21世紀のバッハ
文:青木さん
この「音の招待席」のラインナップ、これまでのところ20世紀の作品ばかりが並び、採りあげたCDのほとんどは60〜70年代のアナログ録音。これではちょっとばかり偏りすぎではないか。当方普段はもう少し幅広く聴いているので、ここらでバランス修正というわけでもないが、今回はいきなり18世紀前半までさかのぼったうえでここ数年の最新録音盤を揃えた。いざ、”21TH-CENTURY BACH”の世界にご招待。
■ 二枚のコンセプト・アルバムについて
とはいえバロック音楽をさほど好まぬワタシにとって、音楽の父たるヨハン・セバスティアン・バッハその人の偉大さをいまひとつ実感できないことは残念至極にして無念千万、最大の痛恨事。普通に愛好できるのはブランデンブルクとか管弦楽組曲、あとは例のオーケストラル・バッハ、その他少々という程度に過ぎない。膨大な器楽曲や声楽曲の数々など、どこから手をつけていいのやら戸惑うばかりだし、少し試してみるとどれも同じような曲に聴こえたり・・・という有様。二度実演に接した「マタイ受難曲」などは、いずれも居眠りしていた時間のほうが長かった。情けない。
マタイといえば、バッハには共感をおぼえないと公言して憚らぬ某音楽評論家が、学生時代にアマチュア合唱団で歌ったマタイだけは例外だと本に書いていた。音楽を学んだ知人が「バッハを自分で弾くとある種の快感を覚える」と語っていたことも思い出す。バッハの音楽は、実際に演奏するのとただ聴くだけなのとでは理解や愛着に大きな差が出るものなのか。だからといっていまさらどうにもならないのがもどかしい。
さて、一昨年から昨年にかけて発売された下記の二枚のCDは、いずれも全曲の中から抜き出した曲を中心に構成されたもの。そのため一種の「企画盤」と扱い、全曲盤よりも価値が低いかのような論調の批評や感想がいくつも見られた。だが、全曲盤/企画盤という単純な二元論でいいのだろうか。CDという商品である以上、そこに何らかの企画性があることは当然であり、問われるべきは企画の質(とそれに見合った結果を得られたかどうか)だろう。その点でこの二枚は、演奏者自身によるしっかりしたコンセプトのもとにまとめられた個性的なアルバムであり、オムニバス盤のような狭義の企画盤とはまるで別次元の作品だ。バッハに縁遠いワタシのようなリスナーにとっても手を出しやすい、この上なくありがたいCDでもある。ようやく巡りあえたバッハ大名盤(※個人の感想です)、それが一部でヘンな企画盤と誤解・敬遠されて聴かれずにいるとすれば忍びない話なので、採りあげさせていただく次第。
■ グリモーの「バッハVSバッハ・トランスクライブド」
J.S.バッハ
- 前奏曲とフーガ 第2番 ハ短調 BWV847 (平均律クラヴィーア曲集第1巻から)
- 前奏曲とフーガ 第4番 嬰ハ短調 BWV849 (平均律クラヴィーア曲集第1巻から)
- ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 BWV1052
- 前奏曲とフーガ 第6番 ニ短調 BWV875 (平均律クラヴィーア曲集第2巻から)
- シャコンヌ ニ短調[ブゾーニ編曲] (無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 BWV1004からの編曲)
- 前奏曲とフーガ 第20番 イ短調 BWV889 (平均律クラヴィーア曲集第2巻から)
- 前奏曲とフーガ イ短調[リスト編曲] (オルガンのためのBWV543からの編曲)
- 前奏曲とフーガ 第9番 ホ長調 BWV878 (平均律クラヴィーア曲集第2巻から)
- 前奏曲 ホ長調[ラフマニノフ編曲] (無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第3番 BWV1006からの編曲)
ピアノ:エレーヌ・グリモー
ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(リーダー:フローリアン・ドンデラー)(3)
録音:2008年5月 ハンブルク=ハールブルク(3)、2008年8月 ベルリン(1,2,4-9)
ドイツ・グラモフォン (国内盤:ユニバーサル UCCG1426)ドイツ・グラモフォンにおけるグリモーのCDはいわゆる「コンセプト・アルバム」が並んでいるが、現時点ではこれがもっとも徹底した内容だと思う。国内盤のオビに書かれた宣伝文を以下に転記。
- グリモーが究めるバッハ宇宙の本質。彼女ならではの個性的なコンセプト・アルバム。
- 「どうしてバッハの音楽はあらゆる人を感動させ、その心に語りかけることができるのだろうか、と不思議に思ったのがこのアルバムを作るきっかけとなりました。私はその普遍的な力の秘密を突きとめたかったのです。」ライナーノーツから
- バッハのオリジナル、『鍵盤の旧約聖書』とさえ呼ばれる《平均律クラヴィーア曲集》の中からのセレクションと、バッハ作品のピアニスト=作曲家による敬意に満ちた編曲作品。調性をキーに並べ、この偉大な作曲家の本質に深く切り込んだグリモーの意欲作!
