青ひげ蒐集譚 〜 バルトーク「青ひげ公の城」

文:青木さん

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バルトーク
歌劇「青ひげ公の城」 Sz.48、作品11

[CD1]

CDジャケット

アンタル・ドラティ指揮ロンドン交響楽団

  • バス:ミーハイ・セーケイ
  • ソプラノ:オリガ・セーニ

録音:1962年7月19-21日 ロンドン郊外、ワトフォード・タウン・ホール

  • プロデューサー:ウィルマ・コザート(Director)、ハロルド・ローレンス(Musical Supervisor)
  • エンジニア:C.ロバート・ファイン

マーキュリー(国内盤:マーキュリー・ミュージック・エンタテインメント PHCP10250)
※ベルク「ヴォツェック〜3つの場面」と組み合わせ

  [CD2]
CDジャケット

イシュトヴァン・ケルテス指揮ロンドン交響楽団

  • バリトン:ヴァルター・ベリー
  • メゾソプラノ:クリスタ・ルードヴィヒ

録音:1965年11月9-12日 ロンドン、キングスウェイ・ホール

  • プロデューサー:エリック・スミス
  • エンジニア:ケネス・ウィルキンソン

デッカ(国内盤:ポリグラム POCL4523)

  [CD3]
CDジャケット

フィレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団

  • バリトン:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
  • ソプラノ:ヘルタ・テッパー

録音:1958年10月 ベルリン、イエス・キリスト教会

  • プロデューサー:オットー・ゲルデス
  • エンジニア:ヴェルナー・ヴォルフ

ドイツ・グラモフォン(国内盤:ポリドール POCG3347)

 

■ 集めることと並べること

 

 少し前に、あるジャズ系のメーリングリストで「コレクターの悩み」が話題になりました。大量に集めた音源や映像をこの先の人生でどれだけ聴いたり観たりできるのか・・・なにもかも手元に置いて収納に苦労するより常に入手可能な定番アイテムは手放してもいいのではないか・・・自分が死んだあとこのコレクションはどうなるのか・・・みたいな話で、ワタシも身につまされることしきり。

 あるテーマのものが集まってくると、もっと手に入れたい、そしてすべて集めたいと思うようになっていきます。この蒐集癖が嵩じると、いつしか探し集めて所有すること自体が目的化しはじめ、本末転倒の領域へ突入。しかしその問題の是非はさておき(いいのか?)、集めたものを分類整理する楽しさというものもありまして。

 自宅でクラシック系CDをラック等に並べる場合の最初の大分類を、大型ショップのように作曲家名のABC順にしたりレコ芸みたいに「交響曲→管弦楽曲→協奏曲→室内楽曲→・・・」と配列したりする人、どのくらいいるんでしょうか。網羅的なものならそれもアリでしょうけど、個人のコレクションは嗜好に応じた偏りがあるはずなので、好きな分野は数も多くなって分類も細かくなりがちだし、そうでない分野はおおざっぱな分類でかまわない。

 ワタシの場合はというと、いきなりヘボウ/シカゴ/カペレ/それ以外の四つに大分類。各オーケストラ・グループの中分類は指揮者別。「それ以外」の中分類はレーベル別。それぞれの小分類が作曲家別。以上は原則で、例外も多数あり。同一テーマのまとまりのよさ、探しやすさ、背面のビジュアルなども考慮し、試行錯誤しながらあれこれ並べ替えたりするのも楽しい時間だったりします。

 

■ 博物学の歌劇

 

 「青ひげ公の城」は、実のところそういうテーマの歌劇なのである。というとらえ方のヒントが『バルトーク』(伊東信宏,中央公論新社[中公新書],1997)という本に書いてあり、なるほどと得心しました。コダーイとともにハンガリー各地の民謡蒐集に精を出したバルトークは、集めた膨大な民謡を自分なりの方法で整理・分類することにも異常な情熱を傾けたそうです。それこそ博物学的な分類作業それ自体が目的化していったほどだったとか。そんな彼が、コダーイが多忙を理由に興味を示さなかったバラージュの台本に共感し作曲を手がけることにしたのは、その内容が「コレクターの夢、あるコレクションの完成の物語」だったからではないか。言われてみればもっともです。

 7つの扉の向こうはコレクション・ルーム。それらの中に青ひげ秘蔵の蒐集物が分類され納められている。自らのオタク的性向がバレるのを恐れて「扉を開けてはイカン」などと言いつつも、そこはコレクターの悲しい性、結局は自慢のコレクションをユディットに見せびらかして悦に入る青ひげ先生。どうせ彼女は7号室の最終アイテムさ・・・だがこれでコレクションが完成してしまうとこの先オレは何を集めればいいんだ・・・嗚呼この世は闇だ・・・みたいな。陰湿で凄惨で辛気くさいとこの作品を敬遠している方も、こういう側面から見てみれば興味がわき、違った聴きかたもできるのではないでしょうか。

 

■ CD概要

 

