ミレニアム企画 アバド・ケンペのベートーヴェン交響曲全集を聴く
交響曲第4番 変ロ長調 作品60
■ 参考盤
この企画は「アバド・ケンペのベートーヴェン交響曲全集を聴く」なのだが、たまには参考盤から入ってみよう。
交響曲第4番は1806年、ベートーヴェン36才の時に作曲されている。前作は巨大なスケールを持つ交響曲第3番「英雄」があり、4番の後には、緻密な構成と熱いエネルギーの爆発を見せる交響曲第5番「運命」が来る。そのため、交響曲第4番は若干影が薄い存在である。しかし、昔からこの名曲のファンはいたようで、かのシューマンもこの曲について、極めてシューマンらしい詩的なコメントを残している。曰く、「二人の北欧神話の巨人の間にはさまれた美しいギリシャの乙女」と。
この言葉は、あのシューマンが発したものだから、大変有名である。私が昔読んだ音楽雑誌やLPの解説にも必ずシューマンの言葉が引用されていたと思う。だから、私も高校生の頃からベートーヴェンの交響曲第4番はそういう感じの曲だと思い込んできた。でも、どうなのだろう? シューマンの言葉がぴったり当てはまる交響曲第4番の演奏を、少なくとも私は知らないのである。
例えば、ベートーヴェンの交響曲でも偶数番号に特異な才能を発揮しているブルーノ・ワルターでさえ、決して「美しいギリシャの乙女」を彷彿とはさせてくれない。コロンビア響を指揮したステレオ盤(左写真。SONY CLASSICAL、1958年録音)は、期待に反して、なかなか堂々とした演奏なのである。とても女性を連想させてはくれない(ギリシャの乙女ではなくて、戦争の神ブリュンヒルデなら別だろうが...)。ワルターはフレーズをしみじみと歌い上げているから、そうした部分だけを取れば抒情的ともいえるのかもしれないが、全体としてみれば押しが強く、重厚感もある男性的な演奏なのである。
その他にも、私の手許にあったベートーヴェンのCDでシューマンの詩的表現に合致しそうなものはほとんどなかった。かろうじて挙げられるのは、正規盤ではクーベリック指揮イスラエルフィル(DG、1975年録音)くらいか。それとて、やはり純粋には「ギリシャの乙女」を彷彿とはさせない。こんなことは私だけの感想なのかもしれないが、シューマンさん、20世紀のベートーヴェン演奏を聴いて目を丸くするのは間違いないだろう。
そして、ベートーヴェンの交響曲第4番の演奏史(録音史)は、1980年代になって大きな転機を迎える。誰あろう、カルロス・クライバーがこの曲のイメージを一変させてしまったのである。
ベートーヴェン
交響曲第4番変ロ長調作品60
カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団
録音:1982年5月3日、ミュンヘン国立歌劇場
ORFEO(国内盤 30CD-10040)これはカール・ベーム追悼演奏会の模様を収録した記念碑的ライブ録音である。今やこのCDなくして交響曲第4番を語ることはできない。クライバー盤は、クラシックファンなら多分90%以上の人が所有するCDだと思う。今さら解説の必要もないだろう。まず、第1楽章、アダージョからアレグロ・ヴィヴァーチェに移行する部分がすさまじいのである。正確には、33小節目のppから35小節目に入り、大きくクレッシェンドして36小節目には爆発的なffになるのだが、そこから先はあれよあれよという間に終わってしまう。特に第4楽章のスピードは猛烈で、ファゴットが難所をかろうじてクリアする様が聴かれる。そのあたりに来る頃には、聴き手はハラハラドキドキで、完全にクライバーのペースに乗せられている。臨場感抜群のスーパーライブ盤である。以来、交響曲第4番は、クライバーのような爆発的な瞬発力と、猛烈なスピード感がなければ、聴き手が満足しなくなっている。実際、スピード感がない第4番の演奏に興味を感じないと明言するクラシックファンもいるはずだ。この曲に対する聴き手の基本的なイメージを一新するほどの力を持つCDはそうざらにはない。クライバーの面目躍如である。
さて、皆さんはこのクライバー盤を聴いて、何を感じるだろうか?「二人の北欧神話の巨人の間にはさまれた美しいギリシャの乙女」を感じることができたろうか? シューマンもきっとお手上げ状態なのではないかと私は思うのだが、いかがだろうか?
