ショスタコーヴィチの交響曲第10番を聴く(前編)
ショスタコーヴィチ
交響曲第10番ホ短調作品93
スクロヴァチェフスキー指揮ハレ管
録音:1990年
CARLTON Classics(国内盤 PCD 2043)ショスタコーヴィチ(1906-1975)。今世紀最大の作曲家の一人である。交響曲第10番は1953年、スターリンの死の翌年に作曲された。したがって、この曲には必ず次のような解説がついて回る(国内盤CDの解説書から)。
- 第一楽章:長くて暗い弾圧政治。苦々しい社会不安が、中心にクライマックスを形成する。
- 第二楽章:スターリン。弾圧政治と社会不安の元凶。
- 第三楽章:人間的考察を感じさせることなく機械的に響く国家的行進曲が意味のない警告で中断される。
- 第四楽章:さらなる闇の世界に突如として希望の光が差し込む。執拗な闇の攻撃をはねのけて、勝利が訪れる。
この曲を知っている人なら、よくできた解説だと思うだろう。確かに、音楽の意味はこのとおりらしい。特に第二楽章は凶暴なサウンドが炸裂する激しい音楽で、誰もが「スターリンの肖像」であることを疑わないだろう。
しかし、こんな解説を必要とする作曲家はショスタコーヴィチだけだ。ショパンやモーツァルトに小難しい解説は要らなかったはずだ。せっかくの解説に文句をつけるのは気が引けるが、本来音楽に対して、こうした堅苦しい解説がなければ、音楽を理解できないというわけではないだろう。音楽を楽しむのに、このような解説がついて回るのはどうもやりきれない。ショスタコーヴィチの音楽にはこの類の解説がむやみやたらと多く、それでなくても陰鬱な感じのするショスタコーヴィチの音楽をよけい暗くしているように思えてならない。ショスタコーヴィッチとは全く可愛そうな作曲家だ。そのうちに、社会主義がどうの、とか、弾圧政治がどうの、とか、延々と続く硬い文章なしでショスタコーヴィチの音楽が、単にサウンドを楽しむために聴かれる時代が来るとは思うが、それはいつになるのだろう。あと20年くらい先だろうか?
それはさておき、スクロヴァチェフスキーのショスタコーヴィチだ。長大な第10交響曲を相変わらず見事に再構築し、骨組みをしっかりと作り上げて聴かせてくれる。構成の堅固な曲であるならば、スクロヴァチェフスキーの面目躍如なのである。この曲は歴史にかかわる蘊蓄がなくても十分楽しめることをスクロヴァチェフスキーは改めて教えてくれる。ソロの多い曲だから、各楽器のソロを楽しもうと思えばそれを楽しめるし、構成を楽しもうと思えば、室内楽的なまとまりを作り上げるスクロヴァチェフスキーの手腕を感じ取り、これまた感心するだろう。
ハレ管は当時あまりぱっとしなかったと聞く。スクロヴァチェフスキーはオーケストラのトレーナーとして名声を博していたから、ハレ管在任の1984-1992年はもっぱら楽団の建て直しの時期だったのではないかと思われる。しかし、もしそうだったとすれば、スクロヴァチェフスキーの功績は十分に認められるだろう。各楽章に頻繁に現れる木管楽器のソロなどを聴いていると、大変華麗だ。技術力がなければこの難曲を演奏することはできないから、わざわざCDまで作ったからには、在任中のオケの技術を記録しておきたかったのかもしれない。
スクロヴァチェフスキーがどの程度この曲の歴史的背景に拘ったか私は興味津々なのだが、おそらく彼は楽譜さえあれば、このような演奏を成し遂げていたのではないかと思われる。暴力的なシーンではスクロヴァチェフスキーは派手にオケをかき鳴らすのだが、全体としてはすっきりとした印象を与える演奏をしている。少なくとも私には、スクロヴァチェフスキーの室内楽的アプローチが感じられる。何度も繰り返すが、長大な音楽の骨格を浮き彫りにするような指揮ぶりが効果的に働いていると思う。ちょっと表現に困るのだが、これは「純音楽的な演奏」だろう。解説なしで楽しめる。強烈さを売り物にし、いかにも「ソ連の圧政に苦しむショスタコーヴィッチの音楽です」といった演奏をしないところが、この人の慧眼であると私は思う。ロシア臭のふんぷんとする演奏も私は好きなのだが、こうした演奏があるからこそCD鑑賞は面白い。
2000年2月10日、An die MusikクラシックCD試聴記