ノイマンのマーラー交響曲第1番を聴く

文:稲庭さん

ホームページ What's New?
あなたもCD試聴記を書いてみませんか インデックスページ


 

CDジャケット

マーラー
交響曲第1番
ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
Canyon classics, PCCL-00177

 皆さんはチェコフィルについてどのような印象をお持ちでしょうか?毎年のように来日しては、玉石混交の演奏を行っているこの東欧の古参オーケストラが、現在レコード業界からどのような扱いを受けているかは、その新譜のリリース枚数に如実に示されているような気がします。ここ数年間、エクストンから盛んに新録音がリリースされていましたが、アシュケナージがチェコフィルのシェフを退任したことなどにより、新譜の発売はぱたりと止まってしまいました。他のレーベルはどうでしょう?単発的には幾つかの素晴らしいリリース(例えば、ドヴォルザークの「ルサルカ」Decca 460 568-2、など)があったものの、お膝元のスプラフォンは、(旧)東欧圏の崩壊以降、新たな録音に積極的とはいえません。最近では、つい数ヶ月前にシャンドスからツェムリンスキーの「叙情交響曲」が発売されたのが目ぼしいところでしょうか?(Chandos, CHAN 10069)

 また、今年のレコード芸術誌の5月号の特集は「オーケストラと指揮者の『蜜月』」というものでしたが、そこからチェコフィルは見事に外されています(シュターツカペレドレスデンも同様の扱いを受けているので納得がいかないのですが)。しかし、このことは、現在の最前線の人々にとっては、チェコフィルは注目に値するオーケストラではない、ということを示しているのでしょう。

 しかし、「蜜月」という観点から見た場合、チェコフィルはターリッヒ→アンチェル→ノイマンという3人の指揮者との「蜜月」を過ごしたと言い得るのではないでしょうか。ターリッヒはチェコフィルの基礎を確立した指揮者として、アンチェルはそれをさらに磨き上げるにとどまらず、紛れもない20世紀のオーケストラとしての機能性と演奏スタイルを刻印した指揮者として、ノイマンはその機能性を生かしつつ、そこに豊かな、しかしおおらかな表現力を付与した指揮者として。

 この3人中で、録音技術という面から見た場合に、一番恵まれているのは、やはり最後のノイマンということになると思います。(録音のレパートリーをみると、アンチェルにかなうものではないかもしれません。とりわけ、現在スプラフォンにより進行中のアンチェルの様々な録音の復刻はそのことを示しているでしょう。しかし、もう少し録音状態が良かったら、との思いに駆られることがしばしばあります)。しかし、ノイマンの録音についてはほとんど語られることがないように思われ、また、それは理由がないことではないように思われます。例えば、ノイマンの演奏にアンチェルのような鋭さを求めても無駄でしょうし、また、晩年のカラヤンの一部の録音のような巨大さと、憂鬱と、退廃的な美を求めても、それもまた無駄でしょう。さらに、アーノンクールやフルトヴェングラーの音楽のように、形而上学的な鑑賞の仕方にも向いているともいえないでしょう。

 しかし、まさにこの点がノイマンの音楽を特徴付ける長所にもなりうるという逆説、これは音楽においてはしばしば生じる事態です。今回は、その中でも、彼の晩年の業績の一部であり、私がかなり気に入っている一枚を紹介してみたいと思います。それは、マーラーの交響曲第1番のCD(Canyon classics, PCCL-00177)です。ノイマンは晩年にキャニオン・クラシックスにマーラーを数多く録音しましたが(ノイマンが途中で亡くなったため、全集にはならなかったのですが)、そのすべてが素晴らしいとは、残念ながら、言えないように思います。しかし、第1番では、オーケストラの自発性とノイマンの表現がうまくマッチし、適度の推進力(前に行く音楽!)と、おおらかな表現がバランスよく同居していると思われます。

