無垢の人 ペーター・マーク
文:たけうちさん
■ 春の陽気に誘われて
皆さんはふと「どうしてもあの曲を聴きたい、それもあの演奏家で」と思う事はないだろうか? いやこれはむしろ、日頃から音楽を愛聴している人にとっては日常茶飯事の心理であろう。だからこそ、いそいそとレコードショップに駆けつけ、なけなしの金を叩いてお目当てのディスクを買う。それを抱えて家路に着き、パッケージを開いてオーディオ装置にディスクをセットして第一音が奏でられるまでのワクワク感は、何物にも替え難いものである。世間は春爛漫であるが、私は先日、暖かい日差しと微風に舞う桜の花びらを見ながら「ペーター・マークの指揮したシンフォニーが聴きたいものだなあ」と全然何の理由も無いのに思い立ったのである。爽やかな季節に身を委ねながら聴くには、いかにも彼の「純真無垢」な音楽が相応しい。そこで今回は、ペーター・マークを取り上げてみたい。
■ 慈しみのベートーヴェン
ベートーヴェン
交響曲第7番 イ長調 作品92
ペーター・マーク指揮パドヴァ・ヴェネト管弦楽団
録音:1994年6月,イタリア
ARTS(輸入盤 47245)さて、ペーター・マークと言えば、メンデルスゾーンの「スコットランド」と相場が決まっているようだが、それについては、後程述べるとして、まず、彼のベートーヴェンを御紹介したい。彼は晩年に、パドヴァ・ヴェネト管弦楽団と全集を録音しているが、ARTSという我国ではややマイナーなレーベル(と言って良いものかどうか分からないが)の為か、少なくとも私の周りのショップではなかなか見当たらなかった。ところが先日偶然にも見つけたので、思わず手に取って「へえペーター・マークのベートーヴェン全集か...」と何故か感慨深げになってしまった。それは良いのだが、パッケージの帯に「一家に1セット、ペーター・マークのベートーヴェン全集」などと銘打っているのにはいささかガックリした。こんなキャッチコピーなど、カラヤンならいざ知らず、知る人ぞ知る地味な存在である彼には似つかわしくないなと思いながら全集という事もあって(価格は確認していないが、輸入盤なので安価だったかもしれない)その日はショップを立ち去った。
そして数日後、同じショップに立ち寄ってみるとなんと既に売れてしまっていたのである。まさか先ほどのコピーに躍らされて購入を決めたのではあるまい、おそらく買った人は私と同様に、ペーター・マークと言う名前に何処かしら哀愁と親しみを感じてしまったのに違いない。だからと言って彼は完全に過去の人ではない。事実この全集も1994年〜1995年にかけて録音されておりクラシック音楽というジャンルの時間軸からすれば、まだまだ現役盤として通用してしかるべきである。
さて、彼の棒によるベートーヴェンだが、あえて一言でいえば「白湯の味わい」とでも形容出来ようか? 度の強いお酒でも、無機質なミネラルウォーターでもなく、高貴な精神性と人徳によりブレンドされた上質な飲み物なのである。この第7番のシンフォニーはまさにマークの人となり(あえて芸術性とは言わないでおこう)に裏付けられた味わい深い演奏である。
第1楽章冒頭の弦が段々と登りつめて行くフレーズは、多くの指揮者が重厚にオーケストラを鳴らし、「舞踏の神化」と称されたこの曲の荘厳さを方向づける指針の如く、巨大な何者かがこちらに向かって歩いて来るような印象を与える。ところがマークの手に掛かると、まるで良家の御嬢様が大理石の階段を静々と降りて来て、周囲の嘱望の中、舞踏会の輪に加わるかのように聴こえるのだ。また、「のだめカンタービレ」でもお馴染みになったモチーフは、大海原のようにオーケストラを響かせる演奏が多いが、マークは大河の清流の如き音楽を紡いでいき、コーダも決して煽り立てるような事はしない。
つまり彼は大声で訴える雄弁家ではなく、静かに語りかける慈しみの人なのである。「そんなのちっともベートーヴェンらしくないじゃないか」と異議を唱える向きもあろう。ではベートーヴェンらしい演奏とは何なのであろうか?