ベートーヴェン
交響曲第4番 変ロ長調 作品60
アバド指揮ベルリンフィル
録音:1999年12月、フィルハーモニーアバドの演奏は速い。とても速い。演奏時間だけを見ると、アバドは別に速くないように見えはする。快速運転のクライバー(上記CD)が第1楽章に9分32秒かけているのに対し、アバドは11分8秒、第4楽章はクライバーが5分4秒のところをアバドが6分44秒になっているのだ。この数字だけなら、アバドは遅いテンポ設定をしているように思えるのだが、クライバーが両端楽章の繰り返しを省略しているのに対し、アバドは丁寧に繰り返しを行っている。事実上、クライバーと同等か、それ以上に速いペースで演奏しているのだ。
アバドがクライバーと違うところは、クライバーが快速テンポであるにもかかわらず、重厚さを維持していたのに対し、アバドは重さを捨て去り、リズムと透明感を選択したところであろう。さらにアバドは、スピード*感*でクライバーを圧倒している。それも機械的、無機的な速さではなく、激しく燃焼しているのである。第1楽章を聴き終わった瞬間に、思わず「ブラボー」を叫びたくなる。そして第2楽章ではベルリンフィルの首席奏者達が腕の見せ所とばかりに、室内楽的なまでの清楚な音楽空間を作り上げる。しかも、アバドは強弱を極めてはっきりつけているから、叙情性の中にも緊張感が見事に表出されている。第3楽章も同様だが、圧巻は第4楽章である。疾風のごとく走り抜ける第4楽章は、弱音から最強音までのダイナミズムが激しい。まさに疾風怒濤の演奏で、すごい迫力だ。ただし、繰り返すが、重くはない。アバドは軽さを追求しているのではなく、透明感を追求しているのであって、指揮者とオケは、透明で緻密なアンサンブルの中にも激情を宿している。それが迫真の演奏に結びついているようだ。基本は畳み掛けるようなリズムと、振幅の大きな音量なのだが、それは激しく波打つ鼓動のようでもある。たちまち熱狂的に盛り上がってくる音楽を聴くと、やっぱりアバドはラテンだな、などと思ってしまう。このような演奏をするからには、アバドは交響曲第4番にかなりの愛着があるに違いない。
さて、ではケンペ盤はどうか。
■ ケンペ盤
ベートーヴェン
交響曲第4番 変ロ長調 作品60
ケンペ指揮ミュンヘンフィル
録音:1973年4月16日〜19日以下で私は誇大妄想めいた書き方をするので、どうかご容赦願いたい。素人のただの印象記なので、一笑に付していただきたい。
私はこのケンペ盤には驚倒した。ケンペの天才を思い知らされるのである。クライバーがいかに優れた指揮者であっても、このようなニュアンス豊かな演奏はしていない。アバドがいかに強力なリズム感の持ち主であったとしても、これほどベートーヴェンの音楽に潜むリリシズムや深遠な哲学を表してはくれない。どんなに優れた演奏を聴いても、この演奏は特異な光を放っていると認めざるを得ないだろう。
ケンペはまず、序奏部分で聴き手の度肝を抜く。序奏部分は、確かに「アダージョ」とはなっているが、ケンペはオケに、人を食ったような超スローテンポで演奏させる。「ああ、これはいつもの手だな...」などと私は高をくくっていたのだが、たちまち思わぬ発見をし始めた。ケンペはそれこそ楽譜の一小節毎に微妙な表情付けをしているのである。それは混沌の中を逍遙する誰かの不安であろうか。はたまた溜息であろうか。「何か」を模索しながら暗闇をさまようかの人は、やがて探していた「何か」を掴む。その瞬間、大いなる希望が生まれる(ように聞こえる)。信じがたいことだが、その瞬間はまるで神話の世界を垣間見るようだ。ケンペは、わずか40小節程度の中でそれだけのことを表現しているのである。
もちろん、ケンペの秘術はその個所にとどまらない。全編にたゆたう微妙な表情が聴き手の耳を釘付けにする。第2楽章など、あまりの耽美的演奏に天国を想像し、感動の極みに達してしまう。それに、木管楽器が何と麗しい音色で旋律を奏でることか。このような至福は、さすがのアバド・ベルリンフィルさえも与えてはくれなかった。必ずしもベルリンフィルだからほかのオケより美しい演奏をしてくれるとは限らないという証拠である。これはきっとケンペの指揮の賜であろう。
楽譜とは不思議なものだ。五線紙の上に音符が並んでいるだけなのに、それを音にする際には、指揮者や奏者の音楽性、あるいは哲学が付与される。それが薄っぺらい、通り一遍のものである場合もあるだろうが、ケンペの場合のように、神話の世界まで想起させることもあるのだ。面白いのは、それほどの世界を垣間見せてくれるのが、クライバーのような快速運転による演奏ではないことだ。我々は、クレンペラーがバイエルン放送響を指揮した恐るべき演奏を知っているが、それは超スローテンポもいいところで、全曲に41分も費やしている。もしかしたらこの交響曲第4番には、何か神秘的な言葉が封印されているのではないだろうか。ケンペといい、クレンペラーといい、ベートーヴェンの書いた楽譜にある、予言めいた「何か」を読み取れた幸せな人たちなのかもしれない。それを読み取ったケンペはこの曲の隅々から引き出せる限りのニュアンスを引き出した。わずか32分の演奏で、聴き手はケンペの至芸に痺れるのみ。
(2000年12月18日、An die MusikクラシックCD試聴記)