 それでは、ノイマンのおおらかな表現はどのようなところに見られるのでしょうか。ここでは、それを少し詳しく見てみたいと思います。(内容の都合上、スコアをお持ちでない方には少し分かりにくいかもしれませんが御容赦ください。また、私のスコアは、音楽之友社刊のフィルハーモニア版のミニチュア・スコア〔OGT 1146〕です)。

 例えば、第1楽章の第一主題(チェロ、62小節以降)を見てみましょう。ノイマンとは全く対照的な、しかし双方ともに魅力的な、主題の提示の仕方をしているのがクーベリックです(audite, 95. 467)。この主題は、レ・ラ・レ・ミ・ファ♯・ソ・ラ(以下略)というものですが、クーベリックはレ・ミ・ファ♯・ソ・ラという上昇音階を、まさに登山の際に徐々に視界が開けていくように、徐々にテンポを上げながら演奏しています(そして、クーベリックの徹底しているところは、この音型が現れるたびにそのように演奏するところです)。これに対して、ノイマンは、初めのレ・ラという4度の下降は少々遅めで演奏するものの、それ以降の上昇音階は一気に駆け上がります。つまり、ノイマンの演奏では、一つのフレーズ内でのテンポの変化がクーベリックほどにはなされないということです。このようなことは、第一楽章で何度も出てくる音型(初出は125小節から)でも見られます。クーベリックは(また、この音型の場合は、他の多くの指揮者も)この音型が出てくると、必ずテンポをかなり揺らして劇的な表現をつけるのですが、ノイマンはほとんどの場合、わずかにテンポを変化させる程度の表現をつけるにとどめています。

  このようなテンポの扱いは、もっと大きな部分についても当てはまります。第四楽章の55小節からを、クーベリックはそれ以前よりぐっとテンポを落として変化をつけています(元のテンポに戻るのは106小節)が、ノイマンはそれまでのテンポを維持しています。また、一楽章の317小節から356小節までは、いかにもマーラーらしい音楽で、しつこくやろうとすればいくらでもしつこくやれるところです。しかし、ノイマンはここでも、バーンスタイン(87年のコンセルトヘボウとの録音、DG)やシャイー(Decca)のような極端なテンポの変化や、極端なアクセントを避けます。

 このように書くと、ノイマンが四角四面な名演奏をしているように思われるかもしれませんが、そうではありません。極端に走らないということです。当然、音楽が要求する程度に自然なテンポの変化はつけています。例えば、第1楽章の提示部の最後の部分は提示部の最初の部分よりかなりテンポが速くなるのが当たり前なのですが、それはきちんと大きな流れの中で行われています。そのきっかけは、ほとんどの指揮者と同様に、129小節です。しかし、シャイーと比較してみると、シャイーは131小節から極端な加速をするのに対して、ノイマンは緩やかな加速が提示部の最後まで続くという感じです。

 また、和声の扱いからも、同様の牧歌的な方向に向かう傾向を読み取ることができます。第1楽章の主部が開始されてまもなくの88小節を例にとってみましょう。ここでの調はイ長調で、ほとんどのパート(第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第1オーボエ、ハープ)がミの音を鳴らしている中で、第2ヴァイオリンがレ-ミ, レ-ミという7度の下降跳躍をします。当然、レとミは2度(この場合は、オーボエと第2ヴァイオリン)で不協和音ですから、第2ヴァイオリンとオーボエを強調すればするほど鋭い響きになります。バーンスタインなどは、オーボエとハープそして第2ヴァイオリンにつけられているアクセント記号を生かして、鋭い響きを出現させています。ところが、ノイマンは、ここで波風を立たせることなく、ふわりとした雰囲気で何事もなかったように音楽を進行させるのです。

 しかし、このようなノイマンの表現が常に成功するわけではないことは、他の録音(一例だけ挙げるとすれば、マーラーの第5番〔PCCL-00205〕)でも示されているように思います。では、なぜこのマーラーの第1番では成功したのか。

