シベリウスを聴く
文:ワタルさん
シベリウス
交響曲第4番〜第7番、「トゥオネラの白鳥」「タピオラ」
カラヤン指揮ベルリンフィル
録音:1964-1967年、ベルリン、イエス・キリスト教会
輸入盤(DG 457 748-2)シベリウス
交響曲全集、「フィンランディア」、バイオリン協奏曲
セーゲルスタム指揮ヘルシンキフィル
録音:1996年、ヘルシンキ、フィンランディアホール
輸入盤(ondine ODE 1075-2Q)
もしみなさんが、冷たい北風の吹きすさぶ中を駅へと急ぎ歩いているとき、ふと、周りにいる人達は自分とはなんの関係もない人達なんだと気づいて、恐ろしい孤独に駆られたら・・・、帰り着いた静かな家の中で、CDプレイヤーに載せるに値するのは、どんな曲ですか?
僕にとってそのわずかな選択肢に入る作曲家は、シベリウスです。
シベリウスの音楽は、まるで樹のようです。
確かに情熱的なパッセージもあります。咆哮する金管、さえずる木管、長い曲線を描く弦・・・しかし、彼の音楽における情熱は、(マーラーやベートーヴェンとは違って)我を忘れ、浸り、叫ぶものではありません。ただそこにいて、ひしひしと流れ、過ぎ去っていくものです。
リズミックなパッセージも顔を見せます。「ね、楽しいでしょう?」と誘われているような軽快なテーマも出てきます。しかし、シベリウスの音楽にとってのリズムは、(モーツァルトのように)それ自体に意味があるのではありません。リズムが生成され、そして再び融解し、あるべき場所にもどっていく、その過程にすぎないように僕には思えます。
生成され、融解し、あるべき場所にもどっていく。
つまるところ樹はそこにあり、驚くべきディティールの多様さを見せながら、そこにあり続けてくれる。
樹は変わらない。しかし、それを発見し、驚き、感動し、そして時を越えて安らぐ、僕たちの心は以前より豊かになっている。
これが僕にとってのシベリウスの7番です。
カラヤンのシベリウスには、オーケストラが全体で1つの線を描いている印象があります(これはカラヤンのスタイルの特徴なのでしょうが・・・)。そこには、カラヤンのみが持つことのできた、ひとつの音楽観のようなものを感じます。カラヤンはディティールを決してぞんざいに扱いません。しかしディティールのために歩みを止めることもしません。カラヤンは、スコアから浮き上がるかすかな光の道を孤独に歩みながら、静かに棒を振り、その残像をオーケストラは演奏し、さらにその残り香が僕たちの耳に届いているような・・・僕たちがカラヤンの「今」を掴むことは決してできないような・・・あるべきクライマックスに憧れ続けるシベリウスになっています。カラヤンが線を描く、のではなく、カラヤンという触媒のもとに、線が発生していく・・・そんなふうに僕には感じられます。カラヤンという人は、実はいまだ過小評価されているのではないか、といったら驚かれるでしょうか? カラヤンがもしクライバー並に録音も露出も少なかったら、今ごろもっとファンに大切に聴かれているんじゃないかな、と僕はよく思います。
セーゲルスタムのシベリウスは、オーケストラ全体というよりは、一人一人のアーティストの集まりのような印象をうけます。それぞれの奏者が、自分の思いを吐露しているような、室内楽的で立体的な演奏です。もちろん、それぞれの奏者に好き放題に弾かせていたら、全体は成立しません。だとするとすごいのは、オーケストラのメンバーたちの「共感」です。いったいどういうリハーサルがあれば、そしてどんな棒さばきがあれば、オーケストラからこんな自発的な音楽が生まれるのでしょうか? この演奏では、指揮者はまるでオーケストラの中から代表で選ばれたかのような、強引さの全くないイニシアチブを感じます。よい意味で、指揮者が見えません。奏者ひとりひとりの、シベリウスの音楽への献身的な祈りが、全体としての演奏を生み出しているように聞こえてきます。指揮者にとって、これは偉大な達成ではないでしょうか?
皆さんにとっての、孤独に対峙しえる音楽はなんですか?
2008年2月20日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記