リストの「前奏曲」 〜 佳演太鼓、名演八景
文:青木さん
旧盤 新盤 リスト
交響詩「前奏曲(レ・プレリュード)」S.97
(1)ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (16:12)
録音:1966年5-6月 ゾフィエンザール、ウィーン
デッカ(国内盤 POCL-4328)
(2)ズービン・メータ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (16:09)
録音:1994年1月 フィルハーモニー、ベルリン
ソニー・クラシカル(国内盤 SRCR9954)■ プレリュード
えーしばらくお付き合いを願うわけですが、昔から「男が憧れる三大職業」と申しまして、プロ野球の監督、映画監督、オーケストラの指揮者、風呂屋の番台、総理大臣、AV男優、とっくに三を超えておりますがこの中から適当に三つ選んどけという、まあ三大ナントカいうんはだいたいがええ加減なもんでございます。桂米朝師匠があるパーティでそんな話をしたら、すぐその場で大阪フィルの指揮をオファーされたんやそうですな。欧州ツアー資金集めコンサートの客寄せパンダ役というオチやったんですが、朝比奈隆さんに特訓を受けた上で「カルメン」やら「白鳥の湖」やらをみごと振って三大願望の一つを達成したと申しますから、まぁ立派なもんです。しかしなんですな、指揮者もええんですがワタシの場合はオーケストラのティンパニ奏者、これにあこがれるわけでございまして。コンサートなどに参りますというと、もう音から見た目から、ティンパニがいちばん目立っとる。あれは実に格好ええもんです。指揮者とちごうて大きな音を実際に出すいうんが、やっぱり強みや思います。もっとも音を出してへん時間の方がずっと長いんですが、叩いてないときもどっしり構えて、後ろからオーケストラにこうグッと睨みをきかせてるようでして、なんともいえん存在感のあるところがよろしいな。なかには見るからに暇そうにしてる奏者もいてますが、あれはカッコええとは言えまへん。なんやあのオッサンえらいボーッとしとるな、コンサートがハネたらどこへ飲みに行こか考えとるんとちゃうか、みたいに客席にいるこっちもいらん想像を巡らせたりしまして、気が散ってしょうがない。実演というのも良し悪しでございます。ではレコードやCDならええのかと申しますと、そのティンパニがなんや妙に奥に引っ込んでる、音がちいそうて聴こえにくい、といったことがありまして、あれはワタシらのようなティンパニ好きにとっては困りもんですな。なにをそんなに遠慮しとるんや、もっと気合い入れて叩かんかいドあほ!と文句言うてもどないもなりまへんけど、それが指揮者の意図なんか録音技術の問題なんか、理由がようわからん。まあそんなことで悩んでみても結局は欲求不満がたまるばっかりなんですが、特にその傾向の強い曲が、今回採りあげますリストの交響詩「前奏曲」というわけでして。
(プレリュードならぬマクラ、以上。本題は普通にまいります)
■ 幻のヘボウ盤
ロマン派野郎フランツ・リスト。超絶テクニックを誇るアイドル・ピアニストとしての波乱の生涯が『リストマニア』なる映画になったほどの人で、重要とされるピアノ作品をたくさん残していますが、一方では「交響詩」の発明者としてオーケストラ好きにも知られた存在でしょう。しかし彼が遺した13曲の交響詩は、”今日「前奏曲」以外、演奏されることはまれである。”などとwikipediaに書かれてしまう有様で、リヒャルト・シュトラウスなんかとは大違い。CDも少ないですしね。
そんな中ベルナルト・ハイティンクによる全曲録音をまとめたフィリップス”DUO”シリーズ×2のCDが何度も再発売されてきたせいか、「リストの交響詩集といえばハイティンクとロンドン・フィル」と頭に刷り込まれてしまいました。そして9月9日発売のハイティンク80歳記念再発シリーズの広告にコンセルトヘボウ管との「レ・プレリュード」(UCCD4332)が予告され、どうせ誤植だろうと決めつけた書き込みで当An die Musikの掲示板をけがしてしまったのが2ヶ月前。しかしそれは、同シリーズの「新世界」同様、まさかのコンセルトヘボウ世界初CD化だったのでした。ヘボウのレコーディングはメンゲルベルク指揮による80年前のものしか知らなかったので、放送録音のCD化でもされぬものかと切望していただけに、今回のフィリップス録音の復刻はまさに国宝級文化遺産の歴史的発掘にも匹敵する大事件。ありがたく拝聴いたしました。
ところが! な、なンということかッ! ジャケットやCD盤の表記とは違って、実際に聴いてみるとその音源はロンドン・フィルの録音だったのです。それやったら持っとるわ! 広告のミスどころかこれでは詐欺商品、JAROではなく消費者庁マターの不当表示、あゝ幻のコンセルトヘボウよ・・・そういえば「幻想」のフィルアップというのも皮肉な話です。