 という次第で、コレクターによるコレクターのためのコレクターの歌劇「青ひげ公の城」。本稿タイトルの「青ひげ蒐集譚」は単に山本周五郎の『赤ひげ診療譚』のモジリにすぎず、ワタシ自身がこの曲のCD蒐集に耽っているという話ではないんですが、それでもいつの間にか手元には6種類が。フリッチャイ、ドラティ、ケルテス、フェレンチク、ショルティ、ブーレーズ。コダーイのときと同様にハンガリーの指揮者が並びました。その例外であるブーレーズ新盤がこの中では最新の録音で、もっともつまらぬ演奏でもあります。オケコンの聴きくらべから推察すると旧盤のほうがよさげなんですが、それはまだコレクションに加えておりません。フリッチャイ盤はドイツ語歌唱という特殊なもので、やはりところどころ違和感が。ショルティの手持ち盤はCDではなく映画版のDVDで、映像作品として上出来だとは思うもののビジュアルイメージがあまりに限定・固定されてしまうため、ここで採りあげるのはためらわれる。フェレンチェクの70年盤(フンガロトン)は存在自体がほとんど知られていないようで入手もほぼ不可能とくれば、これも割愛するしかない。残る二枚はドラティとケルテスで、ロンドン響対決ということになってしまいそうです。

  なお、以上6種のうちブーレーズ盤のみナレーション的な「吟遊詩人の前口上」から始まります。ショルティのCDにも入っているらしいんですが、その音源をサウンドトラックに使ったという映像版ではカット。他のハンガリー人指揮者たちがそろって最初から省略しているのは興味深いことです。一方でハイティンク、インバル、レヴァインらの録音には入っているらしい。

 上記CDについてですが、ドラティ盤は現時点でブリリアントから安く出ています。ケルテス盤の国内盤は、上記の「栄光のロンドン・サウンド・シリーズ」のあとに「デッカ・レジェンド」シリーズとSACDで再発。フリッチャイ盤は、上記の「フリッチャイ・エディション」シリーズのあとに「オリジナルス」シリーズで出ていました。

 

■ ロンドン・シンフォニー・オーケストラ

 

 ドラティは、トータル的にはクールに醒めた切れ味鋭い表現ながら男っぽい熱気に満ちてもいるという、不思議なバランスの演奏。楽曲全体に対する見通しのよさが感じられ、それが一歩引いた俯瞰的スタンスを思わせて、ひいては醒めているという印象につながったようです。切れ味の鋭さは35mmマグネティック・フィルムを使用したというマーキュリー・リヴィング・プレゼンス録音の威力でしょう。驚愕のサウンドです。細部を拡大するかのようなその音響を不自然に感じる向きもあるでしょうが、この場合は演奏や楽曲の個性によくマッチしていますので、むしろプラスに働いていると感じます。バルトーク本人が完全に信頼を置いていたというセーケイの堂々たるバスがさすがの説得力。

 これに対してケルテスはよりオーソドックスな演奏であり録音なんですが、細部の詰めにちょっとした甘さが感じられ、これはケルテスにしばしば見られる現象。それでもトータルのバランスがとれていて管弦楽の迫力にも不足なく、総体的にはよい演奏だと思います。ケルテスはコダーイと異なりバルトークの録音をほとんど残さなかったので、その意味でも貴重な遺産。それにしてもドラティ盤とケルテス盤、時期的には3年の差しかないのに、同じオーケストラとは思えないほど異なるサウンドです。

 ロンドン響の演奏はこのほかに、ゲルギエフ指揮によるライヴ盤が自主制作CDで出ています。「青ひげ公の城」を三回も録音するとは、さすが”The world's most-recorded orchestra”を自認するロンドン響ならでは。このオーケストラの公式ディスコグラフィは非常におもしろいもので、単なるデータの羅列ながらさまざまに読み解く楽しさを得られることは、鉄道マニアにとっての時刻表の如し。たとえばこのドラティ盤の録音は62年7月の19〜21日ですが、それと重なる19〜20日にはシェーンベルク「5つの小品」、21日(と14日)にはベルク「3つの管弦楽曲」も録音、また20日にはベートーヴェン「田園」の3日目のセッションも入っている。前後の18日と22〜23日はシェリングとブラームスやチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、また22日にはウェーベルン「5つの小品」、23日にはベートーヴェン「エグモント序曲」も録音したという慌しさ。アタマの切り替えの達人でなければロンドン響の団員にはなれません。

 

■ フリッチャイ渾身の至芸

 

 ケルテスのところでコダーイに触れましたが、コダーイといえばフリッチャイがよかったよなぁ・・・バルトークも名演ぞろいなんだよなぁ・・・といった思いが脳裏を去来し、改めてフリッチャイ盤を聴いてみることに。脳内イコライザーで声楽を意識から締め出して管弦楽に集中することは得意です。するとハンガリー語でないことの違和感もなくなり、もの凄いオーケストラ・サウンドの虜になってしまいました。

 なんというか、音の深みが違います。拷問部屋では異様な緊張が張りつめ、宝物庫には鈍い光がきらめく。広大なる領地の展望を示す壮麗な全合奏にもほの暗い色彩が感じられ、重苦しい曇天が目に浮かぶかのよう。涙の湖を表すフレーズの空虚さは、それが最晩年にオケコンで引用されたことの意味を考えさせられる。そしてラストに漂う無常感。

 この歌劇がコレクターの物語だとして、蒐集の過程において生じたであろう悲惨な犠牲も、そうまでして行う蒐集という行為の虚しさも、すべて飲み込み諦観しているような深い表現。もしやフリッチャイ自身もなにかのコレクターだったせいで、内容に共感できたのでしょうか。とにかく別次元の名演です。こういう演奏に接すると、「男と女の心理劇」とは別の一面から見たとしても、やはり陰湿で凄惨で辛気くさい作品であることには変わりないと思い至らずにはいられません。

 今回はえらいところにご招待してしまいました。

 

2010年6月4日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記