 いくつかの要因が考えられますが、まず、曲そのものに原因を求めることが可能でしょう。マーラーの第5番と比較した場合、第1番は、より古典的な曲であるといえるでしょう。例えば、第5番の2楽章や終楽章はころころ雰囲気が変わり、そのたびに、それぞれのパートがそれぞれの役割をころころと変えていかなくてはならないのに対して、第1番では、そのようなことはなく、一貫した雰囲気が持続することが多いと思われます(長大な第4楽章ですら、大きな変化は157、254、428、533小節の4回だけであるように思います。)この点が、ノイマンの表現とうまくマッチしたのではないかと考えます。

 また、このような曲調は、チェコフィルの特性ともうまくマッチするのではないかと思います。私は、チェコフィルは(やる気のあるときは)上手なオーケストラであると思いますが、そのうまさは、ベルリンフィルなどとは異なり、個人技で聴かせるというよりは、オーケストラ全体の雰囲気で聴かせるうまさだと思います。

 具体例を二つほど挙げてみましょう。第1楽章の展開部、225−304小節の平和な雰囲気の持続は、すべての楽器が柔らかい音色で溶け合っていることから生じるものです。この部分を、シャイーの演奏と比べると、シャイーの演奏はそれぞれの楽器の音が立ち、非常に分析的に聞こえるでしょう。また、同楽章の400−408小節。ここは、どの演奏でも聴いていて(弾いていても!)非常に気持ちの良いところなのですが、ここで音楽の推進力に決定的に寄与しているのは、チェロ、コントラバス、およびファゴットが刻んでいる四分音符です。この、四分音符と他のメロディの絶妙なバランスを聞いてください。この辺は、オーケストラの本能(?)が非常に良く出ているように思います。このようなチェコフィルの妙技は、スコアが複雑になるほど、各パートに極端な表現が求められるほど、指揮者が強い指示を与えない限り、影を潜めていくように思われます。

 というわけで、長々と書き連ねましたが、結論は簡単です。このアルバムは、指揮者、オーケストラの美点と曲、さらには(今回は触れていませんが)録音技術がうまくマッチしたアルバムである。(何て平凡な!)

CDジャケット

 最後に、このCDを選んだ理由、それは本当に個人的なことなのですが、それを書かせていただいて、終わろうと思います。

 私が、チェコフィルに魅せられたのは、数年前の東京でのコンサートでスメタナの「我が祖国」(指揮:小林研一郎)を聞いたときでした。しかし、その次の年、プラハでアシュケナージの指揮でドヴォルザークの「自然の王国の中で」を聞いたのは決定的でした。終わったあと、どの楽器がうまい、どの楽器がよかった、という感想ではなく「いいオーケストラだった」という感想しか出てこなかったのです(ご存知のとおり、アシュケナージはこの曲を録音しています〔EXTON, KJCL-00010、左ジャケット写真〕。是非お聞きになってください。録音が少し不自然ですが、演奏は素晴らしいと思います。)これを取り上げようかとも思ったのですが、曲が今ひとつメジャーになりきれないこと、そのため、チェコフィル以外の比較するべきCDがそれほど存在しないこと。さらに決定的なことには、スコアを入手することが難しいこと、などの理由で、今回は、CDで聞くチェコフィルの中では最良のものに属し、かつ、上述の3人の歴代常任指揮者が指揮したものの中から、私がとりわけ気に入っているものを選んでみようと思いました。

 チェコフィルの歴史についてご存知の方は、チェコフィルの全盛期はアンチェル時代だったのではないか?と思われるかもしれません。確かに、機能的な面から見れば、ノイマン時代よりもはるかに上を行っているなと感じさせられることが少なくありません。また、ノイマンの晩年の業績に属する今回紹介したCDでは、アンサンブルの小さな傷を指摘しようと思えば、何箇所も指摘できるように思います。けれども、「いいオーケストラだった」という感想を、細かいことは抜きにして、これほど感じさせてくれるCDも、私には、中々ないのです。

 

2003年7月17日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記