An die Musik 開設8周年記念 「大作曲家の交響曲第8番を聴く」

ブルックナー篇

文:松本武巳さん

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CDジャケット

 

ブルックナー
交響曲第8番 ハ短調
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1970年10月29、30日、11月2、3、4、10、11、14日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
EMI(国内盤 TOCE-3451/3452)

 

【あえてこの録音を取り上げます】

 

 伊東さんがこの録音について、かつてお書きになられておられるので、その冒頭を以下に掲げることから始めたいと思う(伊東注 全文はこちらをご参照下さい)。

 『これはブルックナーファンには有名なCDである。というより、大変悪名高き録音である。私はクレンペラーのファンであるが、どうしてこんな録音を残してしまったのか、疑問だ。というのも、この録音の第4楽章に大幅なカットがあるからだ。』

さらに以下のように続けて、怒りをあらわにされておられるのである。

 『私がどう思っているかというと、まさに「許し難い!」と思う。言語道断、破廉恥、傍若無人、等々、過激な言葉でクレンペラーを非難したくなるのである。クレンペラーのファンである私でさえこのように感じるのは、カットされた場所が音楽進行上、非常に重要だと思われるからだ。わずか数小節カットしたとか、楽器を増やしたとか削ったとかいうレベルではないのである。カットされた部分は確かに経過句的な場所ではある。しかし、音楽は主題だけで成り立つわけではなく、経過句があってはじめて全体が連結され、構築される。しかもブルックナーの交響曲の場合、ゆっくりとした着実な歩みが聴き手に高揚感をもたらすように作られているので、2カ所にわたって長々とカットされたのでは、全く音楽に浸れない。私は最初にこの第4楽章を聴いた時には本当に絶句してしまった。クレンペラーがどれほど優れた指揮者であっても、私はこればかりは暴挙であると思う。』

 実を言うと、これを読ませていただいた後になって、この録音を初めて聴いたのである。あまりにも有名なカットであったので、実は聴く前に、録音自体をカットしてしまったのである。昔は私もずいぶんと世評を気にしながら聴いていたものだと思う。

 

【初めて聴いたときの感想】

 

 クレンペラーの晩年は、オーケストラの技術的なトレーニングが出来なかったからだと思うが、技巧的な部分での破綻があちこちに見受けらる。これは同時期の交響曲第9番にも言えることで、実は最初にその点が気になった。次に、あまりにも壮大なスケールで進行した第3楽章までを聴くと、第4楽章もこの世界にどっぷりと浸りたい気持ちは分かるものの、これだけの大胆なカットを施したにも関わらず、この録音の合計演奏時間は、カット無しの通常の他の指揮者による録音と、ほぼ同じ時間がかかっているのである。

 少なくとも、ブルックナーの信者でも愛好家でもない私には、この演奏時間はすでに集中力の限界近くまで来てしまっており、仮にコンサートホールで聴いていたとしたら、第4楽章をそのまま全部演奏されたら堪らないと考えたであろうと思う。私には、聴き手に救済を与えるカットであったと思うところも実はあるのだ。ただし、ブルックナーの真髄とは、全曲を聴き終えたら、また最初に戻って聴きたい、そんなところにあるのだと信じるファンの側面から捉えると、許しがたい暴挙であろうことも、一方では容易に想像できるのもまた事実である。

 

【この演奏を受け入れたい自らの気持ち】

 

 私自身が、かつてドレスデンシュターツカペレがハイティンクとともに来日した際に演奏したブルックナーの第8番の演奏に関する試聴記で、かつて以下のように結んだことがある。下記に一部を再掲させていただくことにする。

 『ブルックナーの交響曲が敬虔な祈りの部分を含む事実を前にしてみると、宗教的な個人の「こころ」を無視しては、演奏の方向性を決め得なかったことも正しいと考えている。そのように考えることが、結果として、キリスト教に無関係な日本人がブルックナーを愛し、また故朝比奈のような優れたブルックナーの演奏を生み出したのだと考えるとき、私はブルックナーの音楽の、音楽自体が持つ「神の見えざる手」を強く感じてしまうのは已むを得ないことと考えている。その意味で、今回のハイティンクとカペレのブルックナーは、彼らの宗教心の吐露であり、かつ純音楽としての素晴らしさをも同時に堪能させてくれた名演奏であったのである。私は、個人の祈りを彼らに心より捧げたいと思う。』

 私は、このカペレの来日時の文章の中で、《私はクリスチャンでは無い》、と書き記している。実はこの記述は不正確で、私は洗礼を受けているにもかかわらず、正確な意味においてクリスチャンでは無いのである。このあたりは完全に個人的な事情であるので、詳細は割愛させていただくが、最近になって、自身はクリスチャンであると、公言するに至っている。宗教をめぐる複雑な関係は、普通は日本人にとってもっとも疎い側面であろう。しかし、個人の信仰が、複雑な経緯をたどった私には、この点や、キリスト教の受容との関係は、音楽を聴いたり演奏したりする上で、とても重要なのである。私が、わずか2年半前に書いたことを、あえてここで訂正することまでするほど、この点は重要なのである。

 そして、私は、なぜクレンペラーが最終楽章で大胆なカットを施したのかは、彼自身の宗教受容と深く関連していると信じているのである。クレンペラーは、バッハのマタイ受難曲を録音しているし、宗教音楽の録音を意外なほど多く残している。しかし、その彼がもっとも抵抗を感じたのは、むしろ絶対音楽の中に表れてくるほのかな宗教性であったかも知れないと思い至るとき、ブルックナーの大胆なカットをも、私は許容したいと思うのである。キリスト教を受容するしないに関係なく演奏可能なのは、むしろ完全な宗教音楽であって、反対にブルックナーの音楽自体を好み、その多くを取り上げてきたクレンペラーが、ブルックナーの第8番のほんの一部分に晩年に至ってこだわり、演奏したくなくなったとしても不思議ではない。彼が語ったカットの理由は、多分苦し紛れの言い訳であろう。しかし、言い訳の源流は第8番の最終楽章のどこかに、ヨーロッパ人には理解できる可能性があり、日本人には理解困難な、何か深い理由があったのだと信じる。

 それでも、クレンペラーは第8番の録音を晩年に残してくれたのである。普通ならば、録音自体を拒めたはずであるにもかかわらず、一方では芸術家の良心から、他方個人の信条から、このような不完全かも知れないが、この交響曲の録音が残されたのであろう。そして、彼がこの交響曲のどこに晩年こだわったのかの表面上の部分は分かるが、その真意は永久に分からない。しかしクレンペラーが抵抗を示した場所が、最終楽章の第231〜386、第583〜641小節にあったことは明らかである。これ以上、クレンペラーを追及しようとは思わない。そのように私は彼のこの録音から、現時点では感じており、そして彼の人生そのものを許容しているのである。当然の帰結であるが、この録音も許容している。

 

【最後に】

 

 人間らしい、あまりにも人間らしい、そんな人生の終着点に到達直前のクレンペラーのこころを偲びたいと思うこのごろである。

 宗教に関して、日本人は相手に対して寛容を求めることが多い。しかし、宗教とはそもそも相手に対する、他者への寛容なのである。この宗教に関する意識の差は、とてつもなく大きい。

(2006年11月4日、36年前クレンペラーがこの曲を録音中であった日に記す)

 

(2006年11月27日、An die MusikクラシックCD試聴記)