シャイーの新ブラームス交響曲全集

文:青木さん

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CDジャケット

ブラームス

  • 交響曲第1番ハ短調 op.68
  • 交響曲第3番ヘ長調 op.90 [以上Disc1]
  • 交響曲第2番ニ長調 op.73
  • 交響曲第4番ホ短調 op.98
  • 交響曲第4番〜もうひとつの冒頭 [以上Disc2]
  • 悲劇的序曲 op.81
  • 間奏曲 op.116-4 & op.117-1(ポール・クレンゲル編)
  • ハイドンの主題による変奏曲 op.56a
  • ワルツ集「愛の歌」op.52-1,2,4,5,6,8,9,11 & op.65-9 (ブラームスによる選曲と編曲)
  • 交響曲第1番〜第2楽章(初演版)
  • 大学祝典序曲 op.80
  • ハンガリー舞曲集(ブラームス編)第1番ハ短調、第3番ヘ長調、第10番ヘ長調 [以上Disc3]

リッカルド・シャイー指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
録音:2012年5月,10月、2013年3月,5月 ライプツィヒ、ゲヴァントハウス
デッカ(国内盤:ユニバーサルミュージック UCCD1388-90)

 

■ レコード会社による商品紹介文の転記 

 

 『ベートーヴェンに続き、伝統あるオーケストラに新風を吹き込むシャイーのブラームス。この3枚組では、交響曲全曲といくつかの管弦楽曲に、世界初録音となる間奏曲(ピアノ曲からの編曲)やブラームス自身のオーケストレーションによるワルツ集《愛の歌》を収録。さらには、交響曲第1番第2楽章の初演版、あとから削除された交響曲第4番の冒頭など、資料的価値の高い録音も収録されています。一度は聴いておきたい録音です』

 

■ 交響曲の演奏 

 

 2014年1月発売の国内盤(SHM-CD、プラケース)を購入。海外盤(CD、特殊パッケージ)は前年9月に出ていて、先入観を持たぬようその世評は見ないようにしていたのだが、うっかり目に入ってしまった中では「テンポの速さ」への言及が目立った。でも実際に聴いてみるとベートーヴェン全集ほど極端ではなく、これなら妥当な範囲内だと思う。減速してタメをとり見得を切るような箇所がないので速く感じられるのかもしれないが、同傾向のベイヌムやドラティを聴きなれた耳には、このほうが違和感がない。とはいえ、リピートを遵守しているにもかかわらずCD二枚に収まっていることからもわかるように、速めであることは事実。そのテンポにもかかわらず旋律はしっかりと歌わせ、対旋律もクリアに前景化させて、シンフォニックな迫力にも過不足なし。実演やリハーサルを重ねて周到に練り上げてきたのではないだろうか。響きはタイトでややスリムだが、これに独特の翳りを湛えたオーケストラの質感豊かな音色がうまくマッチして、いわば辛口大吟醸な“男のブラームス”。あたかもドラティ盤(マーキュリー)を美しく磨き上げたかのような、いたってワタシ好みのブラ全だった。

 作品別では、個人的にあまり好みではない第3番にもっとも聴きごたえを感じたことが大収穫。枯淡や憂愁に偏らず、「ブラームスの英雄交響曲」的な方向にも走ることもなく、キッパリした風格と適度なダイナミズムが理想的だと感じる。この表現スタイルが曲想に素直にマッチしている第1番が、客観的にはもっとも成功しているかもしれない。逆に少々もの足りなさを覚えるのが第2番の前半二楽章で、もうちょっと伸びやかな風通しの良さがほしかった。後半は最高。そして第4番。異色の名演というほかない。どこがどう異色なのかをうまく言葉にできず実にもどかしいのだが、偏愛している録音(マルケヴィチやジュリーニ)と今はまだどうしても比較してしまうからそう感じるだけで、そのうち馴染んでしっくりしてくる気もする。哀切感や寂寥感はドライに排し、充実したサウンドを響かせることに特化したかのような、ある意味で痛快ともいえる演奏。

 以上、ややオーバーに記したけれども実際には出来栄えのムラは小さく、大いに楽しめる全集だった。ただしブラームスの作風の一側面である野暮ったさや田舎っぽさは感じられず、上方言葉でいえばモッチャリしたところのないシュッとした佇まい。このあたりで好悪が分かれるかもしれない。 《⇒参考盤[1]》

 

■ 交響曲の異稿 

 

