シューベルト最初の四曲の交響曲

文:稲庭さん

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 「いやー、昨日一日中シューベルトの三番聞いていてさー。」
 「えっ、いいな。あの曲好きなんだよね。一楽章のヨーデルみたいなクラリネットなんか最高だよね。」
という方、手を上げてください!!
あまりいませんね。多分。

 シューベルトの交響曲といえば、やはり、八番と九番(最近では七番と八番。とにかく、ロ短調とハ長調の最後の二曲です。)が圧倒的に有名で、名作だと思われています。筆者もその意見には賛成です。何といっても、音楽を聴き始めてから十数年経ちますが、八番と九番以外のシューベルトの交響曲を、これだけ時間をかけて聴いたのは初めてです。さらに、九番のハ長調は「好きな曲は?」と聞かれたら、必ず挙げたい曲ですし、八番の方は、何度演奏したか知れません(とはいっても、片手とちょっと位かしら? 筆者、アマチュアオケでヴァイオリンを弾いています)。

 じゃあ、何でシューベルトのその辺の曲などを聞いているのか。答えは、単に、最近CDをまとめて買ったからという、実に単純明快な話でして。というわけで、今回まな板の上に乗せるのは以下の三つの演奏です。

1.ブロムシュテット、シュターツカペレ・ドレスデン
2.アバド、ヨーロッパ室内管弦楽団
3.デイヴィス、シュターツカペレ・ドレスデン
(このほかに参考として。ブリュッヘン、18世紀オーケストラ。)

 すべての曲について、いちいちコメントすることは、筆者の能力では無理ですので、なんとなくどの曲にも共通する雰囲気についてのみ言及してみたいと思います。

CDジャケット

 ブロムシュテットの全集は、このページをご覧になっている方にはあまりにもおなじみでしょう。1970年代末から1980年代初頭にかけて録音されたもので、その直前にはあのベートーヴェンの全集を完成させているコンビですから、技術的な面での不安はまったくありません。音楽のスタイルも確固としたものです。でも、今回もっとも私を戸惑わせたのもこの全集でした。

 皆様ご存知のように、シューベルトの初期の交響曲にはすべて序奏部があります。上に上げた全集を、アバド→ディヴィス→ブロムシュテットの順番で聴いたのですが、前二つの演奏と、序奏部(特に一番)の演奏の仕方がまったく違うのです。実に堂々とした、といえば聞こえはよいのですが、正直、はじめは別の曲が始まったかと思いました。テンポは遅く、個々の音はレガートで。こういうのを、伝統的な、ドイツ的な、というのは簡単ですが、話はそこでは終わりません。序奏部が終わって主部に入ると、一転して、かなりのスピードで演奏するのです。ブロムシュテットは、これ見よがしのデフォルメを加えて演奏する指揮者ではありません。それだけに、この序奏部と主部の対比は、私を戸惑わせるのに十分でした。少し知ったかぶりの議論をお許し願えるなら、序奏部=ロマン派、主部=古典派、のような気がするのです。もちろん、それは、他の演奏と比較して初めて分かることではあるのですが。

 しかし、先にも書いたように、このコンビの演奏です。主部が始まったら、後は、ただ聞いていればよいのです。一気に最後の和音まで運んで行ってくれます。でも、ふと思ってしまったのですが、この感想って、古楽器の演奏を聴いたときによく出てくる感想なのでは?(例えば、ガーディナーのバッハなんか、そういう感じではないでしょうか?)

