An die Musik 開設7周年記念 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」

ドヴォルザーク篇
ドホナーニ指揮クリーヴランド管

文:稲庭さん

ホームページ WHAT'S NEW? 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」インデックス


 
CDジャケット

交響曲第7番 ニ短調 B.141 作品70
ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団
録音:1985年10月、クリーヴランド
London(国内盤 POCL-2019)
併録:ドヴォルザーク:スケルツォ・カプリチオーソ

 

 An die Musik開設7周年おめでとうございます。執筆者の末席を汚させている私としては(近頃さぼりがちですが)、何か一つでも原稿を書こうと思いパソコンに向かいました。

 どの交響曲を取り上げようか少し考えたのですが、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、シベリウスは曲にほとんど興味がないので、スルーさせていただくことにしました。残りの4人ですが、ベートーヴェンとブルックナーは他のどなたかが必ず取り上げて下さると考え、また、マーラーはチェコ・フィルゆかりの曲ということで何か書いてみたい気はするのですが、スコアを聞きながら一生懸命曲を聴いても、共感できるのは終楽章の馬鹿騒ぎだけという有様なので、ドヴォルザークに落ち着きました。

 

ドヴォルザークの第7番

 

 さて、ドヴォルザークの第7番ですが、私が最初に聴いたのは、確かセルが指揮するクリーヴランド管弦楽団の演奏でした。そのときは、第8番の方が聴きたくてそのCDを買ったので第7番はあまり印象に残らずに終わってしまいました(もう、はるか昔の話です)。そして、伊東様と同様に、次に聴いたクーベリック盤によって第7番を強烈に印象付けられました。それ以来第7番と付き合えるようになったのですが、人の好みは時間と共に変わるもの、現在ではクーベリック盤を聴こうと思うことはほとんどなくなってしまいました。

 これをなぜかと考えますと、もちろん私の好みの変化もありますが、第7番にはもう少し特殊な事情があると考えます。

 ドヴォルザークの第7番は、ドヴォルザークの交響曲の中で微妙な性格を有していると思います。これに続く、第8番や第9番と比べると、一つには、オーケストレーションがかなり凝っていると思います。例えば、対旋律の処理や、また、幅広い音域(ヴァイオリンが高音で演奏することがいかに多いことか)、譜割、などです。次に、フレーズの長さが第8番や第9番に比べて短いように感じます。もしかすると、これは、フレーズとフレーズの接続が続く2つの交響曲に比べて不器用であるということに原因があるのかもしれませんが、いずれにせよ、このような特徴は、第8番や第9番よりは、第5番などと似ているように思います。

 これらの結果、第7番は、うるさく演奏しようとすれば(「うるさい」というのは音量だけの問題ではありません)とてつもなくうるさく、まとまりのない曲になる可能性を秘めているといえると思います。

 これらの原因のせいでしょうか、クーベリックの演奏は、近頃の私には少し情熱的に過ぎるのです(というより、そうだろうと考えて、敬遠しているのだと思います)。

 

近頃よく聞く演奏

 

 それでは、近頃よく聞く演奏はというと、一つは、伊東様が取り上げているノイマン、チェコ・フィルの1972年盤、さらに、モントゥー、ロンドン交響楽団の演奏、ジュリーニ、コンセルトヘボウの演奏、そして、今回取り上げてみたいドホナーニ、クリーヴランド管弦楽団の演奏です。

 

ドホナーニ

 

 ドホナーニは現在の日本ではどのような評価を受けているのでしょうか。ヨーロッパのオーケストラに対してアメリカのオーケストラをあまり高く評価してこなかった日本では、ドホナーニの評価は微妙なものがあるのではないかと想像します。と、偉そうに言っていますが、私は、そういう「日本的(?)」な考え方に結構固まっています。アメリカのオーケストラの代表格であるシカゴ交響楽団やニューヨーク・フィルなどにはほとんど魅力を感じたことがありませんし、CDも積極的に購入しようとは思いません。

 ですから、80年代からクリーヴランド管弦楽団というアメリカのオーケストラを振っていたドホナーニという指揮者を積極的に聴こうと思ったことは、数年前に彼が振り、マルフィターノが歌うサロメを聞くまで、ありませんでした。このサロメは私には衝撃的でした。もちろん、サロメそのもののスコアが十分に衝撃的なのですが、それを音としてあれだけまとまった形で表現できるドホナーニに圧倒されました。

 その後、ドホナーニを色々聞いてみて、当たり前のことながら、当たりも外れもあることを認識しました。

 

ドホナーニの演奏

 

 この指揮者の特徴だと思うのは、少なくともクリーヴランド管弦楽団との演奏に関する限り、その明晰さです。例えば、このようにある演奏について何か文章を書こうとして、その演奏をじっくり聴いていますと、「何でここでこうなるのか」とか「あれ、こんなことをやっていたのか」という形で、ある演奏「全体」に対して抱いていたイメージと相反するイメージを抱かせる「部分」が出現するものです。もちろん、ドホナーニの演奏にもそのような「部分」が全くないわけではないのですが、モントゥーやノイマンの演奏に比べるとそれが少ないのです。

 確かに、演奏に「感情的に」どっぷり浸りたい場合はこういう演奏よりも、様々な即興的な部分がある演奏の方が向いているかもしれません。しかし、そのような演奏だけが評価され、「理知的な演奏」が評価されないとしたら、それはばかばかしい話です。ドホナーニの演奏は、明らかに「理知的な演奏」に属すると思いますが、そのレベルの高さは特筆すべきだと思います。それは、その辺の指揮者が「すっきりやろう」というのりでやってもできる水準ではないと思います。

 このように、一方的に理知的であることを強調すると、「ドライな演奏」、「冷たい演奏」、「機械的な演奏」と思われてしまうかもしれません。確かに、クリーヴランド管弦楽団の音色は、例えばシュターツカペレ・ドレスデンのような厚みや暖かさといったものはありません。また、低音と高音のバランスが、他の楽団と比べて、かなり高音を中心としていることも厚みや暖かさとは異なるものを感じさせるでしょう。

 しかし、よく聞きますと、内に秘めた情熱といいますか、何かしらの熱いものが全体を覆っていることに気がつかれると思います(少なくとも、このドヴォルザークの第7番に関しては)。テンポの変化に注目しても、機械的とは程遠く、例えば1楽章の第2主題など、時間を取りたいと感じるところでは、テンポをぐっと落としています。また、ここぞというときのソロ楽器の表現も意欲的です(例えば、第2楽章6分過ぎのチェロ)。

 

まとめ

 

 皆様は、どうして私がこの演奏を好きかがお分かりだろうと思います。先述のように、ドヴォルザークの第7番は、スコアの成り立ちからして「うるさく」なる可能性を秘め、また、まとめるのが難しい曲だと思います。ドホナーニは、そのような曲を最上級の明晰さをもって再現しているということが、私がこの演奏を好きな理由です。

 さらに、このような特徴を持つドホナーニの指揮は、他にブルックナーやマーラーなどの複雑なスコアを持つ曲を再現する際にも好ましいと感じます。もちろん、そのような曲を、非常に「感情的」に演奏することにも大きな感動を覚えることはあります。しかし、時に大曲はそのような再現方法では、訳が分からないことがあります。例えば、一曲だけ挙げるとすれば、ブルックナーの第5番です。ドホナーニの同曲の演奏は、いわゆる「ブルックナー風」の演奏でないことは確かですが、私はその演奏を好ましいと感じます。

 

(2005年11月14日、An die MusikクラシックCD試聴記)