シュターツカペレ・ドレスデン来日公演2004

5月21日(金) サントリーホール
文:松本武巳さん

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■ 神を畏怖するブルックナーと、神をも恐れぬブルックナー

2004年来日公演プログラム

ハイティンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン
コンサートマスター:マティアス・ヴォロング

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調

 

■ ハイティンクとカペレのブルックナー

 

 5月21日の東京公演(サントリーホール=午後7時開演)を聴いた。私がブルックナーの8番を生で聴くのは、1965年!のクーベリックの大阪公演以来、生まれて2度目のことである(詳しい事情は、「私のクーベリックとの出会い」(昨年7月掲載)をご参照ください)。実に39年の歳月を経て、再びこの長大な楽曲を聴こうと思い立った。そして、今回のハイティンクとカペレの演奏は、結果において私個人の内心の欲求を本当に心より満たしてくれる物であった。

 

■ 客観的な感想あるいは試聴記

 

 ハイティンクとカペレは、14日の東京文化会館を皮切りに、地方公演を経て東京に戻ってきた。この1週間で、彼らの楽器は格段に音が良く鳴るようになり、また技術的にも安定感を増していた。実際、カペレがこんなにも大きな音価で鳴り響く経験を持ったことがなかったので、その点では驚きでもあった。特に金管楽器の響きは、望むべき大音量でもって迫ってきた。しかし、いわゆる大迫力のスペクタクルとは程遠い演奏内容であったことは、14日の初日と何らの変化もなかった。では、どこが、普通の大音量の演奏と異なっていたのか? 私は、カペレがブルックナーを演奏するスタンスと、同様にハイティンクがブルックナーを解釈するスタンスに、近似した物を感じ、そしてそのスタンスは唯一の物ではありえない解釈であるが、私がブルックナーに求めるスタンスとも結果として近似していたが故に、私にとって39年ぶりのブル8生体験は充実したひと時となったのである。繰り返すが、このスタンスがブルックナーを演奏するための解釈として、正当であり絶対であるとは、露ほども考えてはいない。しかし、私は個人としてこのスタンスでのブルックナーが本当に好きで、他の方向性は決して否定するわけではないが、個人の嗜好とは異なっているのである。以下に記すことは、39年の長いブランクと、個人的嗜好から来るとてもマイノリティな戯言かも知れないが、私はいつもその様なブルックナーを好んでおり、かつ、ハイティンクとカペレの演奏と解釈の方向性が、両者の同一性を強く感じる物であったので、私個人は本当に至福のひと時を過ごせたことをとても嬉しく思う。

 

■ 交響曲としてのブルックナーと、宗教的意味合いを帯びたブルックナー

 

 ブルックナーの8番は、当然に「交響曲」のカテゴリーに入っている。しかし、一方で宗教的な楽曲と捉え、その点を強調する向きもまたある。私は、絶対音楽を演奏するにおいて、上記の書き方から見ると意外に思われるかも知れないが、この曲の根本は「絶対音楽」であって、宗教音楽ではありえないと考えている。まずこの点ははっきりと主張しておきたい。ところが、そのことは演奏家のスタンスをも拘束する物で決してありえないことも、また争えぬ事実であろう。実は、私はブルックナーを演奏するときに、個人的なスタンスが明白に晒されてしまう最も重要なことがらは、「演奏家の個人的な宗教心」であると考えている。これは特定の宗教を信仰することでは決してないが、「信心するこころ」が人生を送る上での重要な要素として心の拠り所の一つであることが、許容できる人間か否かで、ブルックナーを演奏する行為の、根本的な方向性が支配されるものと信じている。繰り返すが、宗教心がなければ、良い演奏が出来ないのでは絶対にない。しかしながら、その人の心のありようが、演奏の方向性を支配する楽曲は、ブルックナーの交響曲をおいて他には無いと考え、またその様に信じている。真の宗教音楽の方がむしろその様な枠を持っていない。つまり、ブルックナーの交響曲を演奏するスタンスは、この観点からのみ分析すると、

  1. 絶対音楽として捉え、宗教的な志向も排除する演奏スタイル
  2. 絶対音楽ではあるが、個人の宗教心の吐露なくしては成り立たない演奏スタイル
  3. 宗教音楽と捉え、キリスト教の信仰告白の一形態として演奏するスタイル
  4. 宗教音楽と捉えるが、キリスト教とは切り離して演奏するスタイル

以上に分類できると考える。

 今回のハイティンクとカペレ(ついでに私の好むブルックナー演奏の方向性)が、2.のスタンスであったと、私が主張しようと考えていることは、最早明白であると考える。私の全くの勝手な考えと聴き方では、1.のスタンスでの名演の一つに、故朝比奈の指揮があり、3.のスタンスでの名演の一つに、アイヒホルンがあり、4.のスタンスでの名演の例として、シューリヒトがいると考えている。クナッパーツブッシュは1.のスタンスに近いと思うが、彼の場合、1.と本来最も背反する演奏スタイルである3.とも近接した稀有な方向性を持っていたが故に、彼の演奏の怪物的な要素が見え隠れするのであろうと考えている。

 

■ 私の宗教体験と今回の演奏の個人的な位置づけ

 

 私は6歳より、カトリック教会の日曜学校に通い、中等教育をカトリックミッションスクールで受けた。しかし、私はクリスチャンではないし、ましてや教会の神父様から、一度も「ブルックナー」のことを聞いたこともない。そんな私ではあるが、自らの「宗教心」を形成していく人間の成長期に、キリスト教の人間観とは切り離せない方向性を自らの人間性に刻みこんでいった。それは、通常ヨーロッパ人がカトリックまたはプロテスタントの何れかを信仰し、一方を排撃することも常としてきたにも拘らず、音楽を前にした時に、意外なほど、他者に寛容な演奏行為を行ったこととも何らかの関連性があると考える。彼らが3.のスタンスを取っていたならば、オーケストラ曲であるブルックナーの交響曲は演奏不可能であったであろう。一方、ブルックナーの交響曲が敬虔な祈りの部分を含む事実を前にしてみると、宗教的な個人の「こころ」を無視しては、演奏の方向性を決め得なかったことも正しいと考えている。そのように考えることが、結果として、キリスト教に無関係な日本人がブルックナーを愛し、また故朝比奈のような優れたブルックナーの演奏を生み出したのだと考えるとき、私はブルックナーの音楽の、音楽自体が持つ「神の見えざる手」を強く感じてしまうのは已むを得ないことと考えている。その意味で、今回のハイティンクとカペレのブルックナーは、彼らの宗教心の吐露であり、かつ純音楽としての素晴らしさをも同時に堪能させてくれた名演奏であったのである。私は、個人の祈りを彼らに心より捧げたいと思う。

 

(2004年5月24日、An die MusikクラシックCD試聴記)