このレコード会社は、ほんの数ヶ月前にもアンセルメ指揮のドビュッシー集(UCCD4122-24)で同じ音源をダブって収録するという失態をしでかしています。5年前に出たE.クライバー指揮コンセルトヘボウ管の「英雄」紙ジャケ盤(UCCD9236)はピッチ狂いまくりの欠陥ディスクでしたし、クーベリックのブラームスでは「CD詰め込みのための提示部リピート勝手にカット疑惑」もありました。名演・名録音に敬意を払って愛情を込めた名盤商品を作るどころではありません。こんな不誠実なことを繰り返しているユニバーサル・ミュージック社は、将来きっと報いを受けることでしょう。
■ 楽 曲
気を取り直して、手持ちの各種CDを再聴しました。ところで、前奏曲なのに交響詩・・・慣れるまではかなり違和感ありましたねぇ。やはりタイトルは「レ・プレリュード」のほうがシックリきます。形式の束縛から逃れるために発明したはずの「交響詩」なのに、既存の諸形式を再導入したR.シュトラウスの作品のほうがポピュラーになったのは皮肉な結果である。といったことを昔なにかで読んだことがあります。
でもこの曲の形式というか構造は、思いきり分かりやすい四部構成ですね。元になった(実際には後から当てはめたらしい)ストーリーはラマルティーヌという詩人の「人生は死への前奏曲に過ぎぬ」という主旨の詩だそうで、「愛は輝く朝焼けだが→嵐がその幻影を乱し→傷ついた魂は穏やかな田園で癒されるが→ラッパの合図で戦場に出て力を試すのだ」というその要約を読めば、もうズバリそのままの曲展開。思わず『ウィリアム・テル』序曲を思い出したりもして、こんなに単純でいいのかと心配になるほどですが、そのわりには初心者向け名曲というほどのポピュラリティはなく、さりとて通好み的な渋いスタンスがあるわけでもないという、どうにも中途半端なポジションなのがもどかしい。個人的には大好きな曲ですんで。
■ 新旧メータ盤
聴きくらべの結果、マイ・ベストはウィーン・フィルを指揮したメータの旧盤でした。彼にとって最初期の録音ですが、ワタシの当曲スリコミ盤であり、他の演奏をいろいろ聴いた現時点においてもなお理想的なる演奏・録音。スッキリと見通しがいいのに、コクやメリハリも十分です。演出臭を感じさせず、自然体の魅力が全体にみなぎっている、そんな演奏だと思います。一方でアッケラカンと能天気な感は否めませんが、オーケストラのふくよかで深みある美音がそれを補って余りある。そのサウンドを過不足なく捉えた録音も、なんというか「音楽的」なレベルにおいて最上級と申せましょう。重要ポイントのタイコ(ティンパニや小太鼓)についても、その迫力や量感やキレのよさ、音量や音色や定位、すべて文句なし。この頃のウィーン・フィルのティンパニは、コンセルトヘボウ管とは少し違いますが、ほんまにええ音ですなぁ。ほれぼれします。この録音が入った元のLPはワーグナーの前奏曲類と組み合わせたまぎらわしい選曲の一枚でしたが、CDはあの超名演のブラ1にフィルアップ。個人的には、いわゆる「無人島レコード」の第一候補かも。
さてアナログ時代デッカ録音のメータを好むワタシにとって、大味でユルフンになったといわれるその後の彼はどうでもいい存在でした。でも改めて考えてみるとそれは本や雑誌等の世評で判断しただけで、実際にちゃんと録音を聴いたわけではありません。この曲の再録音を聴きたくなり、リスト交響詩集のCDを入手。実はさほど期待していなかったのですが、意外とよい演奏で驚きました。名演である旧盤からの進歩は特に感じられませんけど、オケをよく鳴らしつつしっかりコントロールした、聴きごたえある佳演というところでしょう。タイコもよくて、ティンパニのサウンドは(音色がちょっとだけ妙とはいえ)ほぼワタシの理想形。小太鼓の突出がちょっと違和感あるものの、演奏全体としては気に入りました。つまらん世評に惑わされてはイカンと反省。
■ 他の演奏
手持ちの他のCDについてもコメントを。タイコの落語『火炎太鼓』にちなんで(ちなむ必要もないんだけど)「佳演」「名演」とその他にむりやり分類。いつもと同様、評論ではなくすべてワタシの勝手な感想ですので、大いなる寛容の心をお持ちいただきますよう、伏してお願い仕ります。
【名 演】
(3)フリッチャイ指揮ベルリン放送響(1959 DG)16:43
ほの暗い地味な音色で低音の量感がズッシリ、こういうのを純ドイツ風というのでしょうか。遅いテンポなのにダレることなく、ビシッと筋が通っています。ティンパニも渋すぎるサウンドで轟いていてよいのですが、小太鼓が聴こえにくいのはやや難点。CDは「新世界」との組み合わせ。(4)クリュイタンス指揮ベルリン・フィル(1960 EMI)17:55