ここで演奏家論を展開するつもりはないが、フルトヴェングラーのベートーヴェンがあれほど劇的に響くのは、彼が頭の中だけの理詰めで演奏した結果ではあるまい。音楽家として彼が歩んできた人生、それをとりまく国家的、政治的な背景、演奏する時と場所(そこには当然聴衆も含まれる)を統合したモニュメンタルな芸術として我々に訴えるからである。また、終生「楽譜に書かれている事が全て」と公言していたトスカニーニにしても、演奏家の主観性を否定した生き方そのものがまさにトスカニーニの「主観」に裏付けられたものであった。全ての音楽家が生身の人間である以上、その人の音楽観、人生観が演奏に重なるのは当然の事だと思うし、それをベートーヴェンらしい、らしくないと分析するのはあまり納得しない(これも私の主観である)。私は、ペーター・マークの音楽家としての経歴や音楽観、人生観などは詳しくは知らないし、またあえて知る必要も無いと思う。ただ彼のベートーヴェン、メンデルスゾーンの演奏を聴いて「ペーター・マークってこういう人なんだな」と思い、私はそれに親しみ愛聴するのである。私にとって演奏家とは奏でている音が全てなのだから。
■ 天性のメンデルスゾーン指揮者
メンデルスゾーン
交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」
ペーター・マーク指揮 マドリード交響楽団
録音:1997年7月,スペイン
ARTS(輸入盤 47506)いささか堅い話になってしまったが、かくの如きマークという人はしなやかな感性を持った指揮者である。そんな彼がメンデルスゾーンにフィットするのは当然とも言える。彼はよほど「スコットランド」を得意としていたようで、生涯に異なる楽団で4回録音しているが、その中で最も世評が高いのはやはりロンドン響を振ったものであろう。1960年録音であるからもう50年近く前のレコードで、当然マークもまだ若かったが、そのみずみずしい解釈とDECCAの素晴らしい音質は今もって色褪せておらず、この曲の名演としてクレンペラ−盤と双璧をなすであろう。
それにしてもあの頃のDECCAは、この「スコットランド」といい、マルティノンの「悲愴」といい職人気質の名演奏家の優秀録音をリスナーに提供していた良い時代だったのだ。
それはともかくここで御紹介するのは、マドリード交響楽団を振ったものである。録音はロンドン響の時からずっと経過して1997年、マークも既に晩年の域となったが、若かりし頃の感性は少しも輝きを失っておらず、彼は天性のメンデルスゾーン指揮者だった事が分かる。
この演奏の魅力を私の拙い文章で述べるのは気が引けるのだが、やはりマークの人柄が滲み出たそれでいて決して平坦なセンチメンタリズムには陥らない名演である。彼の演奏をああだこうだと分析しても仕方がない、私はその一級の陶磁器のような光沢を放つ名品にただ酔いしれるのみである。
■ ペーター・マーク賛
彼は若い時から晩年近くになるまでかなりの回数来日して、日本のオーケストラにも客演していたのだから、我国にも馴染みのある音楽家である(東京都交響楽団を振った「スコットランド」の録音も残されている)。また、レパートリーも決して狭くはなく、かなりの数の録音を残していたし、2001年81歳で亡くなったのだから、全然忘却の彼方の人ではないはずなのだが、少なくとも私の知る限りレコードショップで彼のディスクはなかなか見つからない。ましてや過去の録音がリマスタリングで再リリースされるなど噂にもならないのはちょっと寂しい限りである。
上記のベートーヴェンもショップの陳列棚の隅の方に、しかもARTSレーベルの数枚のうちの一枚として見つけたものであり、「スコットランド」は偶然中古ショップで入手したのだった。
彼はその演奏からもうかがい知れるように、派手な表立った事は遠慮するタイプであったろうから、仮に自身のレコードが、華々しい宣伝とともにショップに並べられるとしたらきっと困惑するであろう。
しかしペーター・マークのような無垢で純粋な音楽を奏でる指揮者が、珠玉のような演奏を残してくれた事には感謝しなければならないし、忘れ去ってはならないだろう。
...と、ふと春の陽気のなか思いに耽った次第である。
2007年4月24日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記