補足すると、最初に平均律第1巻から2番と4番を置き、続いてはピアノ協奏曲第1番で、ここまでが前半。後半はA=ブゾーニ、リスト、ラフマニノフによる編曲作品、B=平均律第2巻からの曲とすると、AとBから同じ調性のペアを3つ作って並べ置く。さらに、ピアノ協奏曲もバッハ自身によるチェンバロ協奏曲の編曲と捉えると、編曲作品と平均律からの作品とが交互に並ぶことにもなる。「バッハVSバッハ・トランスクライブド」というアルバム邦題は、そのあたりを表しているのだろう。
実に凝った構成に唸らされるが決して頭でっかちの理屈先行型ではなく、聴感上でも中央に位置する「シャコンヌ」がクライマックスを築き、一枚のCDとして絶妙の流れが形成されているのがすごい。そしてそれらの演奏は、キリリと凛々しい佇まいの中に無味乾燥に陥らない程度の清冽な情緒を漂わせ、「凛々シズム」とでも形容したくなるような麗しさ。選曲・構成のコンセプトに沿った表現の充実ぶりが伝わってくる。
「バッハ作品においては演奏する楽器が重要事項ではないことを示したい」ことがこのアルバムの着想だったと、グリモーは語っている。シンプルに”BACH”とだけ付けられた原題。自身とピアノとが一体化したかのようなジャケット写真。そのタイトルと演奏者名の文字は、背景ではなくピアノの中に配置されている。こういったことに意味があるとすれば、宣伝文にあった「グリモーが究めるバッハ宇宙の本質」は、あながち大げさとも決めつけられない。自らの表現手段であるピアノによってバッハに迫ろうとした彼女の意欲が伝わってくるようだ。
それがどこまで達成されたのか。評価は、聴く側の受け取り方によってさまざまだろう。個人的には、バッハに対するグリモーの世界観を味わうべきアルバムとして大いに成功していると思う。平均律全曲を聴きたくなるような物足りなさのようなものは、繰り返し聴いてもまったく感じなかった。実在感にやや欠ける音質にはいま一歩の感を否めないものの、それ以外は文句なし。同じコンセプトでもう一枚作ってほしい気もするが、そういうことをしないのがグリモーという人なんだろうな、たぶん。
■ ハーンの「バッハ ヴァイオリン&ヴォイス」
J.S.バッハ
- マタイ受難曲 BWV244から 第51曲 アリア〈私のイエスを返してくれ!〉
- カンタータ 第140番《目覚めよ、とわれらに声が呼びかける》BWV140から 第3曲 二重唱〈いつ来てくださるのですか、私の救いよ〉
- カンタータ 第204番《私は自分の中で満ち足りている》BWV204から 第4曲アリア〈この広い大地の宝が〉
- カンタータ第32番《慕わしいイエス、私の願いよ》BWV32から 第3曲 アリア〈ここ、父の住み家に〉
- カンタータ第205番《破れ、砕け、こぼて墓穴を》BWV205から 第9曲 アリア〈心地よい西風よ〉
- ミサ曲 ロ短調 BWV232から 〈私たちはあなたを讃美します〉
- カンタータ第157番《あなたを離しません、祝福してくださらなければ》BWV157から 第4曲 アリア〈そうだとも、私はイエスに固くすがる〉
- カンタータ 第59番《私を愛する人は、私の言葉を守るだろう》BWV59から 第4曲 アリア〈すべての王国をもつ世も〉
- カンタータ 第58番《ああ神よ、いかに多き胸の悩み》BWV58から 第3曲 アリア〈私は苦難の中でも満ち足りている〉
- カンタータ 第117番《讃美と栄光がいと高き宝にあるように》BWV117から 第6曲 アリア〈慰めと助けは、いつかは必ず欠ける〉
- カンタータ 第158番《平安がお前にあるように》BWV158から 第2曲 アリアとコラール〈世よさらば、私はお前に疲れた〉