 ブラームスは交響曲第1番の第2楽章を初演のあとで書き直したとのことで、残されているパート譜から復元された初演版スコアを使った演奏も収録されている。いかにも「整理前の途中経過です」という残念感は、以前に聴いたときと同じ印象だった。聴きなれた改訂版との比較なので、それも仕方のないことかもしれない。だが創作過程を垣間見られるという興味深さは、『メンデルスゾーン・ディスカヴァリーズ』にも共通する。ライナーノートによると初演時の人数(弦が8-8-4-4-4)で録音されているとのこと。

 交響曲第4番の直後に収録されている「もうひとつの冒頭」は、なんだかよくわからない録音だ。第1楽章の終結部がフェード・イン風に始まり、続いて第4楽章冒頭を思わせる和音が奏でられ、本来の冒頭部につながって、すぐにフェード・アウト。0分46秒。作曲者自筆スコア(CDブックレットに掲載)の通りに演奏しているようで、ライナーノートに解説もあるのだが、原文のせいか翻訳がまずいのか、意味を理解しにくい。 《⇒参考盤[2]》

 

■ 管弦楽曲 

 

 三枚組の交響曲全集なのに、交響曲は二枚で終了。通常は交響曲の余白にフィルアップされる管弦楽曲だけを残る一枚に集約するという、ちょっと妙な構成だ。二つの序曲とハイドン変奏曲という定番三曲、ハンガリー舞曲集から作曲者自身の編曲による三曲に加えて、上記の交響曲異稿の一つがここに入っており、さらに馴染みのない作品が二つ並んでいる。特に世界初録音とされる「二つの間奏曲」の編曲者は、ゲヴァントハウス管の「伝説的ソロ・チェロ奏者」と言われた人物の兄だそうで、今のシャイーならではの筋が通った選曲といえるだろう。九曲を連ねたワルツ集「愛の歌」の管弦楽版も珍しいもので、こういうレア・アイテムでもって全集盤の付加価値を高めるという企画は歓迎したい。このまま単売するのは難しそうだけれど。

 なお定番曲については交響曲ほど個性的な演奏ではないと感じたが、9:24というスピードでハイ・テンション気味に進む「大学祝典序曲」がおもしろかった。 《⇒参考盤[3]》

 

■ 録音 

 

 このアルバムのレコーディング・エンジニアとしてクレジットされているのはフィリップ・サイニー。今世紀に入るころからシャイーの大半の録音を(ジョナサン・ストークスとともに)担当してきたエンジニアだ。シニーとかスネーとか表記されていた時分にショルティの「リング」のリマスタリングを行ったのも彼だった。このようにデッカのメイン・プロジェクトを任されているエンジニアだが、コンセルトヘボウ録音に関してはどうしてもジョン・ダンカーリーと比較してしまうのでセカンド・クラスの印象しか持てなかった。しかし近年の『メンデルスゾーン・ディスカヴァリーズ』などはなかなかのサウンドになっており、スキル・アップを果たしたのかゲヴァントハウスとの相性がいいのか、とにかく個人的評価は急上昇。今回のブラームスも、期待を裏切らぬ録音だと感じ入った。厚みと透明感を、そして分離と溶け合いをうまく両立させ、密実感のあるオーケストラ・サウンドを聴かせる。表面的にはきれいに整っているがどこか空疎で実在感に乏しい「優秀録音」とは別次元だ。

 といってもそれは、あくまで現代の録音という前提での評価。艶っぽさが乏しいのはオーケストラの個性だとしても、立体感や空気感、シャープな迫力、低音域の量感(量そのものではなく)など多くの面で、アナログ時代のデッカ・サウンドには及ばない。当方の貧弱な装置と狭い部屋で再生してもそのように感じるのだから、実際にはもっと差があるに違いない。クラシック音楽のレコーディング・サウンドは、テクノロジーの進化に逆行して魅力を失ってきているのだが、その一因については本稿の最後に。
《⇒参考盤[4]》

 

 ちなみにデッカによるゲヴァントハウス管のレコーディング場所は、1991年の初録音以降の「退廃音楽シリーズ」等はパウル・ゲルハルト教会で、カペルマイスターであるヘルベルト・ブロムシュテットのレコーディングからは新ゲヴァントハウスに移った(最初の録音は就任に先立つ1995年)。オーケストラが本拠地とする演奏会場を録音に使う旧フィリップス等の他社と違って、レコーディング向きの音響効果を有する場所をその都度探すというのがデッカのポリシーだったはず。この会場変更は、教会側の都合なのかブロムシュテットの意向なのか、はたまたゲヴァントハウス側で何かが改善されたのか、理由はわからない。ともあれ、その後プロムシュテットからシャイーへの交代を経て現在に至るまで、一貫してこのホールが使用されている。

 

