「私のモーツァルト」
ヘレヴェッヘ指揮のレクイエムを聴く文:伊東
モーツァルト
レクイエム ニ短調 K.626
キリエ K.341
ヘレヴェッヘ指揮シャンゼリゼ管
- シャペル・ロワイヤル
- コレギウム・ヴォカーレ
- シビラ・ルーベンス(ソプラノ)
- アンネッテ・マルケルト(メゾソプラノ)
- イアン・ボストリッジ(テノール)
- ハンノ・ミューラー=ブラハマン(バリトン・バス)
録音: 1996年10月9-10日、モントルーにおけるライブ録音
harmonia mundi(輸入盤 901620)皆さんが持っているモーツァルトの「レクイエム」はどんな演奏のものが多いですか?
私はこの曲のCDで有名なものをいくつかを聴いていると、「これは本当に古典派の曲なのか?」と首を傾げたくなるときがあります。第1曲目「Introitus」で合唱が加わってくる8小節目以降、バイオリンが盛大にすすり泣き始める演奏を聴くと特にそう思います。
その部分に限らず、この曲ではロマンティックなアプローチの演奏が少なからず行われていると私は認識しています。
困ったことにロマンティックな演奏には独特の魅力があり、この曲の切々たる雰囲気に合致しているので、私も長い間何の疑問も抱かずに聴き続けてきました。
「レクイエム」はモーツァルト未完の作ですが、モーツァルトが完成させたところは比類のない美しさをもち、感情移入しやすくなっています。モーツァルトの死後補筆完成された部分になると、モーツァルトの心情を慮ってか、より強く感情移入することさえ可能です。指揮者も燃えたり、拘ったりしたくなるようです。例えば、ムーティ指揮ベルリンフィル、スウェーデン放送合唱団等による録音(1987年、EMI)では最後の音がいつまでも消えません。バーンスタイン指揮バイエルン放送響及び合唱団による録音(1988年、DG。ただしバイヤー版)ではその音を長く引き延ばしながら少しずつ消え入るように演奏しています。いずれも極端ですさまじいですが、それぞれの演奏を目の前で聴いたら涙を流してしまうであろうと私は思っています。
一方、一部の演奏からは感情が除去されているようにも感じます。どれとは書きませんが、これはこれで寒々としています。ひとつのアプローチではありますが。
私は大学1年の時にこの曲を初めて生で聴き、その後に自分でも歌ったりしました。大編成のオーケストラと合唱団による演奏、特にロマンティックな演奏には、長く付き合ったことから来る安心感を感じます。しかし、最近ではそんな演奏をずっと聴き続けることができなくなってきました。コンサートでならいざしらず、家庭内で、それでなくても深刻な「レクイエム」を濃厚な演奏で聴くのは遠慮したくなってきます。
ところが、少なくともヘレヴェッヘ盤は濃厚でもなく、感情を捨て去っているわけでもなく、実にバランスのよい音楽を聴かせてくれます。演奏しているのはヘレヴェッヘの手兵シャンゼリゼ管で、ごく少人数の古楽オーケストラです。合唱団も少人数であるため、響きに透明感があります。そして、ソリストにイアン・ボストリッジを起用するなど、美声を堪能させてくれます。
ヘレヴェッヘという指揮者は壮大・濃厚な演奏によって聴き手を圧倒するということをしません。彼は歌を上手にまとめる手腕を持っていて、この「レクイエム」でもそれが見事に発揮されています。歌・歌・歌で聴き手を魅了します。例えば、「Tuba mirum」を聴いていて、これほど美しく声を響かせていた例が他にあっただろうかと思います。こういったアプローチを私は大変好ましく感じています。随分年を取ったものだと我ながら思います。
もっとも、いろいろなアプローチができるというのは名曲の証であるとも言えます。そのうちに私もあっと驚くような演奏が現れるかもしれません。しばらくはヘレヴェッヘ盤を放せないとは思いますが。
(2006年6月5日、An die MusikクラシックCD試聴記)