An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」
マーラー篇
文:青木さん
「交響曲第9番」の呪縛のひとつ――9番を書くと死ぬ――から逃れようとして番号なしの交響曲「大地の歌」を作曲。その後とりかかった声楽なしの交響曲に、忍び寄る〔死の影〕を反映させずにはいられなかったグスタフ・マーラー。複雑で深遠な内容を持つこの曲の演奏には、第7番(あるいは第8番)までの方法論が通用しないこともあるようでして、ショルティの全集などはその最たるものではないでしょうか。そういえばシカゴ交響楽団との第2番「復活」を〔ぼくはこんな無機的な演奏は願い下げだが〜〕と酷評しながらも推薦していた妙な評論家がいましたが、極限までつきつめられたそのメカニカルな迫力や技巧面の完璧性が、ある種の説得力と抗しがたい魅力を持っているのがショルティのマーラーだと思います。でもその例外が第9番で、壮大な音響の大伽藍は曲想から大きく逸脱してしまい、かといってその虚しさが死の虚無感につながっているわけでもありません。指揮者の思い入れのなさが裏目に出てしまい、空疎で外面的。これはいただけませんです。
しかしながら、ドス黒い情念が渦巻くエモーション過剰な演奏なんてのも個人的には好むところではないですし、ただ優美なだけでもダメ。ま、Aを持ち上げるためにBやCを「愚鈍のきわみといえよう」などとこき下ろす論旨展開はその某評論家みたいで品がないので、悪例を挙げるのはショルティ盤だけにしておきますけど、そこで浮かび上がってくるマイ・ベストはといえば、伊東さんも採りあげておられるジュリーニ盤なのです。
マーラー
交響曲第9番 ニ短調
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮シカゴ交響楽団
録音:1976年4月 メディナ・テンプル、シカゴ
ドイツ・グラモフォン(国内盤:ポリドール UCCG30001/2)指揮者の歌心とオーケストラの機能美がよい方向で結びついた、美しくも力強い演奏。伊東さんが書かれているとおりです。内容充実でどっしりした聴きごたえがあり、なおかつ陰鬱でないのがいいです。この印象はしかし、どの再発盤にも採用されていたジャケット写真のイメージも影響しているのではないでしょうか。ジュリーニのダンディな格好を見れば寒そうな気候ながら、明るい陽光が降りそそいでいる。夏の日差しでもなく冬の曇天でもないその季節感が、演奏の内容と絶妙にマッチしていて、なかなかの名ジャケットだと思います。
さて、ワタシが持っているディスクはシューベルト「未完成」との組み合わせで、”ORIGINALS”シリーズの国内盤。OIBP(ORIGINAL-IMAGE-BIT-PROCESSING)方式でリマスタリングされた最初のCDだったと思います。傾けてあしらわれたオリジナル・ジャケットが不評のシリーズですが、裏表紙には加工前のジャケット写真が小さいながらも掲載されてますし、英『グラモフォン』誌の批評の一部やディスクの受賞暦のクレジットもあります(”Record Academy Prize,Tokyo 1977”なんてものまで)。さらに原ライナーノートは現在の目から見て演奏の内容にも触れた書き下ろしの解説で、国内盤にはその翻訳が掲載されているので、つい高価な国内盤を買ってしまうシリーズでもあります。それによりますと、ジュリーニはこの録音にあたって15時間のリハーサルを要求したとのことで、ギャラがバカ高かった当時のシカゴ響のレコーディング・セッションとしては異例の待遇と思われます。ジュリーニ曰く、この曲の演奏で重要なことは〔まず音と奏法が正しいこと〕だそうなので、綿密なリハーサルを求めたのでしょう。特別な響きと作品が持つ雰囲気・構造に対する並はずれた理解をマーラーが要求しており、オーケストラがそれを理解しないといけない、とも述べていたそうです。
ジュリーニ&シカゴ響は、このマーラーがDG初録音ですが、その後もEMIに何枚か入れています。これはなにか特別な事情や努力もあって実現したレコーディングのような気もしたりして、そんなことを考えさせるほどずっしりとした重みのあるスペシャルかつプレシャスな一組です。
(2007年12月10日、An die MusikクラシックCD試聴記)