かなりテンポが遅く、少々間延びする箇所がないでもないですが、全体としては優美なる演奏。弦楽の滑らかなフレージングを、大音量のティンパニがグッと引き締めています。全体におおらかな音楽作りなので、細部の詰めは別として、スケール感があるのもいい。録音のせいもあるでしょうが。(5)アンチェル指揮チェコ・フィル(1964 スプラフォン)16:41
これは下記のドラティ盤と正反対で、他の楽器が埋もれ気味だったり急に突出したりと不安定ななか、ティンパニだけは終始オンマイクの大音量。バランスが悪いといえば悪いんでしょうけど、こういうのなら歓迎・・・勝手なもんですわ。各部分のていねいな描き分け、なんともいえず深みのある弦楽の響きなど、さすが名演と評価される録音だとも思いますが、個人的にはマルケヴィチを髣髴とさせるこの「ティンパニ協奏曲」状態に燃えました。”GOLD EDITION”シリーズだとVol.42に入っています。【佳 演】
(6)メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ管(1929)15:08
こりゃまたやりたい放題、妙なタメやテンポ操作、纏綿たる泣き節など、ほとんど演歌チックな怪演ですが、これがメンゲルベルクのロマンティックな個性というものなんでしょう。その意のままになっているオーケストラもすごい。もちろん音は貧弱、しかし一聴の価値はあると思います。(7)ショルティ指揮ロンドン・フィル(1977 デッカ)16:50
彼もハイティンク同様、本妻オーケストラとR.シュトラウスの交響詩の名録音を残しながら、リストの交響詩には当時兼務していた二号オケ(ロンドン・フィル及びパリ管)を起用。あんたらリストを軽視してませんか? メータ旧盤をいかつくしたような演奏で、あいかわらず表題性を微塵も感じさせない「サウンド志向」が痛快。ティンパニは意外と控えめ。金管のみなさんにはもうちょっとがんばってほしかったですけど。(8)バレンボイム指揮シカゴ響(1977 DG)15:56
ショルティがヨーロッパでリストを録音していたころ、イリノイ州シカゴでは客演時代のバレンボイムがドイツ物とロシア物の小品集を何枚も録音していました。なぜかイマイチの演奏ばかりが並んでいるんですが、その中でこの曲は出来のいいほう。少しこぢんまりとしていて、せっかくのオーケストラの個性を活かしきれていませんが、それでもソリッドな迫力や各部分の描き分けはちゃんと味わえます。ティンパニは中庸的。CDは昔ガレリア・シリーズで出たきりのようです。【その他】
・ドラティ指揮ロンドン響(1960 マーキュリー)15:42
これは最悪ですね。ティンパニの音がほとんど聴こえず、音のバランスが異常です。いつものキビキビしたドラティ調は、意外にもこの曲には相性がよくないようで、全体にもの足りない。ドラティ+LSO+マーキュリーと揃ったのにこれはあんまりひどいやおまへんか・・・というガッカリ録音。・カラヤン指揮ベルリン・フィル(1967 DG)17:14
アンチェル盤とともに世間で名演とされるもので、なるほどと感じはしますが、ワタシの好みには合いませんでした。ここまでネットリ大仰に表情づけをされると、辟易してしまいます。「ワシはこうやりたいんや!」という意思が感じられるメンゲルベルクと違って「こうやれば劇的効果が高まるだろう」という作為が先にたつようで。肉厚の響きの弦楽は、奏法のせいもあっていかにも歯切れが悪く、管もたっぷり鳴っているのに肝心のティンパニは控えめ。スッキリしない聴後感。・ハイティンク指揮ロンドン・フィル(1968 フィリップス)14:59
これもドラティ盤同様、ティンパニが引っ込みすぎ。最後の部分でようやくマトモに聴こえてきますが、時すでに遅し。その第四部の入りでラッパがつんのめっているのは編集ミスか? 全体としてはあっさりした演奏。それにしてもロンドン・フィルというのは地味な音色ですねぇ。今回の再発盤を聴いた人に「コンセルトヘボウもたいしたことないな」と思われたりするのは悔しいデス。・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管(1977 EMI)15:02
これもパッとしない演奏。オーケストラの音色が地味すぎる上、技術的にもなんだかたよりない感じ。マズアも思い入れ乏しく事務的に指揮しているようです。厭味のないところはいいんですが。ティンパニや小太鼓もチープな音色で、音量や音場感はよいだけに残念。・ショルティ指揮シカゴ響(1992 デッカ)15:16
