クレンペラーのベートーヴェン
■交響曲第4番〜第7番■

交響曲第1番〜第3番第7番〜第9番

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1968年、ウィーンフィルを指揮した「運命」はこちら

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第4番変ロ長調 作品60
交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
クレンペラー指揮バイエルン放送響
録音:1969年5月30日、ミュンヘン
EMI(輸入盤 7243 5 66865 2 6)

 人類の遺産ともいうべき貴重な録音。長らくDISQUES REFRAINという怪しげな海賊盤レーベルでしか聴けなかったのだが、EMIが正式にバイエルン放送局から版権を買ったのか、こうして正規盤が容易に入手できるようになったのは嬉しい。両曲とも1969年5月30日の演奏。同じプログラムが繰り返されたうちの2回目だという。プログラムには「コリオラン」序曲も含まれていたが、こちらはまだDISQUES REFRAINのCDでしか聴けない。なお、ミュンヘンはこの大指揮者を記念し、とある小径にOtto-Klemperer-Weg(Wegは小径)と名付けたそうだが、どこにあるのだろうか?

 第4番:この第4番を作曲したベートーヴェン自身、自分の曲がこれほどまでのスケールを兼ね備えているとは予想もしなかったのではないだろうか。とにかく宇宙的なスケールの大きさである。クレンペラー最晩年の特にゆったりとしたテンポによる演奏であるが、緩みが全く感じられない。それどころか、一音一音が存在を誇示するかのように聴き手に迫ってくる。圧倒的な音楽だ。だから、適当な聴き方は許されない。もちろん正座を要求する。

 クレンペラーの指揮にはいつものことながら派手さはない。しかし、冷気を感じるほど張りつめた空気の中で弦楽器が激しく唸り、ティンパニが強打される時、クレンペラーが作り出す音楽は、まるで神の声を聴くが如き異様に厳粛な雰囲気をもたらす。

 ここまで書くと、「本当かな?」と首を傾げる読者もいると思うが、本当なのだ。確かにこの第4番は第3番「英雄」と第5番「運命」に挟まれたこぢんまりとした愛らしい曲というイメージがあったが、クレンペラーの演奏は「愛らしさ」など殆ど捨て去っているのである。神の声が聴ける代わりに人間の存在が希薄で、あっても第2楽章にしか感じられない。まるでブルックナーの交響曲第9番のようだ。このクレンペラーの演奏を聴くと、人間の存在がいかにちっぽけなものか嫌でも悟ってしまう。

 それにしてもこのオケのうまさはどうだろう。神の声を聴かせるのにふさわしいすばらしい音色だ。どの楽器も絶賛したい。また、このCDは録音も極上で、どの楽器も鮮明でバランスも良い。音色はまろやかにブレンドされ、しかもステレオ感が十分とられている。これは第5番でも当然同じである。

 第5番:一般的に入手可能なクレンペラーの「運命」には下記59年のスタジオ録音がある。それは聴き手の心を激しく鼓舞するほどの名演で、クレンペラーの最高傑作のひとつであるが、このライブ録音の演奏はいっそうスケールが大きい。というより比較にならない。こちらは聴き手に、それこそ天の啓示を与えかねない荘厳な演奏である。第1楽章での強奏は最後の審判のようでもあり、もはや現世にいるような気がしなくなってくる。音楽自体がクレンペラーの指揮によって神々しく輝いてくる。よく解説に使われる一連のドラマ、すなわち、人間の苦悩、闘争、勝利という筋書きはここでは全く語られていない。私にはもっと大きなものが語られているように思える。例えば天空に輝く満天の星。そこに見る宇宙的な広がり。闘争とか勝利とか、そんなことはこの演奏の前では小さなものでしかない。そうした宇宙的な広さが、聴き手を包むのである。もはや並みの演奏ではない。テンポが遅いとか、そういった次元を完全に超越している。信じられない読者は、とにかく聴いてみることだ。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
録音:1959年10月
交響曲第8番ヘ長調 作品93
「エグモント」序曲 作品84
録音:1957年10月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3198)