- マタイ受難曲 BWV244から 第39曲 アリア〈憐れんでください〉
- ヴァイオリン:ヒラリー・ハーン
- ソプラノ:クリスティーネ・シェーファー
- バリトン:マティアス・ゲルネ
- アレクサンダー・リープライヒ指揮ミュンヘン室内管弦楽団
- チェンバロ、オルガン:北谷直樹
- テオルボ(バロック・リュート):ロザリオ・コンテ
- チェロ:クリスティン・フォン・デル・ゴルツ
- フラウト・トラヴェルソ(バロック・フルート):ヘンリク・ヴィーズ(7)
録音:2008年12月,2009年4月 ミュンヘン
ドイツ・グラモフォン(国内盤:ユニバーサル UCCG1466)これもまたユニークな内容のアルバム。マタイ受難曲からのアリアを冒頭と末尾に配し、中間にはロ短調ミサからの一曲を置いて、その間にカンタータからのアリアや重唱を散りばめる。セレクトされているのはいずれもヴァイオリンのオブリガートを伴う曲。声楽作品だけで占められたヴァイオリニストのリーダーアルバムなど前代未聞だろう。企画の主役はハーンだが、ジャケットの写真と文字において、彼女と二人の歌手とはほぼ対等に近い扱い。音のほうも同様で、ヴァイオリンをクローズアップするような演奏でも録音でもない。ハーンのファンにとっては物足りないだろうし、声楽作品の全曲主義者からも不満が出るような、いたって中途半端な作品集とみなされてしまう可能性は十分だ。そんなリスクを冒してまでこのアルバムの制作を望んだハーンの意図はどこにあったのか。
といったことを考えつつ、これがLPなら「針を落とすと」と書くところだがCDなので「リモコンのスタート・ボタンを押すと」となるのが味気ない。しかしとび出してきた音は、まさにそのデジタル時代を象徴するかのような「マタイ」の演奏。これは批判ではなく、キビキビと躍動感あふれる鮮烈なその演奏が手持ちのヨッフム盤とはまるで別物で、両者のあまりの相違に驚いた挙句、そのような感想となった次第。この冒頭曲で一気に引きこまれた。
これに続くカンタータの配列順序にグリモーのようなこだわりは特にないようで、流れ的には散漫な印象もないではないが、これぐらいのほうが演奏の傾向にむしろふさわしい。クリアでカッチリしているもののひんやりした冷徹さを感じさせる類のものではなく、あくまで明るく伸びやか。ヴァイオリン・声楽・伴奏楽器の対話には親密さが漂う。ヴァイオリン協奏曲でもなければ声楽曲でもなく、これは室内楽の方法論なのだろう。そして、冒頭のアリアと対になっているという終曲では、シェーファーの美声にまさに「寄り添う」としか表現できないハーンの演奏、そのなんという美しさ・・・こうしてアルバムは余韻を残しながら幕を閉じる。すばらしい。
宗教曲で歌われている内容に関心を持てない不信心なワタシでも十分楽しめる秀逸な一枚に仕上がったこのCDは、全曲盤にステップアップする前の初心者ガイドなどではなく、一つの完結した世界観の現れだ。その点でグリモーのバッハと双璧をなす傑作だと思う。唯一の蛇足は、ジャケット右上に背後霊の如く浮かぶJ.S.バッハの肖像画だとイエヨウ(苦笑)。
■ シャイーの「マタイ受難曲」
J.S.バッハ
マタイ受難曲 BWV244
- テノール:ヨハネス・チャム(福音書記者)
- マクシミリアン・シュミット(独唱/証人II)
- バス:ハンノ・ミュラー=ブラッハマン(イエス)
- トーマス・クヴァストフ(独唱/祭司I)
- クラウス・ヘーガー(ユダ/ペトロ/ピラト/祭司II)
- ソプラノ:クリスティーナ・ランズハマー(独唱/女中I/ピラトの妻)
- アルト:マリー=クロード・シャピュイ(独唱/証人I/女中II)
- ライプツィヒ聖トーマス教会聖歌隊(合唱指揮:ゲオルグ・クリストフ・ビラー)