「幻想交響曲」の余白に入っている録音。旧盤よりテンポが速くなっていますが、せわしなさが先に立ちスケール感が縮小したという、悪いほうの変化と言わざるを得ません。ライヴ録音のせいもあるのか演奏・録音ともに細部の詰めが甘く、彼らのデッカ録音の失速を示す好例、というか悪例です。この組み合わせで70年代にスタジオ録音してほしかった。・金沢多美&ユヴァル・アドモニーによるピアノ・デュオ(2007 ナクソス)15:17
最後は、リスト自身の編曲による二台ピアノ版。当然ティンパニは入っていませんが、そのパートをどのように置き換えているのか・・・と興味を持って聴きました。結論的にはほとんど無視、ティンパニが超オフだったドラティ盤の感覚です。これはつまり作曲者が重要とは思わなかったパートであると判断して弱く叩かせたのだとしたらドラティすごい!となるんですけど、まぁそれは考えすぎというものでしょう。以上です。フルトヴェングラー、バーンスタイン、シノーポリらも録音しているようですけど未聴。けなしたディスクを愛好されている皆様、あいすみません。なにもティンパニだけで優劣を決めるわけではありませんが、例えば「ツァラトゥストラ」の冒頭や「春の祭典」なんかでティンパニがほとんど聞こえないような演奏は、やっぱり願い下げですよね。ワタシの場合は「レ・プレリュード」もそれと同じというわけで、どうも因果な耳です。あと、かなり展開がわかりやすくオーケストレーションも効果的な曲ですので、ふつうに素直に演奏しても十分に説得力を持たせられると思います。あえて劇的効果を狙った華麗な力演は、リストの他の交響詩ならともかくこの曲には過剰なだけではないでしょうか。
他の交響詩といえば、その最後の作品は「揺りかごから墓場まで」という曲です。揺りかごから始まる人生は、墓場へのプレリュード。しかしこんな好き勝手な感想文ばかり書いていると、墓場では地獄に堕ちてしまうかも知れません。
■ ポストリュード
・・・で、鯖に中って地獄へやってきてしまいました。三途の川を渡り陸に上がると、そこは賑やかな地獄のメインストリート、大阪御堂筋ならぬ「冥途筋」。あちらは地獄の歓楽街、そしてこちらは芝居町。
三十郎(▲)
地獄にそんな興行もんなんかあるんですか?
案内人(◆)
ありますとも、あんた。芝居小屋、映画館、寄席、音楽会、なんでもありますのや。も、こっちの芝居見たら娑婆の芝居はアホらしいて見てられしまへんで。名優はみなこっち来てんのやさかいな。
▲
ああ、そら理屈やなあ。なるほど、ほなもう死んだ昔の・・・。
◆
こないだあんた蓮華座の、忠臣蔵の通し。初代から十一代目までの団十郎がみな出てやりよった。ややこしいで。由良之助が団十郎で師直が団十郎で勘平が団十郎で、みな団十郎や。
▲
はぁー。クラシックもおますか?
◆
クラシックの演奏会もあんた、娑婆のなんか聴いてられへんがな。なんせ作曲家本人も出てくるんやさかいな。こないだのリストの自作自演コンサートなんか、リストマニアがキャーキャーゆうて、ひどいもんやったで。協奏曲の指揮してたカラヤンがえらい妬いて、燃えよったんやろな。後半の「レ・プレリュード」なんか大見得切った熱演やったわ。
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娑婆の頃からその曲は大見得でんねん、あの人は。あそうか、録音のときもきっとなんぞあったんとちゃうか。67年4月いうたら、ちょうどザルツのイースター音楽祭を始めた頃やで。
◆
音楽祭いうたら、見てみなはれ、あっちの獄立歌劇場で「欧米オーケストラ音楽祭」やってまっしゃろ。
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あなるほど、書いてあります。えぇ、はあはあ、トスカニーニ指揮NBC交響楽団、クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団、ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカ。またなつかしいもんでんなぁ。
◆
芝居町の向こうの筋は、会社とか商店とかが集まってまんねや。
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看板が見えますな。山一に拓銀、ニノミヤに和光電気。そんなんおましたなぁ。はぁ、船場吉兆。あっちはユニバーサル・ミュージック・・・あの会社は、あらまだあるのと違いますか。
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よう見てみなはれ、肩のところへ「近日入居」と書いてありまんがな。
(桂米朝『地獄八景亡者戯』より一部引用)
2009年9月22日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記