■ 参考盤

CDジャケット

[1]コンセルトヘボウ盤(デッカ、1987〜1991年録音)

 シャイーによるブラームスの交響曲は、今回の全集に先立つ四半世紀前に当時の手兵コンセルトヘボウ管弦楽団を起用した全集が作られている。その旧全集は演奏時間が新全集より一割前後も長く、オーケストラの暖色系の音色をグラマラスに響かせて「明るく美しい重量感」を生み出すという、なかなかユニークなブラームスだった。新旧の録音がこれほど極端に異なることについては、解釈に一貫性がないとか何を目指しているのかわからないとか、批判や文句を投げかける向きもあるだろう。しかしオーケストラの個性に合わせて異なる表現をとることも、指揮者にとっては一つの方法論だ。マーケティング至上主義の昨今は再録音CDの商品企画性という側面も無視できない。旧録音とは異なる版で再録音を果たしたシューマンやメンデルスゾーンの例を考えあわせると、シャイーのこの姿勢にこそ一貫性を見出すべきではないだろうか。

 ちなみにコンセルトヘボウとの旧全集は、1988年から一枚ずつ制作されたアルバムを1993年のチクルス終結時に集成したものだが、その途中で企画面の路線変更がなされたためか、フィル・アップが「大学祝典序曲」とシェーンベルクとウェーベルンという、どうも納まりのよくないラインナップになってしまっている(海外再発盤は序曲のみ)。

CDジャケット

[2]マッケラス盤(テラーク、1997年録音)

 テンポや奏法や編成などに独自の検証成果を反映させようとした(らしい)点において、チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管による交響曲全集は、シャイー新全集のプロトタイプといえそうだ。初演当時の響きを再現するために旧式の金管楽器を使ったり弦の人数を絞って(10-8-6-6-4)対向配置にしたりと徹底しているが、シャイー新全集には「ブラームス本人が指揮・共演したオーケストラ」という伝統面でのアドバンテージがあり、これはそれぞれの個性ということになるだろう。シャイー新全集と酷似しているのはテンポ設定で、チェンバー・オーケストラ編成のすっきりした響きとあいまって、極端に表現すれば「爽やかで軽快なブラームス」という特異な全集となっている。第1番第2楽章の初演版を収録していることも共通点。

 テラークらしくマイクロホンを二本に限定した録音は、マーキュリー・リビング・プレゼンスほどの生々しさや音場感を獲得できているわけではないものの、サウンドの方向性が演奏内容と一致しているようなので、マッケラスが狙ったであろうテクスチュアの再現という点では成功しているように感じる。CDは「大学祝典序曲」「ハイドン変奏曲」を併録した三枚組に、マッケラスのインタビューを収録した特典CDが付属していた。

CDジャケット
 @

 

[3]他の管弦楽曲

 シャイーの新全集は「交響曲・管弦楽曲全集」かと最初は思ったが、レコード会社のコピーに「いくつかの管弦楽曲」とあるように、そうではなかった。本人以外の編曲を容認するならばハンガリー舞曲の残り18曲やピアノ四重奏曲第1番(シェーンベルク編)などがあるし、なにより二つのセレナードはいったいどうなっておるのか? と思ったのは、ベルナルト・ハイティンクとコンセルトヘボウ管の全集CD(旧フィリップス、@)で四枚組のDisc4がセレナードだけで占められていると知ったときに覚えた違和感を、今回の三枚目から連想したからだ。その全集では、前半10曲が録音されていたハンガリー舞曲のうちブラームス編曲の三曲だけしか収録されていなかったことも、不満といえば不満だった。とはいえ同一楽団の演奏で揃えたものとしては、このハイティンク盤が「交響曲・管弦楽曲全集」にもっとも近い存在かもしれない。演奏もなかなかの高水準で、特に1976年録音のセレナード第1番は牧歌的なムードを最大限に表現したすばらしい演奏だと思う。

 A

 

 二曲のセレナードを組み合わせたCDで他に気に入っているのは、イシュトヴァン・ケルテス指揮ロンドン響のデッカ盤(A)。ともに1967年の録音で、第2番の初出はドヴォルザークの管楽セレナードと組み合わされたLPだった模様。若書きの欠点を魅力に転化したかのような、みずみずしい演奏だ。ゴードン・パリー(第1番)とケネス・ウィルキンソン(第2番)がキングスウェイ・ホールで収録した極上サウンドもたまらない。セレナードについてはこのハイティンク盤とケルテス盤があればほぼ満足なのだが、やはりシャイーとゲヴァントハウス管の演奏でも聴いてみたいように思う。だがいまどきそんなCDを出してもほとんど売れぬであろうことは想像に難くない。