 第5番:この録音も人類の遺産ともいうべきもので、すべての音楽ファンが必ず聴くべきだと思う。最初の「運命の動機」から聴き手を釘付けにする。この第5番はクレンペラーがいよいよ最後の芸術的境地を示し始めた頃(1960年)に録音されたもの。まさに巨匠風、巨大なベートーヴェンだ。テンポはやや遅い。そして、ものすごい緊張感がみなぎる。オケの面々もスタジオに突然醸成された異様な雰囲気に背筋がゾクゾクしたであろう。

 クレンペラーのテンポは遅めであるにもかかわらず、心理的には音楽が驀進しているように感じる。この演奏から発散される猛烈なエネルギーが聴き手を圧倒するからである。すさまじいとしか言いようがない。迫力だけではない。聴き手に与える感動は計り知れない。大げさに聞こえるかもしれないが、この演奏は聴き手に「夢」や「希望」や「勇気」を与えるであろう。返す返すもこれがスタジオ録音の所産であることに驚嘆する。音質も万全。国内盤のリマスタリングも珍しく成功している。

 クレンペラーがロンドンで人気があった理由はクレンペラーのスタイルがヨーロッパ大陸ではそれほど相手にされなかったのに、海を越えるとまだまだうけたからだという人もいる。が、もしそうだとしたら、ヨーロッパ大陸で当時行われていた演奏とはどんなにつまらないものだったのだろうか?  私はクレンペラーの演奏の有り様を否定するような音楽を聴きたいとは思わない。大体、これほどのベートーヴェンを前に、「うける、うけない」という話はあまりにも低次元だと思う。現在においては、古楽器奏法による演奏が音楽市場を席巻している。現代楽器による演奏は分が悪い。それでもなお、クレンペラーの圧倒的なスケールを誇る「大時代的な」演奏は今後も普遍的な価値を持ち続けるだろう。これが「古い」という言葉で片づけられるようになったら、それこそ音楽の退廃、この世の終わりかもしれない。

 なお、クレンペラーのベートーヴェン第5番には1カ所だけ変わったところがある。 第1楽章の展開部で音楽が怒濤のように進行していく場所で1カ所だけなぜかディミヌエンドしているのだ。どういう理由によるのか私は勉強不足で知らないのだが、大きな音で猛烈に責め立てる印象のある指揮者なので最初聴いた時はCDプレーヤーが壊れたのかと思った。その解釈は上記ライブでも変わらないのだが、どなたかそれが何に基づくのか知っている人がいたら教えて欲しい。

 注:その後に自分で解明しました。2003年5月27日の掲示板に以下のように書き込みをしました。

2003/05/27(Tue) 21:46

クレンペラー指揮のベートーヴェン:交響曲第5番 第1楽章で突然ディミヌエンドして聞こえる個所というのは、展開部、179小節からです。ここは第1バイオリン、第2バイオリンがffで突入し、その後sfで突進します。ところが、182小節目から入るビオラ、チェロ、コントラバスの下降音型のところでクレンペラーは弦楽器の音量をぐっと落としているのです。59年盤のCDでは、4分10秒を過ぎたあたりだったかな?

クレンペラーがなぜここをそのように演奏したのか。

楽譜では、ちょうどビオラ、チェロ、コントラバスが(他の指揮者の演奏では)下降音型を付点音符をともなって力強く奏でるところから、トランペット、次いでファゴット、クラリネット、オーボエ、フルートが、その順に短い音型をリレーしていくのです。クレンペラーは、おそらく、この部分を埋もれさせたくなかったのでしょう。フィルハーモニア管の演奏ではもちろんその部分がくっきり際立って聞こえます。

よく考えてみれば、クレンペラーという人は木管楽器の旋律を浮きだたせて聴かせることがありましたね。ここにその一例が窺えるというわけです。

こうしたことを私は数年前に理解できず、「分からない」としたわけですが、楽譜を見て聴きますと、いろいろなことが分かってきて面白いですねえ。

ところで、他の指揮者は、といいますと、クレンペラーのようなことをしている人は私の記憶ではいません。今回、ベートーヴェンのCDを取り出していくつか聴き比べをしてみましたが、該当個所では皆さん、低弦をズンズン響かせながら怒濤の演奏をしています。例えば、ライナー指揮シカゴ響、セル指揮ウィーンフィル(ライブ)、バーンスタイン指揮ウィーンフィル、カラヤン指揮ベルリンフィルなどなど。