 アバドの全集は、八十年代の後半にDGに録音されたものです。アバドの演奏は、序奏部の始まり方なども、古典派的なのです。テンポは速め、個々の音は極めて上品な長さでまとめられています。それよりもこの全集が素晴らしいのは、その後に続く主部も、古楽器奏法を取り入れたと思われる人々にありがちの、ただ速いだけの演奏に終わっていないところです。即物的なテンポに関していえば、ほとんどの曲についてブロムシュテットより遅い演奏です(四楽章に関しても同様)。でも、気品がある演奏といえばよいのでしょうか、とにかく、個々のまとまりがそれぞれきれいにまとめられていて、それぞれに「そこはかとない」魅力があるといえばよいのでしょうか。誤解を恐れずにいえば、日本人が、桜を見たときに感じるあの、押し付けがましくない魅力があるのです。先のブロムシュテットとの対比で言えば、一気に運んでいく演奏ではない代わりに、適宜心地よい呼吸をする場を与えられている演奏といえばよいのでしょうか。そういえば、アバドのハイドンにも、モーツァルトにもそういう魅力がありました。

CDジャケット

 ディヴィスの全集は、九十年代半ばにRCAに録音されたもので、近頃は、4000円程度で売っています。オーケストラはシュターツカペレ・ドレスデンですが、はっきり言って、ブロムシュテットのときとは別のオーケストラです。ディヴィスが指揮をしたからなのでしょうか?それとも、1989年のせいなのでしょうか?それは分かりません。

 ディヴィスという指揮者は、一般的にどう考えられているのでしょうか? 私には、かなり個性の強い指揮者の様に思われます。例えば、バイエルン放送交響楽団とのブラームスの交響曲を聴いてみてください。そのライナー・ノートには「音楽がしなやかで、ごく自然に流れる」と書いてあるのですが、何処をどう聞いたらそうなるのか? ディヴィスの意図が明確で、とにかく、流す部分というのがなく、時には強引ともいえる音楽作りだと思いました。「こりゃー、オーケストラのメンバーはたまらないだろうなー」なんて、勝手な想像が頭をよぎったりして(といいながら、何度も聞きなおすくらい、好きなのですが)。

 では、シューベルトはどうか。意外なことに、ディヴィスの演奏は、ブロムシュテットよりは、アバドの演奏に近いように思います。例えば、先ほどから触れている序奏部の扱い、序奏部と主部の対比などの点において。さらに、やはり、古楽器のことを学んでいるのだという感じがします。なぜなら、こういう言い方がよいのかどうかは分かりませんが、ブロムシュテットの演奏が、「こうやるもんだ」という指揮者とオーケストラの本能的なコンセンサスを前提としていたように思えるのに対して、ディヴィスの演奏は「違う、ここは、こうです。」「しかし、先生。」というような、かどうかは知りませんが、議論の後にできた演奏のぎこちなさと、奥深さがあるように思われるからです。とうぜん、表面的な演奏のスタイルとしては、アバドに近い。当然、一気に運んでくれる演奏ではありません。そこここに、句読点があります。

CDジャケット

 でも、この先がこの演奏の不思議なところなのですが、古典派にふさわしい語法を探した後が見られるのにもかかわらず、そして、それはかなりの程度成功しているにもかかわらず、全体的な雰囲気としては、どうしようもなく、ロマン派的なのです。なぜこういうことが可能なのかはよくわかりませんが。もうこうなると、アバドと似ている顔をしているにもかかわらず、「そこはかとない」魅力は吹き飛んで、かなり強烈な主張が感じられるのです。(そういう意味で、根底にある雰囲気はブリュッヘンに似ているのかもしれません。でも、逆にブリュッヘンは、(四番を例にとれば)考えに考えた挙句、異常な雰囲気の塊として、一気に聞かせます。句読点は、あるのだかないのだか。)

 というわけで、三つの全集から、最初の四曲の交響曲についての感想をまとめてみました。三つ並べてみると、やはり、ブロムシュテットとそれ以外のものは、同列には語れないような気がします。それは、先ほどの言葉を使えば、本能的なコンセンサスの有無に関わる問題です。それが存在するのがよいのかどうかは分かりませんが、それが存在しているのだろうなと思うのは、ブロムシュテットだけです。しかし、それがゆえに、ブロムシュテットのものが一番魅力的かといえば、それはまた別の問題です。

 

2003年3月13日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記