CDジャケット
 B

 

 

 一方のハンガリー舞曲集。手元にある全曲版は、ドイツ・グラモフォンのボックスセットに入っているクラウディオ・アバード指揮ウィーン・フィル盤(B)一枚のみ。1月20日に亡くなったアバード追悼の意も込めて(こんな曲でいいのかとも思いつつ)再聴した。曲想も編曲者もバラバラで雑多な曲集をすっきりとまとめ上げた、標準的規範的な全曲演奏だ。DGの「ブラームス大全集」という企画用に録音されたそうだが、さもありなんと思わせる。そして聴いたあとに残るものが何もない。ワタシとアバードとの個人的な関係はたいていこんな感じで、どうも相性がよくないらしい。レコーディングにはなぜかデッカのホームグラウンドだったソフィエンザールが使われているものの、エンジニア(クラウス・ヒーマン)はデッカの人ではなかった。音場の立体感と実在感が乏しい平均的DGサウンドにくらべると心なしかよい音に聴こえたが、気のせいかもしれない。

CDジャケット
 C
CDジャケット
 D
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 E

 続いては手元にあった抜粋版のCDをつまみ食い的に聴きくらべてみた。ワイルドでキレのいいアンタル・ドラティ指揮ロンドン響(16曲/1957&1965年録音/マーキュリー、C)、緩急自在にして鬼気迫る迫力のフリッツ・ライナー指揮ウィーン・フィル(6曲/1960年録音/デッカ、D)、ひたすら美しいハインツ・レーグナー指揮シュターツカペレ・ドレスデン(14曲/1973年録音/ドイツ・シャルプラッテン、E)、そして上記のハイティンク(1980年録音)。聴き終えてみれば、「ライナーはシカゴ響と全曲を入れてほしかった!」とむなしく切望するばかり、という結果に終わった。ライナーとウィーン・フィルの録音は8曲あるはずなのだが、手持ちの「デッカ・レジェンド」シリーズのCDは容量の関係で6曲しか入っておらず、さらに欲求不満がつのるのだった。

 なおゲヴァントハウス管はクルト・マズアの指揮で全曲を録音している(1981年、旧フィリップス)。しかし、彼らが同じころに録音したリストのハンガリー狂詩曲集をかつて聴いた限りではたいして期待できなかったので、いまも未聴のまま。そのうち安い中古盤を見つけるまでの楽しみにしておきたい。

[4]DG盤

 レオニダス・カヴァコスを迎えて新全集と同時に録音されたヴァイオリン協奏曲は、どうやら国内盤が出ないらしい。シャイーとゲヴァントハウス管はそのわずか5年前にヴァディム・レーピンと同曲をレコーディングしているからだろうか。しかしそのレーピン盤はドイツ・グラモフォンから出たものだった。そのさらに数年前、クリスティアン・ツィマーマンの共演者としてラトル指揮ベルリン・フィルがDGに登場した際はちょっとした話題になったが(曲はやはりブラームス)、個人的にはシャイー指揮ゲヴァントハウス管のDG録音のほうが驚きだった。ラトルのときに「やっと今のラトルBPOをまともな録音で聴ける」などと言われたことが、逆になってしまっているのではないか。こうなるとシャイーとゲヴァントハウス管によるブラームスを素材にして、デッカとDGの聴きくらべをせずにはいられない。

 というわけで、レーピン盤を購入した。録音場所はデッカと同じ新ゲヴァントハウス。となるとサウンドの相違はエンジニア次第ということになるのだが、なんとDGの録音を手掛けているのも同じくサイニーなのだった。カラヤンの「サロメ」(旧EMI)のときのようにデッカからエンジニアも貸し出されたのかと思ったが、調べてみるとサイニーは20年を過ごしたデッカを離れていまやフリーランスになっているという。たしかにこんなに録音が激減してしまっては、特定のレコード会社に専属する雇用形態など維持できないのだろう。

 そういう次第で、DGのレーピン盤のオーケストラ・サウンドはデッカの交響曲全集と大差ない。エンジニアもホールもオーケストラも作品(作曲家)も同じなのだから当然だ。マルチマイク方式のDGとそうではなかったデッカとでは、サウンド・プレゼンスの再現性において大きな違いがあったものだが・・・。サイニーはDGのセッションにもデッカ・ツリーを使用したのか、そういうメソッド自体がいまや廃れているのか、近年の事情はよくわからない。ともあれ、「デッカ・サウンド」という概念は過去のものとなってしまったようだ。これはEMIの消滅よりも大きなショックだった。

 

2014年2月24日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記