なお、話はここで終わりません。私の居間に置いてあるCDウォークマンには早送り機能がないので、第1楽章冒頭から聴かなければならないものがいくつかありました。例えば、ワルター指揮コロンビア響の演奏です。これ、たいして話題にもならない演奏ですが、すごいですね。今回聴き直してびっくりしました。私は問題個所のチェックも忘れて演奏=音楽に没頭してしまい、気がついたら第1楽章が終わっていました。ややお風呂場的な音響の中で、ワルターは音を引き伸ばしながら演奏させるのですが、これが興奮するの何のって! 「はああああぁぁぁぁ・・・・」と口を開けて聴いているうちに終わってしまったのであります。「おっと、なんてこったい!」と気を取り直してもう一度聴きましたが、やはり「はぁぁぁぁ・・・」。何とか問題個所は「大音量で驀進している」ことを突き止めました。もしかしたら、ベートーヴェンというのは、そのように聴くのが最もふさわしいのではないか、と思いました。いいベートーヴェンを聴けて今私は幸せな気分です。

 ベートーヴェンの第8交響曲は曲想が明るく、一般的には単に軽妙に演奏されることが多いようだ。が、クレンペラーの演奏で聴くと、小規模で目立たない曲だったはずのこの交響曲が突然大交響曲に変身する。聴き手はそれまでに持っていたこの曲のイメージを覆されるに違いない。第1楽章はオケが分厚い響きで鳴り響き、とてもゴージャスな感じがする。フィルハーモニア管がかなり好調だったようで、どの楽器も非常にいい音を出している。すごいのは響きは分厚くても、決して鈍重にならないことだ。クレンペラーの優れたリズム感のなせる技であろう。第2楽章では一転して軽みの世界を表現。弦楽器がズンと入ってくる時に厚い響きが聴き取れるが、これが大変効果のあるアクセントになっている。第3楽章も第4楽章も、見事な演奏だ。交響曲としての音楽の重みとベートーヴェンが追求したであろう軽みが見事に両立している。こんな演奏は他の指揮者では聴けない。おそらくクレンペラーとしても最高の状態で録音できた例だろう。録音も非常に優れている。

 なお、最後に収録されている「エグモント」序曲もドラマチックですばらしい。こうした短い序曲を演奏する時でもクレンペラーはクレンペラーだから、凄みのある演奏をする。わずか9分間の間に音楽が熱く高揚していく。聴き手が得る充実感は比類がない。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
交響曲第7番イ長調 作品92
録音:1955年10,12月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CDM 7 63868 2)

 1955年のEMI正規録音。ウォルター・レッグは55年に第3番とこの第5、7番を録音したが、その後、ステレオ録音技術導入に伴い、別途ベートーヴェン全集を完成させたから、この3曲はあまり日の目を見ないCDになった。演奏がいいのだから、もっとEMIも宣伝しても良さそうなものだ。評判にならないのは「モノラル=古い、悪い」という意識が一般的に浸透しているからだろう。

 まず第7番(第7番が先に収録されている)。

 60年録音盤が極めて重厚な演奏であったのに対し、こちらは響きが十分厚いのは同じとしても、速めのテンポ。きりりと引き締まった颯爽とした演奏になっている。また、マッチョ風の逞しさがあり、ティンパニが強打されるなど迫力も満点。わずか5年の差しかないのに、クレンペラーの演奏スタイルは随分違うように見える。解釈については第2楽章最後の弦楽器がすべてピチカートで終わるなど全く同じだが、受ける印象がすっかり変わってしまう。どちらがいいかは好みの問題だが、ステレオ録音盤が重厚に過ぎて、この曲の舞踏性を台無しにしていると感じる人はこちらの方がいいかもしれない。もっとも、こちらの演奏でもクレンペラーはできる限り分厚い響きを引き出そうとしているらしい。弦楽器の刻みひとつひとつが猛烈な音だ。