- テルツ少年合唱団(合唱指揮:ゲアハルト・シュミット=ガーデン)
- リッカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
録音:2009年4月2-3日 ライプツィヒ、ゲヴァントハウス (ライヴ録音)
デッカ(輸入盤:UNIVERSAL 478 2194)ハーン盤で特に印象的だったマタイからの二曲を、手持ちのヨッフム盤で聴き比べてみた。オーケストラはアムステルダム・コンセルトヘボウ管、1965年のフィリップス録音。第1曲を除いて一回しか聴いていないCDだ。独奏ヴァイオリンは「憐みたまえ、わが神よ」がヘルマン・クレバース、「わたしのイエスを返してください」がヨー・ユダ。当時の二人のコンマスが弾き分けている。遅いテンポと重厚な響き、暖色系の音彩、そしてたっぷりのホール・トーン。これぞコンセルトヘボウ・サウンドというべき響きにもかかわらず、どうも魅力を感じない。おお友よ、このような音ではない! もっとナウくてイカしたマタイが聴きたいんや!
などと死語も交えつつ切望していた頃にちょうど登場したのがシャイー盤。「マタイ受難曲」と「ドン・ジョバンニ」が最重要作品だと公言してきたシャイーが、バッハと縁が深くメンデルスゾーン・ディスカバリーズでも好演を展開した手兵ゲヴァントハウス管を指揮し、録音済と伝えられたコンセルトヘボウ盤をお蔵入りにして世に問うデッカ最新録音だ。こんなのがタイミングよく発売されるとは、これを聴けという神のお告げに違いない。あるいはハーンの数ヵ月後にこれを出すのがユニバーサル社の発売戦略だったのかもしれず、だとすればまんまと彼らの思う壺にはまってしまった格好だが、それはまあよろしい。さっそく買って聴いてみた。
2枚組で収まっていることからも想像がつくように速めのテンポで快調に進行し、管弦楽もコーラスもビューティフルな響きが印象的。独唱、特にテノールとアルトもまたひたすら美しい。演奏は総じてキビキビした明快なもので、メリハリもよく利いている。こんなに耳当たりよく分かりやすくていいのかと疑問を抱きながらも、最後までほぼ一気に聴き通すことができた。そしてこの作品の巨大なスケールと創意工夫に満ちた密度の濃さが実感でき、名曲と呼ばれるにふさわしい内容を持つ傑作であることをようやく納得。だからといってJ.S.バッハの偉大さの理解にはまだまだ至らないのだが、その一端をつかめた気分にはなった。
というわけでこのCDは概ね期待通り。その点では満足できたものの、さてこれが歴史に残るほどのディスクかと問われれば、ワタシにはどうにも答えられない。当曲のいわゆる名盤をほとんど聴いていないので比較のしようがないからだが、それらはもっと重厚だったり深刻だったり劇的だったり革新的だったりするらしい。そういう価値観で語ろうとすれば、このシャイー盤など比較対象にも挙がらないだろう。しかしこの馴染みやすさと完成度は、これはこれで得がたい個性だと思う。他とは違う個性を備えたCDを作ることは、そもそもシャイーのポリシーだったわけだし。それに世評がどうあろうと、最終的には自分が満足できればそれでいいのだ。それを言っちゃあオシメエかな?
■ 蛇足の情報
グリモー盤に入っていたピアノ協奏曲第1番BWV1052はチェンバロ協奏曲として作曲されたとのことですが、第4番BWV1055は原曲がオーボエ・ダモーレ協奏曲とされています。その第3楽章をテーマ曲として使っていたテレビ番組こそが、当ページのタイトルのネタ元である桂米朝師匠の『味の招待席』だそうです。まことに畏れ多い極みでございます。
2010年6月14日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記