ピアノマニア

映画館で観ることができなかった『ピアノマニア』をDVDで観ました。

pianomania_DVD

これは、スタインウェイのピアノ調律師シュテファン・クニュップファーが、バッハの『フーガの技法』を録音するエマールのためにピアノを選定し、調律をしていく過程を中心にしたドキュメンタリーです。

この映画を観れば、私のような者でも調律師が少しずつピアノを調律する度に千変万化する音色を確認できるのではないかと淡い期待を寄せていたのですが、それはすぐに裏切られました。ピアノの違いによる音の違いは判別できますが、調律の前後での判別はそう簡単ではありませんでした。その場にいれば、微細な違いでも容易に聴き取れたのかもしれませんが、DVDというフォーマットを経由した後だからなのか、私の耳ではあまり感知できないのです。何10年もピアノ曲を聴き続けてきた私の耳はその程度のものだったのですね。私は自分の耳に落胆しました。

そうなってしまうのは、一流ピアニストたちの調律師に対する要求水準が尋常でないほど高いからなのかもしれません。要求される音のイメージは言葉としてなら私にも理解できます。しかし、調律師はそれを具体的にどうやって実現していくのでしょうか。もしかしたらピアニストは無理難題を突きつけているのかもしれませんが、調律師は「それは難しいね」などと否定的な言辞は一切発することなく黙々と調律します。それでもピアニストは満足しません。そして調律師はまた作業を繰り返すわけです。ピアニストの演奏する日時に合わせる必要もあるでしょうから時間的な制約もきついに違いありません。これが仕事だとはいえ、なかなか辛そうです。映画の中では、この仕事をしていて精神を病む人がいると説明がありましたが、それも頷けます。

どのような仕事でも、それを評価するのは自分ではありません。顧客であります。いかに芸術的に優れた調律師であっても、その仕事の成否は、顧客であるピアニストのひと言で決まってしまいます。ノーを突きつけられた日にはどのような気持ちになるのでしょう。よほどのピアノマニアでなければ続けられないでしょう。このDVDのタイトルが『ピアノマニア』となっているのにはそういった理由があるのだと思います。

しかし、その一方で、調律師の仕事がなければピアニストは自分が満足する音でピアノを弾くことはできないのです。労多い仕事ですが、それだけにその仕事がピアニストに認められ、賞賛された時には大変な満足を得ることができそうです。そして調律師の仕事は演奏会場の聴衆や、CDを聴いた人の耳に刻印されるのです。それはピアノマニアである調律師への勲章なのでしょうね。

(2015年7月7日)

ピアノマニア」への4件のフィードバック

  1. 伊東さんの文を読んでいて、昔、ミケランジェリやリヒテルのピアノの調律で有名だった村上輝久さんのドキュメンタリー番組を見た時のことを思い出しました。
    ミケランジェリかリヒテルか忘れてしまいましたが、ピアノの調律の時、「紙一枚分、弾きにくくしてくれ」と言われたそうです。「100%弾きやすいと、音楽が上滑りしてしまうので、少し弾きにくい方が良い」といった趣旨だったと記憶しています。
    「凄い世界だな」と思った記憶が蘇ってきました。

  2. 「紙1枚分」は成功したのでしょうかね。「おー、ぴったり紙1枚分弾きにくくなったぞ!」なんていう言葉がピアニストから発せられたりするのでしょうか? 多分調律師は巨匠ピアニストの要請に応えたのだと推測しますが、すごすぎて人間業とは思えません。芸術の世界は常人の想像を超えていますね。

  3. 伊東さん
    ご無沙汰いたしております。

    この映画は映画館で観ました。
    さて、コンサートピアニストにとって、弾くときの指の感覚(鍵盤のタッチ&軽重、ダンパーの戻りの遅早、等)と、耳に入る音の質がしっくり来ることが、本番のための最重要課題だと思えます。
    それ以前の微妙なピッチ調整や、響き(方)等云々は、もちろん大事なことですが、この映画に取り上げられたレベルの調律師だと、何の問題もないと思います。
    つまり、最終的なピアニストにとっての要求が、自身の指と耳の感覚であるため、よほど慣れ親しんだ調律師相手でないと、上手く伝えることが出来ないのですね。当然、観ている方は音そのものの違いではないので、違いが分かることは難しいと思います。伊東さんの耳の能力の問題ではないと思います。

    もっとも、ピアニストが、ホール側で聴いている聴衆に対して、自身の音がどのように聴こえているかが、舞台上で弾いているのに分かる鋭い耳を持っている場合、調律師だけでなくマネージャーも巻き込んで、舞台上でピアノの設置場所や果てはインシュレーターの有無、キャスターの角度まであれこれ始まる場合は、けっこう多いですね。

    つまり、音の高低や音質でどうこう言うよりも、鍵盤が「重すぎる、軽すぎる」、ダンパーが「早く戻る、遅く戻る」、それと自身の耳に聴こえてくる「音の硬さや柔らかさ」(たいていはフェルトの問題)、これらは弾くときに本当に大事な感覚なので、ピアニストが非常に気にする部分ですね。実際、イライラするだけでなく、下手をすると指を傷めてしまいます。(2005年12月25日、調律前のピアノの状態は良かったのに、調律の結果、私にとって最悪の凶器に変容していた=レンタルピアノの調律は、レンタル会社のために行われます。借り手の意向は聞いてもらえません。もちろん、そういったところから借りた私が悪いのですが・・・)

    という訳で、ピアニストと調律師のやりとり自体が、観ていて楽しめた映画でした。

  4. 松本さん、的確な解説を頂き、ありがとうございます。なるほど、そういうことだったのかと膝を打つような解説です。松本さんの文章を読んで、「ピアノマニア」がいかにマニアックな世界を描いた映画であったのかさらによく理解できました。

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