 第5番も逞しいベートーヴェンだ。最晩年の演奏のような神々しさには欠けるが、壮大で、雄渾な演奏になっている。音楽は速めのテンポで一瞬のゆるみもなく、緊張感を孕んだまま最終楽章のコーダに向かうのだが、妙に力んだり、大向こうに受けそうな表情付けが全くない。正面からの直球勝負をして大成功している。こうした演奏はよほどの造型感覚がないとできないと思う。クレンペラーはステレオ期に入る頃からゆったりとしたテンポが多くなり、我々リスナーもステレオ録音盤ばかりを聴いてしまうから、クレンペラーがモノラル時代から偉大な指揮者であったことを忘れてしまうのである。テンポはあくまでもスタイルの問題であって、全曲をいかに構築するか、どうやって指揮するか、という造型感覚はクレンペラーは若いときから完全に身につけていると思う。テンポが速かろうと遅かろうと優れた造型感覚に変わりはなかったのではないだろうか。

 ところで、このモノラル録音について。55年には既にステレオ録音が技術的には可能であった。しかし、EMIは大レーベルの中でも特にステレオ録音には消極的であったようだ。それはモノラル録音技術が非常に高いレベルに達していたからだろう。事実、この録音もモノラル録音とはとても思えない鮮明さで、音の厚み、鮮度、解像度、奥行き感、どれもすばらしい。これだけの技術があったらかえって新しい技術を必要としなくなるに決まっている。ただ、EMIも何もしないで時間を浪費していたわけではない。何とこの第7番にはステレオ録音盤があるのだ。別の時間に収録したのではなく、同一セッションであるから、音質を比べるいい材料であろう。下の第7番がそうだ。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第7番イ長調作品92
録音:1955年10,12月
「プロメテウスの創造物」序曲作品43
録音:1957年11月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CDM 7 69183 2)

 この第7番はステレオ録音であるが、上記モノラル録音と同一セッションである。バランス・エンジニアはモノラル盤がDouglas Larter、ステレオ盤が Christopher Parkerである。当時はモノラル盤がメインだったから、あくまでもステレオ盤は実験用だった。ただ、せっかく収録したステレオ盤を捨てるわけにもいかないからこうしてCD化されたのだろう。CD化する際にはChristopher Parker自身がリマスターを行ったらしい。

 では肝心の音質はどうか。ステレオの強みは確かにある。クレンペラーの両翼配置はステレオで初めて生きてくるし、音に透明感がある。なかなか美しい。一部にヒスノイズがあるが、問題ないだろう。しかし、モノラル録音の方が音に厚みと艶があるように感じられてならない。音像もこぢんまりとしていて小さい。ステレオといえども、まだ技術的には不完全だったのかもしれない。私個人はモノラルで聴きたいところだ。

 なお、このCDには余白に「プロメテウスの創造物」序曲が入っている。実は私は長い間、この下にある録音と同一録音と思っていた。収録時間が5.30分で全く同じだったからだ。ところがよく見ると、録音年月が全く違う。さらに確認してみると、バランス・エンジニアもオケの名称も違う! 当然だが、片方はフィルハーモニア管、もう片方はニュー・フィルハーモニア管。これには驚いた。あわてて聴いてみると、音楽作りはそっくり。寸分変わらない演奏で、69年録音の方がややゴージャスな音になっている程度なのだ。これは面白いことだ。録音が12年も違い、その間に指揮者のテンポは他の曲では非常に遅くなっているのにここでは全く同じテンポで演奏しているのだ。おかげで、私は、クレンペラー最晩年のスローテンポは老化によるものでも、身体的な病気によるものでもないのではないかと強く感じるようになった。どうだろうか。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」
録音:1964年5月29日
交響曲第4番変ロ長調 作品60
「レオノーレ」序曲第3番
バッハ
管弦楽組曲第3番から「アリア」
クレンペラー指揮ベルリンフィル
録音:1966年5月12日
ARKADIA(輸入盤 CDHP 571.2)

