「この音を聴いてくれ!」

第8回 「詩人の恋」に聴くピアノ

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■ 「詩人の恋」の名盤、その魅力は
文:伊東

CDジャケット

シューマン
詩人の恋 作品48
リーダークライス 作品39
ミルテの花 作品25より7曲
バリトン:フィッシャー=ディースカウ
ピアノ:エッシェンバッハ
録音:1974年1、4月・1975年4月、1976年4月、ベルリン
DG(国内盤 F35G 50131)

 

 シューマンの歌曲、特に、傑作「詩人の恋」を聴くとき、皆さんはどのCDを思い浮かべるだろうか? 私の場合フィッシャー・ディースカウがエッシェンバッハの伴奏で録音したグラモフォン盤を真っ先に思い浮かべる。何が良いかといえば、エッシェンバッハのピアノである。このCDを聴くと、研ぎ澄まされたピアノの音に驚かされる。いくら録音の魔術があったとしても、これほど夢見るように美しく、幻想的なピアノはなかなか聴けない。この思いは学生の頃に初めてこのCDを聴いたときから変わらない。それどころか、私のリスニング環境が向上するにつれてこのCDの音をより忠実に再生できるようになり、エッシェンバッハのピアノに対する私の驚きはますますその度合いを強めている。夜中にCDをかけると、何という音なのだろうかと思わずにはいられない。

 ピアノの前奏に続いて、フィッシャー=ディースカウが

Im wunderschoenen Monat Mai.
うるわしくも美しい5月に

と歌い始める。このドイツ語が美しい。というより、このCDで聴くと、特に美しく感じられてならない。「Wunderschoen」(ヴンダシェーン)という言葉はドイツ人がやたらと連発する言葉なので、私はあまりいい語感を持たないのだが、エッシェンバッハの前奏から、この歌い始めまで全く隙がないためか、音楽と、ドイツ語の美しさに私は陶然とさせられる。

 「詩人の恋」の第1曲はこの1行を含めて全部で8行しかなく、演奏時間はこのCDでわずか1分32秒である。この1分32秒は、音楽の奇跡のひとつだ。ほとんどひとつの小宇宙、完璧な美しさをもった小宇宙がこの1分32秒の中にある。私はそれをエッシェンバッハのピアノのおかげだと信じている。これは伴奏のレベルを超えているのではないか。

 もしこのCDに難点があるとすれば、異論を承知で書くが、歌手だ。フィッシャー=ディースカウの歌はおそらく完璧に巧い。しかし、私はフィッシャー=ディースカウの歌を聴くと、「作曲家」や「音楽」ではなしにフィッシャー=ディースカウの強力な個性を感じ取ってしまう。これは彼がいかに傑出した音楽家であるかを表すものかもしれないが、それが鑑賞の邪魔になることが時々ある。彼の技術があって初めて成り立つ完璧な演奏なのだが、何とも皮肉なものだと思わずにはいられない。それでも、この「詩人の恋」は、私の宝である。私にとって最高のピアノが聴けるからだ。

 エッシェンバッハは、ご存知のように指揮に転身してしまった。もったいないことだ。指揮者としてのエッシェンバッハを否定するわけではないが、これほどのピアノを聴かせたことを考えると残念でならない。なぜピアニストは指揮に転身するのか。指揮者稼業はそれほど魅力的なのだろうか。


2004年10月7日、An die MusikクラシックCD試聴記