混沌の中に天国はある

以前は聴こうとしても身体が受け付けなかったマーラーを、転居後には全く支障なく聴けるようになったので、交響曲第3番を聴いてみた。図書館にはハイティンク指揮ベルリン・フィルのCDがあったので迷わずクリックした。

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マーラー
交響曲第3番ニ短調
ベルナルト・ハイティンク指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
アルト:ヤート・ファン・ネス
エルンスト=ゼンフ合唱団の女性たち
テルツ少年合唱団
録音:1990年12月16-18日、ベルリン、フィルハーモニー
PHILIPS(国内盤 PHCP-192/3)

第3楽章からは特に大きな感銘を受けた。至極マーラー的な、ある意味ではちんどん屋風の旋律で軽快に開始されるこの楽章冒頭は混沌としている。雑多で粗野で意味不明である。これがマーラーの音楽の魅力のひとつなのかもしれないが、都会の雑踏の中にいるような落ち着かなさを感じる。しかし、それだけでこの曲は終わらない。この曲は一体何なのだろうと首をひねっていると、突如として時間が止まり、ポストホルンの長大なソロにより天国が描かれるのである。それが一段落すると音楽はまた混沌に戻ろうとする。そこでもう一度天国が現れ、さらに、新たな世界が開けたようになって華々しく曲が終わる。その終わり方も混沌と言えば混沌であるが誠に鮮やかだ。奇妙奇天烈な音楽とも考えられる楽章ではあるが、聴き手に強烈な印象を与える。

マーラーは時々こんなふうに天国を描く。例えば、交響曲第9番の第3楽章の中にもある。それは現実世界の恐ろしい責め苦の中に突如として現れるトランペットの旋律だ。わずかに垣間見える天国である。

我々の人生では幸福ばかりが延々と続くわけではない。天国的幸福に永続的に浸りたいとは誰もが願うだろうが現実的には容易ならざることだ。そのような幸福を不断に味わえると考えるのはむしろ非現実的だろう。我々は混沌の世界の中に生きているのであり、現実の責め苦に中にいる時だってある。そして、ごく普通の人間にとって天国は憧れだ。特別な世界なのだ。そこにずっと浸っていたいが、垣間見るくらいが関の山のことだってあり得るし、それだからこそ憧れがより一層強くなることもあるだろう。天国が混沌にある、もしくは、現実世界の責め苦の中にあるというのは、天国を最も痛切に感じることができる設定なのだ。こういう曲を聴くと、マーラーの天才を感じずにはいられない。この大作曲家は人生の真理を直感的に音楽にできたのだとしか思えない。

(2015年9月21日)

混沌の中に天国はある」への2件のフィードバック

  1. 伊東さんのブログをきっかけに、死蔵していたソフトを聴くことができるので活用させてもらっています。
    自分のコメントを見返してみると、自分ではオーディオマニアだと思っていたのですが、ビジュアルに振れていることがよく分かります。
    マーラーの3番を初めて聴いたのもバレエがらみでした。
    ベジャールがラベルのボレロに振り付けをしたLDがあるのですが、それと一緒にマーラーの3番に振り付けしたものも収録されていました。
    観たのは今から30年程前のことです。その当時はボレロが主でしたから、マーラーの方はあまり熱心に観ていませんでしたが、児童の合唱を背景にダンサーが跳び跳ねているのは記憶にあります。
    もう一度観ようと思って探したのですが、見つかりません。もしかしたらネットで観られるかもしれません。YOUTUBEでは色々なものが公開されていますからね。

    CSでクラシカジャパンを視聴していた時に、グールドの「ヒア アフター」というドキュメンタリー番組を録画していたので、伊東さんの文をきっかけに、昨晩見直してみたのですが、グールドの奏法は本当に独特ですね。
    「グールドの演奏を聴いて人生が変わった」という人も登場して、本当に凄い人だったのだなと改めて思いました。
    私に関して言えば、人生が変わったと断言することはできませんが、暫くの間、「バッハ=リヒター」から「バッハ=グールド」という時期があったのは確かです。

  2. 私の場合、ビジュアルを避けてオーディオに傾いているわけではないのです。CDは図書館で借りてきたものです。要するに間に合わせです。もし図書館にクラシックのDVDやらBlu-rayが大量にあればどんどん見たいものです。だから、いつもyseki118さんの書き込みは興味深く拝見しております。といいますか、私の物欲が刺激されてしまいます。

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