 2枚組の重量級CD。クレンペラーがベルリンフィルに客演したコンサートのうち2回分をまとめたもの。私は録音順に曲目を記載したが、CDの収録順序は違う。1枚目はベートーヴェンの交響曲第4・5番、2枚目は6番と「レオノーレ」、バッハの「アリア」である。

 解説によれば、ベルリンフィルの本拠地「フィルハーモニー」が完成した1963年10月、クレンペラーをベルリンに客演させようという動きがあり、クレンペラーはすぐさま了解したそうだ。63年10月以降、たびたび客演したと書いてある。今後、ベルリンフィルとの録音がもっと出てくるかもしれない。

まずは1964年5月29日の演奏から。

 交響曲第5番「運命」:どこにも隙のない堂々とした「運命」。クレンペラーの確信に満ちたベートーヴェンである。がオケがベルリンフィルであるせいか、音楽の全体像が非常に均整がとれているのが大きな特徴。なお、解釈は59年のスタジオ録音とほぼ同様。

 第1楽章:一気呵成に聴かせる。遅めのテンポで演奏し、主題提示部のリピートを行っているが、長さも遅さも全く感じさせない。クレンペラーは広大無辺なベートーヴェンの世界を完全に作り上げている。

 第2楽章:ライブらしい感興に溢れた名演奏である。美しい旋律をしなやかに、繊細に歌い上げている。あまりの美しさに陶然となる。

 第3楽章:迫力ある第3楽章だが、ただ驀進するだけではない。オケがすっと動きを止める様はベルリンフィルならではの統一感を見せる。緊張感を維持しながら怒濤の第4楽章に突入。

 第4楽章:怒濤のような演奏をしているにもかかわらず一糸乱れぬ動きが壮観。力強さ、輝かしさ、重厚さが見事に調和。クレンペラーにとってベルリンフィルはなじみの薄いオケであったろうが、音楽はクレンペラーそのもの。ベルリンの聴衆の驚きはひととおりではなかっただろう。

 交響曲第6番「田園」:この「田園」も、そして次の第4番も実のところ、EMIに入れたスタジオ録音とほぼ同じテンポ、同じ解釈によって演奏されている。しかし、もちろん同じ演奏ではない。オケが違うこともあるが、何よりもライブであることの影響が大きい。「田園」にしても57年のスタジオ録音は大変優れたものであるが、ライブでは音楽の暖かみがより直接的に表現されていると思う。その結果、聴き手は今生まれてきたばかりの暖かい音楽に包まれ、言い知れぬ幸福感に浸ることができる。

 この「田園」ではベルリンフィルといえども小さなミスをしているが、それを補って余りある音楽の大きさまで感じさせるところがすばらしい。激しく力演しているからというわけではない。音楽自体が持つスケール感がそこはかとなく表出されるのである。

 なお、第5楽章では特に心のこもった演奏をしているのでご一聴ありたい。

 また、テンポが57年のスタジオ録音と殆ど変わらないと書いたが、これは実に面白いことだ。このベルリンフィルとのライブが行われた頃、クレンペラーは猛烈に遅いテンポで演奏し始めている。にもかかわらず、この65,66年ライブではそうしたスタイルになっていないのである。どの曲においても一様にテンポを落として演奏していたわけではないことが分かる。

 1966年5月12日の演奏は以下のとおり。

 交響曲第4番:この曲も基本的解釈は57年のスタジオ録音と同様。

 第1楽章:切れ味鋭い弦楽器群の動きがすばらしい。音楽には57年スタジオ録音盤や69年のバイエルン放送響とのライブに見られるような極端なまでの重厚さはないが、その分前へ前へ進んでいく躍動感が強い。この曲の美質がよく現れた演奏だと思う。

 第2楽章:ベルリンフィルの作り出す美しい響きを堪能。このCDの音質は決して良くはないが、それでもベルリンフィルのうまさは隠しきれない。ベルリンフィルは伸びやかに名旋律を歌いこなし、天国的な気分にさせる。今聴いているフレーズが「終わってもらいたくない」と思わせる。

