(ちなみにベームについて、協奏曲の伴奏の上手さが余り語られないのは何故でしょう?)。有余るテクニックを持つポリーニにとって、モーツァルトを演奏するのに技術的な問題が無いのは言うまでもないですし、彼自身、モーツァルトはテクニックでどうこう出来る音楽ではない事は百も承知のはずです。逆に、「ポリーニ = 完全主義」というある意味ダーティーなイメージを払拭するのをこの演奏では意識していたと思われます。「上手くなり過ぎないように」とむしろテクニックを抑えるために、時としてやや慎重になっているポリーニが垣間見え、「ポリーニにもこんな事があるんだ」と妙に安心(?)したと同時に、あらゆる演奏家を掌で包み込む、モーツァルトの懐の深さを改めて認識した次第であります。ポリーニにしても然り、先に述べたとおり、普段モーツァルトを演奏しないピアニストが、協奏曲ならこぞって演奏するのはやはり興味があります。

 

■ 25番 曲の素晴らしさを教えてくれたグルダに感謝

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ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503
ピアノ:フリードリヒ・グルダ
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975年 ウィーン
グラモフォン(国内盤 UCCG-3329)
 

 本当はこのディスクは、27番をお目当てにして買ったのですが、少なくとも私には、グルダとアバドの演奏が今いちピンと来なかったのです。このコンビではこれより前に、20番/21番の素晴らしいレコードがあり、それを夢中になって聴いていた事もあって期待していたのですが...。それでカップリングされていた25番を聴いてみたところ、何とその魅力に参ってしまいました。それまで、後期のピアノ協奏曲では25番は全然と言っていいほど聴いていなかったのですが、こんなに素敵な曲だったとは!もっともモーツァルトの書いた曲なのですから、始めから素晴らしいはずであり、その事に気づかなかった私はまだまだ勉強不足です。特に第1楽章は、軽やかさと哀愁が交互に織成すモーツァルト節が満開で、それを奏でるグルダのピアノの素晴らしさも特筆すべきものです。私は27番よりこちらのグルダの方がずっと好きです。彼がこの曲の演奏を残してくれて本当に良かったと思います。

 

■ 26番 ボーイッシュなピリスのモーツァルト

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ピアノ協奏曲第26番 ニ長調 K.537「戴冠式」
ピアノ:マリア・ジョアン・ピリス
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1990年 ザルツブルグ(ライヴ録音)
グラモフォン(国内盤 UCCG-7041) 

 少し前ですが、NHKの教育TVでモーツァルトの協奏曲を弾くピリスを拝聴した事があります。何番かは忘れましたが、そのエレガントでかつ実直な表現にとても好感を持ちました。ピリスは若い時からモーツァルトを盛んに演奏しており、それは高い評価を得ています。一時代前のモーツァルトを得意とする女性ピアニストは、ヘブラー、クラウス(ハスキルは別格か?)に代表されるように、「女性らしさ = 華麗さ、流麗さ」で画一的にイメージされていたようです。勿論、ピリスは現在の第一線のピアニストですから、先の二人とは同列には論じられませんが、それは別としても彼女のピアノには何処となく男性的な一面もあります。若い頃からのショートカットのヘアースタイルを見慣れているせいではありません。音楽について何をもって「女性らしさ」「男性らしさ」と定義するのは難しいですし、全く意味の無い事かもしれませんが、少なくとも彼女の演奏は、単に音だけを如何にもモーツァルトらしく響かせるだけではなく、時としてベートーヴェンやブラームスのようにアプローチする事があります。今や「モーツァルト = 女性的」「ベートーヴェン = 男性的」等という解釈は時代錯誤も甚だしいですし、このピリスにしても内田光子さんにしても、モーツァルトに対して独自の境地をどんどん切開いているのですから、音楽の世界において、男女の区別は無くて、優れた演奏家とそうでない演奏家がいるだけですね。しかし素顔の彼女は飾り気が無くナチュラルな人柄です。そんな彼女を見ていると容貌が似ているため、ジュリー・アンドリュースとだぶらせてしまいます。ジュリー・アンドリュースも大女優でありながら、親しみやすい人柄と気品を兼ね備えていますね。この戴冠式協奏曲は、アバドのややせかせかした伴奏は余り好きにはなりませんが、ピリスならでは「ボーイッシュなモーツァルト」で全曲を弾ききっています。演奏後の聴衆の暖かい拍手も好感が持てます。

 

■ 27番 永遠の名演、カーゾン/ブリテン

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ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:クリフォード・カーゾン
ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団
録音:1970年 スネイプ
デッカ(国外盤 476 7092) 

 さて、いよいよ最後の27番です。はたしてこの曲は単に名曲と言って良いものでしょうか? いや、名曲である事には間違いないのですが、モーツァルトのピアノ協奏曲においては特別な存在であると思います。上手くは言えないのですが、この曲も含めて彼の最晩年に作曲された作品は、生涯の終りに到達した境地、ある意味音楽である事を超えてしまったところに生まれたものであると私には思えます。先程、モーツァルトの音楽は全く無駄がないと申しましたが、ことこの27番のピアノ協奏曲においては、それが極限まで推し進められています。やや大げさな表現を許して頂くとすれば、殆んど音が無くなる直前まで達しています。この透明な境地の先に、モーツァルトは何を見、聴いたのでしょうか?

 さてこれほどの曲ですから、多くのピアニストが名演を残しています。私はこの曲だけでも、数種類のディスクを所有しており日によって聴き分けておりますが、その中であえて一枚挙げるとすれば、カーゾン/ブリテンの演奏です。

 カーゾンはピアノ界きっての録音嫌いで有名でしたが、それもこの演奏を聴くと分かるような気がします。曰く

「これは繰返し聴くようなものではありませんぞ...。」

と諭されているようです。つまり、繰返し聴く事によってつい耳が慣れてしまうのが惜しい程の名曲、名演なのです。こんな事書くと「何ともったいぶった」と言われそうですが。しかし、私は本当にこの曲が好きです。そしてカーゾンに限らず、全てのピアニストの演奏が好きなのですから。

 

■ 最後に

 

 以上、思わず長々と書いてしまいました。それにしても、ピアノ協奏曲という1ジャンルだけでもこれだけの名曲を残したのです。おそらく後期の数曲だけでも、音楽史上に名を残していたでありましょう。また、上記に紹介した演奏家の他にも、ミケランジェリ、ゼルキン、バレンボイム、ペライア、アシュケナージ、ハイドシェック、アルゲリッチ、バックハウス、ブレンデル、ハスキル等、綺羅のような演奏家が名演を残しています。私は機会があるごとにそれらに接して行きたいと思っていますし、勿論、交響曲、オペラ、室内楽などの他の作品も聴いていく事でしょう。重ねて言いますが、短い生涯で音楽のあらゆるジャンルに多くの名曲を残し、それらは後世の人類の至宝となって現在でも愛されているのです。

「モーツァルトだけでも神の存在を信じる。」

と言った人がいましたが、音楽史上このような人が存在した事は奇跡的な出来事と申せましょう。

 ありがとうございました。

 

(2006年6月26日、An die MusikクラシックCD試聴記)