 第3楽章:自然体による自由闊達な演奏のように思える。それでいて音楽は深い慈愛に満ちている。どうしてこんな演奏ができるのか不思議だ。なお、木管のトリオが惚れ惚れするほど美しい。

 第4楽章:この楽章も奇を衒わない演奏だ。しかし、弦楽器の各声部が生き物のように動き、木管楽器は最高の妙技を見せるし、実にすばらしい。こうなるとベルリンフィルの強力な表現力に脱帽せざるを得ない。

 「レオノーレ」序曲第3番:はじめからクレンペラーのテンションの高さに驚かされる。クレンペラーは短い序曲の演奏に異常に燃えるが、ここでもそうだ。まるで交響曲響をひとつ丸ごと聴いたような充実感がある。この演奏は、月並みな表現で申し訳ないが、ダイナミックで巨大。ライブならではのテンポの揺れもあり、緩急の差により燃え立つような音楽になっている。

 バッハの「アリア」:実に7分近くかけて演奏される超スローテンポの「アリア」。演奏後すぐに拍手が入っているから、アンコールに演奏されたのだろう。喫茶店などでかかっている演奏とは全く違う曲に変身している。バッハの曲をこんなにロマンティックに演奏していいのかどうか議論の分かれるところだが、会場ではこれを目の前で聴かせられ、あまりの美しさに声も出なかった人が多いだろう。

 

 

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」
劇音楽「エグモント」 作品84(序曲を含め4曲)
録音:1957年10月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
バレエ「プロメテウスの創造物」序曲 作品43
録音:1969年10月

クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CDM 7 63358 2)

 田園はさすがにクレンペラーも苦手なのではないかと思ったのだが、全くの 杞憂であった。この人の手にかかると、ベートーヴェンの交響曲がたちまち最高の状態で再現されるのだから恐れ入る。ちょっと間違えるとただの甘い曲になりがちな田園をすばらしい大交響曲に仕立てているのはさすがだ。緩除楽章でもしまりのあるすばらしい歌を聴かせている。まいった。

 ウォルター・レッグによると、クレンペラーは「音の感覚的美しさにはほとんど関心がなかった」という。本当だろうか?この田園はフィルハーモニア管が当時いかに優れた演奏者達で構成されていたかを物語る。実に美しい田園だ。クレンペラーはややゆったりとしたテンポで指揮をしているので、この曲に出てくる木管楽器の美しい響きを堪能できる。録音もいいから言うことなしだ。

 しかし、美しいだけの演奏など、クレンペラーが目指したはずもない。美しさが目立ったとしても、やはりこの曲は交響曲であると思い知らせてくれる。それはクレンペラーの見事な造型感覚によるものだ。演奏の設計がすばらしい。勿論、重厚壮大な演奏をすれば交響曲らしくなるというわけではない。その証拠にクレンペラーの田園には、重厚さや壮大さがどこにもない。柔らかい響き、穏和な音楽の流れ、美しい音色。それらが、クレンペラーの指揮によって全く自然に組み合わされ、構築されている。その構築のし方がすばらしいのだ。全くだれることなく、音楽の骨組みをしっかり作り上げている。ゆったり演奏しているが引き締まってもいるのだ。実演によくあることだが、田園の演奏は風景の描写や田園における気分を表現しようと意識しすぎて、とてつもなく輪郭がぼやけた演奏になることが多い。第2楽章に入ると眠りに入る人が多いのはそのためだろう。しかし、クレンペラーは穏和な音楽を奏でているようで意外にきりりとしている。さすがだ。これでは聴き手はおちおち眠ることができない。

 なお、例の「レコードうら・おもて」によると第3楽章のリハーサルに際して、ウォルター・レッグはクレンペラーのテンポが遅すぎると判断し、クレームを付けたという。クレンペラーが「はい、そうですか」といってテンポを速くしたなどということは勿論ないが、私はこのテンポが遅いと感じたことがない。皆さんはどう思われるだろうか? 

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載